文化

〈学生自主管理空間のいま〉 VOL.2 吉田寮食堂編

2009.12.20

広大な面積のキャンパスを持つ京都大学だが、公認、非公認をも含めた様々なサークルが自由に使える多目的スペースは驚くほどに少ない。さらに西部講堂と並び立つ多目的スペースとして有名な吉田寮食堂は今年の春から続く吉田寮新棟建設計画の中で、その存廃をも含んだ大きな岐路に立っている。そこで連載~学生自主空間のいま~第2回の今回は、京都大学内で最も有名な多目的スペースの一つ、吉田寮食堂について取り上げようと思う。(全5回の予定です) (47・魚)

現在の使用形態が作られるまで 1980年代の「在寮期限」闘争をご存じだろうか。1982年の12月に、大学側が吉田寮の廃寮化を一方的に決定し、撤回を求める吉田寮生や学部自治会と大学側の激しい争いが、最終的に廃寮化が撤回される1989年までの長期間にわたって繰り広げられた一連の動きのことである。

1980年代の半ばまで吉田寮食堂は寮生に食事を提供するための機能を備えた文字通りの意味での「食堂」であった。しかし、先述の「在寮期限」闘争における大学側の廃寮化政策の一環として1986年に炊フが配置転換されたことにより、吉田寮食堂は食堂としての機能を停止させられてしまった。その後吉田寮の廃寮化は撤回されたが吉田寮食堂の機能は回復されず、吉田寮食堂は誰も使わない広大な空きスペースとなった。

吉田寮食堂がイベントのために使用されるようになったきっかけは、吉田寮生が寮内のイベントを行うために吉田寮食堂を使用し始めたことであった。クリスマスコンパといった恒例行事が行われたのに続いて寮生によるライブ、寮生の友人の所属するバンドによるライブと徐々に吉田寮食堂をイベントの場として使用する人間の数は増えていき、現在では「誠実に話し合いができる」ことだけを条件にどんな団体でも身分を問わず吉田寮食堂をイベントの場として利用することができる。

また、吉田寮食堂内には、かつて食堂としての本来の機能を果たしていた時代の厨房も残っており、主に食堂部分で演劇、ライブやその他イベントなどが行われ、厨房部分でバンドの練習が行われている。食堂使用者や厨房使用者はそれぞれ定期的に会合を開き、食堂や厨房の運営について話し合いの場を設けている。

特殊な運営形態、「話し合い」方式 吉田寮食堂はその名の通り吉田寮の一部として存在する建物であり、吉田寮生や吉田寮自治会の意向が尊重される空間ではある。しかし、自治会が使用規約を一方的に作り、その遵守を使用者側に押し付けるといったやり方は取られていない。吉田寮食堂の運営の在り方はあくまで寮生と食堂・厨房使用者団体の「話し合い」によって決められている。

形式的には吉田寮自治会という、場の「所有者」と、食堂・厨房使用者団体という、場の「使用者」という2つの立場がたしかに存在するのだが、実際には場を貸す側と借りる側といった線引きはされておらず、吉田寮自治会と食堂・厨房使用者団体の対等な立場での「話し合い」を通じて運営のあり方が規定されている。他の場では見られないこの特殊な運営の形態が生まれた理由は、やはり吉田寮食堂の歩んできた歴史に負うところが大きい。先程触れた通り、吉田寮食堂はもともとイベントを行うためのスペースではない。食堂機能停止や、その後の様々な偶発的な出来事を経る中で、食堂・厨房使用者団体が吉田寮食堂を使用することによってイベントスペースとしての吉田寮食堂は作られてきた。イベントスペースとしての吉田寮食堂の歴史は食堂・厨房使用者団体参加による運営の歴史といっても過言ではない。

もちろん「話し合い」による運営は時に非効率的であるかもしれないし、音出しなどを巡って寮に住んでいる人間と食堂・厨房使用者団体の利害が対立することもある。それでも吉田寮食堂に関わる人たちが「話し合い」を選んでいるのは「話し合い」による柔軟な形での運営を行うことにより、一方的な規則の押し付けを使用者に強いるようなあり方では実現されえない自由度が吉田寮食堂に生まれると信じているからだ。

いくつもの偶然から自然発生的に生まれた吉田寮食堂というイベントスペースの自由な空気は、吉田寮の住人と自治会、そして食堂・厨房の使用者の不断の努力と協力によって守られてきたのである。

突如の建て替え案発表 学生のみに留まらないあらゆる人々に表現の“場”として開放されてきた吉田寮食堂だが、現在その先行きは不透明になっている。きっかけは今年の4月20日に大学当局が「吉田南構内再整備方針(案)」を発表したことだ。この中で当局は寮食堂および西側の“焼け跡=1996年に寮食堂の一部が焼失して以来自治会が管理・運営してきた空き地=に「吉田寮新A棟」を建設する意向を示した。

大学当局側は当初、寮食堂は特に使用されていない空間との認識を持ち、取り壊しは当然といった態度だった。食堂・厨房使用者団体は活動の場が失われることへの危機感を深め、5月18日に要望書を西村周三副学長に提出。①多くの団体・個人が寮食堂・厨房を利用していること、②「新A棟」の建設については可能な限りで現吉田寮食堂の存続を前提として欲しいこと、③どうしても現吉田寮食堂を取り壊さなくてはならない場合は、その説明をすることを訴えた。

調査書の作成と提出 その上で使用者団体としても現吉田寮食堂を存続させた上で「新A棟」を建設するのは可能かどうか独自に調査をした。結果、大学当局から出された参考図面では寮食堂の面積390平方メートルに対し焼け跡は780~800平方メートル、つまり焼け跡だけのスペースでも800平方メートル規模の建物は建てられること。鳥取大学北斗寮(定員196人、鉄筋コンクリート5階建て、居室面積2人部屋で14平方メートル(98室)、建物面積約488平方メートル)や広島大学池の上学生宿舎(定員200人、鉄筋コンクリート5階建て、居室面積全個室で12平方メートル、建物面積約499平方メートル)といった他大学の寮と比較しても、200名規模を収容する学寮は建設可能であることを示した。また京都市や吉田寮周辺特有の規制についても
・「第一種中高層住居専用地域」に指定されており、建物の高さは20メートルを超えてはならない。1階分の高さを3メートルとすれば5階建ての建物を建設できる。
・「容積率(※1)200%」まで、「建蔽率60%(※2)」までと指定されている。吉田寮建物の敷地に対する建蔽率は23%と低くこうした制限に対しても余裕がある。
・「山並み背景型美観地区」に指定されているが、これは主としてデザインに関わるものなので特に問題は無い。
とし、焼け跡の敷地の中だけで二つの施設を建てることは十分に可能であるとの結論に到達。これをまとめた調査書を6月5日、西村副学長に提出した。

当局の対応、未だ不十分 これらの精力的な動きを受け、大学当局側も「新A棟」に集会や課外活動等が可能な空間を設ける案や、寮食堂取り壊しから「新A棟」完成までの期間についても学内に代替スペースを確保する案を散発的に提示しているが具体的な話にはなっていない。また当局側からは寮食堂を一部人間の「既得権益」であり、「外部に開かれていない」とする発言も出ている。これについて食堂・厨房使用者団体では7月29日に「寮食堂は住居である寮に隣接する特異な空間であり、次元を異にする人たちが集まり、対話を重ねる中で在り方が決定される場なのであって、一部のカネや権利を持つ特権者だけが利用できる『既得権益』から最も遠い、誰にでも『開かれた』場である」と、抗議文を提出している。提出された調査書に対する回答は半年以上たった現時点で未だなされておらず、先行きは依然として不透明なままである。

こうした、ある意味危機的ともいえる状況下にあって、食堂も含めた吉田寮建物の価値を改めて見出そうと9月18~30日にかけて「おめでとう!吉田寮ほぼ100周年祭」が決行された。祭では劇団やバンド、パフォーマーなど約30の団体、個人が参加し「場」を大いに盛り上げた。

現在の状況とまとめ 先に取り上げた「既得権益」発言など、当局の態度からは吉田寮食堂の実態を理解していない様子がしばしばうかがえる。だが、よく考えれば当局だけでなく、吉田寮食堂の特殊な運営のあり方を知らずにいる人は多いだろう。この特集を期に、吉田寮食堂という自主管理空間の持つ特殊さと稀少さについて多少なりとも関心を持っていただけたなら幸いである。
(次回は2010年4月頃掲載の予定です)

本文脚注
※1 容積率(ようせきりつ)とは、敷地面積に対する建築延べ面積(延べ床)の割合である。
例えば100坪の土地に1階30坪2階20坪(合計50坪)の建物が建っている場合は、容積率は50%になる。

※2 建蔽率(けんぺいりつ)とは敷地面積に対する建築面積(建坪)の割合である。
例えば100坪の土地に建築面積30坪の建物が建っている場合は、建ぺい率は50%になる。