複眼時評

大塚雄作 高等教育研究開発推進センター教授 「地図なき旅の自由とその責任」

2006.12.01

京都の秋は魅力的である。今年の紅葉は全般的に遅かったが、私の研究室のある吉田南キャンパスでも、桂の丸い葉が黄色に色づき、トウカエデの高木の紅葉が目を楽しませてくれる。桜の紅葉も意外に悪くない。最後は、イロハモミジが朱に染まって締めくくる。大学のところどころに、日常からふと解き放たれる、そんな時空がある。そこに、京大ならではの「自由」の源泉があるのかもしれない。

しかし、「自由」というのは、そう簡単に手に入れられるものではない。この忙しい時代に、皆が常に何かに追われている。「時間がほしい」、とりわけ「自由な時間」がほしいと誰もが思う。だが、黙っていても、「自由な時間」は決して向こうからやってきてくれるものではない。また逆に、たとえ何の制約もない自由な時間が与えられたとしても、それを自由に使うのはこれもまた難しい。自由とはかくも不自由なものである。

■ 大学評価という外圧

人ばかりではない。大学にも今、さまざまな外圧がかけられていて、自由さを失いつつあるかのようである。その一つに、「大学評価」がある。平成一六年度から、すべての大学は、七年に一度、認証評価機関による評価を受けることが義務づけられた。京大は来年度にその義務を果たす予定となっている。また、国立大学が法人化し、平成二〇年度には、法人評価に向けて、大学の教育研究に関する大学評価・学位授与機構による暫定評価が行われる予定である。

この種の「評価」は、京大のように「自由」を標榜する大学にとっては、何とも厄介である。「評価」のための「基準」なるものが外から与えられて、その基準を満たすように、自らを合わせていかねばならないというのは何とも鬱陶しい。しかし、そこから逃れられない不自由さがある。

ただ、現行の「評価」は、実はまだだいぶ自由度が残されている。それは、いずれの評価も、各大学の「目標」が「基準」と結び付く評価の構造になっている点である。すなわち、大学がどういう「目標」を設定するかという点については、基本的に自由である。京大ならば、「自由の学風」という理念を「目標」の筆頭に掲げることができる。

だが、ここで次の不自由さが生じてくる。「自由」ということを、具体的な活動のレベルでどう表現していけばいいのかが存外難しい。言うまでもなく、自由は、それぞれが気まま勝手にバラバラにやっているだけでは達成できるものではない。「それぞれが自由にやってますから、大学全体としての評価はできません」とは言えないのである。大学として、「自由」をどう確保し、維持しているのか、その点が問われていくことになる。これまた難問である。

■ 地図を持たない旅の自由

今、京大総合博物館では、「湯川秀樹・朝永振一郎生誕百年記念展」が行われている。私もふと思い立って覗いてみた。そこには、彼らが、「終生の親友、そしてライヴァル」として、科学の道を歩んだそれぞれの足跡が示されていた。その展示の一角に、「未知の世界を探求する人々は、地図を持たない旅行者である。」という言葉が掲げられている。湯川秀樹の『旅人』の有名な一節である。まさに、彼らは、地図を持たずして、未知なる「素粒子の世界」の旅を全うしたのであろう。地図を持たない旅、何という「自由」であろう。そこに、何か、京大の「自由の学風」の原点を見る思いがした。

湯川秀樹の『旅人』には、その一節に続けて、「地図は探求の結果として、できるのである。」とある。そこに、「評価」の時代にあって、「自由」をどう表現するかの一つのヒントが隠されているのではないか。つまり、地図は先にないのである。道もないのである。地図を持たずしてどう進むかは、それぞれの「自由」以外にない。しかし、一つひとつの藪を切り拓き、そのそれぞれを線として繋いでいくことで、ある道ができる。できた道は、地図に記されていく。それはまさに、「自由」の表現であり、「自由」の責任でもある。

そもそも、我々は、既にある「地図」を見ながら歩いてはいないだろうか。それはあまりに不自由だ。否、地図なき世界を自由に歩いているかもしれない。でも、その歩いた道を、地図に残しているだろうか。そうでなければ、あまりに無責任である。「自由の学風」、学生諸君にとっては「自学自習」というときに、その責任を自覚することは、「自由」を保障していくためにも、欠くことのできないことであろう。

■ 自由な旅の足跡を残す責任

では、湯川にしても朝永にしても、その地図を残せたのは何故だろう。それは、彼らが、素粒子の世界にそれぞれが閉じこもって、自らの天才的な能力のみで成し得たことでは決してない。彼らは、「終生の親友」であり「ライヴァル」であった。そして、彼らを取り巻く、多くの人の存在があった。彼らは、素粒子の世界だけを拓いたわけではなく、素粒子の世界の地図を描くにふさわしい人の繋がりを持っていたのである。

地図を持たない旅は、それぞれが行く道は曲がりくねってバラバラかもしれないが、それを繋いで地図にするための人の繋がりこそ、「自由」を産み出す大学の財産であろう。「評価」に代表される制度的なプレッシャーを受身的に受け止めているだけでは、「自由」は逃げていく。むしろ、それを絶好のきっかけとして、個々の殻を拓き、互いに繋いでいくことで、湯川や朝永が育ったような「自由」な学問共同体の形成が促進されればと思う。そのことこそが、私自身の地図なき旅の目的地でもあるのである。


おおつか・ゆうさく 京都大学高等教育研究開発推進センター教授。
専攻は教育心理学・教育評価。大学評価、ファカルティ・ディヴェロップメントなどのプロジェクトに関わりつつ、授業のクラス(学習共同体)、大学・学部・学科(FD共同体)などのある種の「実践共同体」を形成するという視点から「評価」のあり方を追究している。