伊勢田哲治 文学研究科准教授 「社会運動としての動物の権利」(2010.07.01)

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先日の新聞で、伊藤園が社内での動物実験を廃止し、資生堂も近い将来に廃止する予定だという記事を見かけた(2010年5月29日、読売新聞)。EUでは化粧品や健康製品について動物実験をした製品の販売を禁止する法律がすでに2009年に施行されており、アメリカでも企業による取り組みが進む中で、日本の企業も欧米の市場を維持するために対応せざるをえなくなったということらしい。

このニュースは、多くの日本の消費者にとっては奇異に映ったのではないだろうか。製品の安全性がうるさく言われる傾向にある現代において、製品の安全検査の重要な手段となってきた動物実験が(化粧品などに限定してとはいえ)禁止されるというのは時代に逆行しているような印象を受ける人も多かったかもしれない。

しかし、欧米諸国では動物実験の廃止は非常に大きな社会的な流れとなっている。これは、19世紀以来の動物愛護運動とは一線を画した「動物の権利運動」(animal rights movement)や、動物実験の研究者たちによる「動物福祉」(animal welfare)の取り組みによるところが大きい。動物の権利運動は、動物にも人間と同様な権利があるのだというラディカルな主張をかかげて1970年代に登場し、動物実験や工場畜産(せまいケージに動物をとじこめて管理するタイプの畜産)、衣類などへの皮革の使用などを非人道的だといって批判してきた。動物を物理的に逃がすという実力行使にはしる団体もあらわれて世間の注目をあつめてきた。

「動物福祉」のとりくみはそれより少し前、1950年代からはじまった運動で、いわゆる三つのR(reduce, refine, replace)によって少しでも動物の苦痛を減らそうというものである。化粧品に関する動物実験禁止が可能になったのも、動物福祉の取り組みの成果として代替法が充実してきたからという背景がある。ただ、研究者たちが代替法(3つのRのreplaceにあたる)の開発に取り組んできたひとつの理由は動物実験全廃という動物の権利運動のより過激な主張に対抗する必要があったからで、市民と研究者の両方の運動の相乗効果だということができるだろう。

ひるがえって日本を見ると、欧米の活況とはあまりにも状況が違っている。犬や猫の保健所での殺処分についてはいろいろなところで言及されるようになってきた。しかし、犬や猫がなんらかの意味で人間と同じ権利を持つからだと思って殺処分に抗議している人はあまり多くないだろう。動物実験反対運動については、1980年代から国内にも運動団体はあるものの、おそらく一般の人が彼らの活動について見聞きする機会はほとんどないだろう(5月に岡崎公園で開催されていた「ヴィーガンアースデイ」には複数の動物実験廃止運動団体が参加して映画の上映などやっていたが、こういう場は貴重な例外に属するだろう)。冒頭で紹介した伊藤園の例でも、記事によれば、廃止を決定する際に話しあった相手は「米国の動物愛護団体」だというし、資生堂の場合のきっかけはEUの法律である。日本における動物実験反対運動は、今のところ「外圧」だのみなのである(これは昔からであるが)。

しかしそもそもなぜ欧米では動物に「権利」を認めようというところまで動物のことを真剣に考えているのだろう。欧米人はそんなに動物が好きなのだろうか。これについて詳しく知りたい方は(宣伝になるけれども)拙著『動物からの倫理学入門』を読んでほしいが、こういう運動を担っている人たちは、いわゆる「動物好き」というわけではなく、むしろ社会改革運動家に近い。かいつまんで説明すると、単にホモ・サピエンスという生物学的な種に属するかどうかで決定的に扱いが違う(一方は「人権」を認められ、他方は単なる「もの」でしかない)というのは「性差別」や「人種差別」と同等の「種差別」に他ならない、という考え方にもとづいて運動が進められているのである。

「いやいや、人間と他の動物では、生物学的種が違うというだけでなく、他にもさまざまな能力的な違いがあるではないか」と思う人もいるかもしれない。しかし、たとえばチンパンジーやイルカなどを考えると、人間を特徴付けるとされる能力について、チンパンジーやイルカよりも少ししかその能力を持たないホモ・サピエンスの個体(赤ん坊、認知症、精神障害者などを考えてもらえばよい)が存在する。つまり、「人間には動物にはない××という能力があるから」と言って動物を切り捨てようとすると、ホモ・サピエンスの中からも切り捨てられてしまう人が出てくるのである。しかし、もちろん、そうした能力主義による切り捨てこそ、障害者解放運動などの中で指弾されてきた考え方である。二重基準をさけるには、人間以外の動物にも「人権」に類するものをみとめざるをえない。
 あるいは、単に「遺伝的にホモ・サピエンスと他の動物は異なっているから別扱いしてよい」と主張する人もいるかもしれない。しかし、それを認めると、「女性はY染色体がないから」とか「肌の色に関する遺伝子が違うから」といった理由で別扱いすることも許されることになってしまうだろう。つまり、人権という概念や、女性解放・黒人解放・障害者解放などの運動の中で積み上げられてきた論理を踏まえるなら、その延長線上で動物を「解放」しない理屈を見つけるのは非常に難しいのである。

動物の権利運動が力を持つ理由をこのように分析してみると、逆に、なぜ日本でこの理屈が通用しないのか、が疑問に思えてくる。勝手な推測を述べるならば、日本ではこれまで「整合性」というものに欧米ほど重きを置いてこなかったのではないだろうか。日本でももちろん女性の解放や少数民族の解放の運動は存在してきたわけであるが、そうした運動の参加者や支持者たちは「整合的な主張をする」ことにどれだけ注意を払ってきただろうか。もしそうした人たちが自分たちの主張の根拠を今よりさらに突き詰めて考え、同じ根拠が人間以外の動物にも当てはまらないかと今よりつきつめて考えたなら、もしかしたら日本でも動物の権利運動は大きな運動となるかもしれない。

ただし、動物の権利という考え方を整合性をもって押し進めるのは、それはそれで難しい。一体どの範囲の動物に権利を認めるのか、権利を認める根拠をどう考えるのか、極限的な状況で人間の命を優先するような判断はやはり必要なように思えるが、「種差別」にならないような形でそういう優先関係が持ち込めるのかなど、解決すべき理論的問題は多い。そもそも「人権」という概念や「整合性」がどれだけ重視されるべきかということについても倫理学的には議論の余地がある。

そんなわけで、わたしとしても日本も「欧米並み」になるべきだと頭ごなしに言うつもりはない。しかし動物愛護運動は「動物好き」がやるものだという偏見を捨て、女性差別や人種差別を根絶する社会運動の延長として動物の権利運動を見る視点は、日本でももっと共有されてもよいのではないだろうか。


いせだ・てつじ 大学院文学研究科・准教授・科学哲学、倫理学

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