島と人と海鳥の遺産・冠島
2017.07.01
京都府北方、若狭湾に浮かぶ「冠島」には、驚くべき文化と自然が遺されている。
全周約4km、最高海抜高度約170m。岩石だらけの浜と切り立った崖、そして原生に近い樹林からなる無人島だ。そこには地元の信仰を集める神社があり、また研究者から奇鳥と呼ばれる海鳥「オオミズナギドリ」が約20万羽も棲息している。
この冠島を舞台に、人々とオオミズナギドリの営みが幾重にも織りなされてきた。島の例祭と生態調査に足を運び、その一端を垣間見た。(賀)
記事一覧
冠のような形が名の由来らしい
小橋の村は、日本海に突き出た大浦半島の北部にある。JR東舞鶴駅から車で約20分、小高い山を越え、海を左手に見ながら木造の古い家々と畑の間を抜けていくと、やがて小さな港に出た。午前8時半ごろ、出航を間近に控えた小橋の港は賑やかだ。村の男たちとその家族をはじめ、舞鶴市の職員や海上自衛隊隊員、さらには京都府知事の山田啓二氏までもが集まった。晴れ空にずらりと並んだ大漁旗のもと、ウミネコが飛び交い、太鼓と笛の囃子が響き渡る。9時を過ぎたころ、参加者は各々漁船に乗り込み始めた。
エンジンを唸らせて港を発った船の列は、すぐには沖に向かわない。先頭を走る船が港のすぐ隣にある「竜宮浜」に立ち寄り、浜の前をおもむろに旋回し始めた。2隻目、3隻目も後に続いて円を描き出す。小橋ではこうして、竜宮浜の前を3周してから冠島へ参るのが伝統なのだという。どういった意味が込められているのか、今は定かでないそうだ。
竜宮浜に別れを告げた後は、寄り道なしで島まで一直線だ。船は波を砕いて海原を突っ走っていく。ふと、港にいたウミネコたちとは違う海鳥が船と並走しているのに気づく。カモメ類に似た体型をしてはいるが、何やら全体的に茶色っぽい。ウミネコよりもずっと低空を、羽ばたきも少なく、翼で水面を切りつけるようにして飛ぶこの鳥は――他でもない「オオミズナギドリ」だ。冠島にある巣からやって来たに違いない。船の進む先に目をやると、島影がずいぶん大きくなってきていた。
小橋の港。大漁旗が並び、景気づけの演奏が行われる
島に着くと、周囲の船が出港時より明らかに増えていることに気付いた。それもそのはず、今日雄島参りに来ているのは小橋の人だけではない。冠島の信仰は若狭湾の沿岸部一帯に広まっていて、小橋と隣り合う三浜や野原をはじめ、小浜や伊根などいくつもの地域から参拝者が訪れるのだ。そのなかで今日は小橋、三浜、野原の3村が参加している。この3村は共同で冠島を管理し、雄島参りの幹事役を持ち回りで担ってきたという伝統を持っている。なお、今年の幹事役は小橋である。
降り立った浜辺は大小様々な岩石に埋め尽くされており、その向こうにはひたすら樹々が生い茂っていて、奥の方は見通せない。この森の入口に、ぽつんと石造りの鳥居が佇んでいる。森から海を臨むように立つこの神社が、老人嶋神社だ。参拝者らは早速、そこを目指して列をなし歩いてゆく。
丸石を敷いた細い道を通って森に入ると、「老人嶋大明神」と大きく書かれた何本もの真っ赤な幟が、古めかしい社殿の前に立てられていた。神前には山ほどの酒や鮮魚が供えられている。樹々に囲まれた狭い境内に人がひしめく中、やがて主な参列者らがなんとか社殿前に収まると、宮司が祈祷の言葉を読み始めた。豊漁や海上安全を願って頭を垂れる面々。神妙な空気が境内に満ちる。
祈祷が終わると、次は参列者らが個別に参拝していく。名前を呼ばれた者は宮司からサカキの玉串を受け取り、神前に積み重ねて戻る。3村それぞれの代表者に始まり、府知事、舞鶴市長、府の漁業協同組合、海上自衛隊……と、順々に玉串を捧げていった。ちなみに小橋の人の話によると山田知事が参加するのは初めてで、皆驚きつつも張り切って今年の雄島参りに臨んでいるのだそうだ。
「雄島さん」を拝んだ人々は、その後同じ境内にある船玉神社に向かい、ご神体である全長約2mもの巨大な模型船に手を合わせていた。船玉は「船霊」とも書き、船の守り神なのだという。船霊を祀る神社は各地に存在するが、ご神体は必ずしも模型船ではなく、人形やサイコロということもあるようだ。
他に漁師が信奉する神様といえば、七福神の一人でいつも鯛を抱えている恵比寿神である。老人嶋神社から浜に出て端の方まで行くと、傍らの茂みの奥、樹々の間にひっそりと建つ祠があって、恵比寿神はそこに祀られている。この恵比寿神は耳が遠いとされているので、参拝者は祠のすぐ前で丸石を激しく打ち鳴らして呼びかける。なお、ここでは単に豊漁祈願だけでなく、冠島唯一の接岸場所であるこの浜が消えてしまわないようにとの願いも懸けられるのだという。
さて、11時半ごろになると、太陽の照り付ける浜辺には何やら香ばしい空気が満ちていた。見ると、ブルーシートの屋根が方々に張られていて、その下で、すでに参拝を終えた人々が冷えたビール缶を開けつつ魚の煮物や刺身をつまんでいる。どうやら、村へ帰る前に一杯やるのが習わしのようだ。ホタルイカの沖漬けやカメノテのみそ汁など、海の幸をふるった料理を私もありがたく頂いた。参列した人々はこうして、雄島さんの傍で海の恵みを享受することによって、感謝の念をいっそう深めようとしているのかもしれない。
そうこうしているうちに時刻は正午を回った。一行は船に戻って次々と錨を上げていく。けたたましいエンジン音が、再び島の周囲に響きだした。
神前に供えられた玉串や食糧
沿岸を占領していた船の群れが、思い思いに散っていく。私の搭乗している船も動き始めた。そのときに気付いたのだが、少し沖の方に一隻――小橋、三浜、野原のどれでもない名前が入った漁船が浮かんでいる。「宮津」とその船体には書かれていた。宮津は舞鶴市の隣の市で、天橋立や伊根の舟屋が有名な所だ。何をしているのかと気になって見たところ、甲板にテーブルを据え、その上に料理を並べて飲み食いしている様子である。
その時、宮津の伊根に伝わるという伝説が頭に浮かんだ。まだ冠島の所有権がどの村にも定まっていなかった頃、舞鶴と伊根とが冠島まで競漕をして決着を着けることにした。すると伊根の方が早く着いたのだが、船を回して後ろ向きに接岸しようとしている間に舞鶴の船がやってきて、それがそのまま舳先から突っ込んで着岸を果たしてしまった。こうして島は舞鶴の者が手に入れたのだった、という話だ。実話かどうかは分からないが、宮津の船が沖から雄島参りを見守っている光景は例年のことらしい。また、舳先から突っ込む着岸方法には「雄島着け」なんて呼称があるというが、この伝説に由来しているのだろうか。
さて、残すところは港へ帰るのみのはずだったが、またしても少し寄り道があった。発進した船はすぐに船先を切り返し、島の裏側に回るルートをとった。岸に沿って進むにつれて先ほどの浜は視界から消え、見る間に崖が一面に広がりだす。来たときは目立たなかったが、島の裏側は、落差数十mはあろうかという崖に支配されていた。その表面にはいくつもの窪みや穴が空いており、今にも崩れそうだ。しかし、こんな急崖にもハヤブサやウミネコなどは巣を作るというから驚く。ハヤブサの警笛のような鳴き声は神事の際にもよく聞こえてきていたが、その巣もこの崖のどこかにあったのかもしれない。
残念ながら、フンで白く染まった岩肌のほかは鳥の痕跡らしきものを確認できなかった。気づけば例の浜が再び姿を現していた。どうやら島を一周したようだ。船は速度をぐんと上げ、港に向かって駆け出した。
大浦半島の山の稜線が次第にはっきりとしてくるなか、また何度かオオミズナギドリと遭遇した。十数羽が群れをなし、のんびりと海面に浮かんでいるのだった。船に驚いて一斉に飛び立つ彼らに必死でカメラのシャッターを切りまくるが、猛進する船がひどく揺れていたおかげで、もれなくブレてしまった。
失意のうちに竜宮浜まで帰ってきた。するとやはりこの時も、船は浜の前を旋回し始めた。朝と同じで、左回りに3周だ。この行為にはいったい何の意味が……と悩んでいると、横にいた市の職員が面白いことを教えてくれた。なんでも、20年ほど前まで小橋には港なんて無かったのだという。そのため、船の出し入れはこの竜宮浜で行われていたらしい。
今朝の記憶を思い起こしてみると、港にはたくさんの人が見送りに訪れていた。20年前まではその光景はこの竜宮浜にあったのだ。もしかしたらこのことが、狭い浦に船を機敏に巡らせるあの儀式の意味を考える手がかりになるかもしれない。たとえば、豪快な舵捌きで送り迎えの人々を楽しませるためだったとか、「行ってきます」の挨拶がわりだったとか、そういう空想の余地が広がる。しかし実際のところは何なのだろう。
雄島参りは、江戸時代にはすでに大規模に行われていたことが記録に残っている。それから長い時を経て、祭の形態や意味が様々に変わってきたであろうことは想像に難くない。現に、かつては女性の上陸が禁じられていたり、誰が島に一番乗りできるか競漕したりしていたのだ。掘り起こせばまだまだ歴史に埋もれかけた事実が浮上してきそうである。まるで深海のような尽きない魅力が、冠島には渦巻いている。
竜宮浜の前を廻る船
雄島参りの日、竜宮浜には幟が立つ
江戸から明治期にかけての冠島は、実に色々な面で人の役に立っていた。その多くが庶民の生活と直結しているため、今に続く地元信仰はこの頃に固まっていったのではないかと思う。
最初はやはり、漁業における利用を取り上げよう。冠島のように沿岸部に鬱蒼とした森林がある場所には、魚が集まりやすいらしい。水中にできる木陰に寄ってくるから、あるいは森林の土壌から流れ出る栄養分に寄ってくるからだともいう。このことは既に江戸時代から知られていたようで、「魚隠林」「魚付林」などといった語が当時の文献の中に見つかっている。現在、こうした森林を「魚つき保安林」として保護する制度があり、これに指定されているのが冠島だ。島を神様の住み処として保全することには、生活の生命線である魚の棲み処を守る狙いもあるのかもしれない。
さて、漁場としてなら今でも現役の冠島だが、当時は他にも色んな顔を持っていたようだ。
まず触れておきたいのが、天然の避難所として重宝されていたことだ。接岸しやすい浜に加えて雨風を凌げる森と神社もあるため、事あるごとに漁船や商船の助けとなっていたという。次に引用するのは、1857年に日本海沿岸の津母という村から奉行所に宛てられた文書が要約されたものである。
「老人島には以前から漁船難風助成のための米が置かれていて、浦々の漁師はありがたかったのだが、近年は拝借米を返さず、老人島に助米がないというありさまになっている。したがって、このたび漁船難風のお助けのため、津母村が老人島に番小屋を建て、毎年十月から二月の間は番人を二人ずつおき、助米も差し出したい。なにとぞ、番小屋のための敷地を貸してほしい」(出典:「冠島の信仰と大浦三ヶ村」廣瀬邦彦)
「老人島」とは老人嶋神社か冠島そのものを指しているのだろう。そこにはどうやら、荒波から逃れてきた人たちのために米の備蓄があったらしい。冠島が避難所として活かされていたことがよく分かる。雄島参りで海上安全が願われることには、こうした歴史的経緯もあったに違いない。
続いては、冠島の恵みを受けていたのが何も海に生きる者だけではなかったということを見ていこう。冠島には夥しい数のオオミズナギドリが棲息しているので、当然ながら夥しい量のフンが積もり積もっている。これが農作物の肥料になると考えられたらしく、明治初年ごろから度々、フンを含んだ土を運び出そうと画策する者が現れた。中には、島に無断で上がって小屋掛けしていた商人らに対し、小橋、三浜、野原の3村が詰め寄り、小屋を焼き払ってまでこれを阻んだという事例も記録に残っているようだ。
さらには、オオミズナギドリ自体が手に掛けられることもあったという。密猟者がオオミズナギドリを捕獲し、むしり取った羽毛でひと儲けしていたことが1900年ごろに地方新聞で報じられたのだ。一時は絶滅が囁かれたアホウドリの乱獲も、ちょうどこの時期に盛んだった。こうした密漁の背景には、羽毛がクッション材として需要を高めていたことがあるといわれる。幸いにしてオオミズナギドリの方はあわや絶滅という事態にまで至らずに済んだが、それでも目に見えて数が減っていたそうだ。
これらの事件を経て、冠島のオオミズナギドリを法的に守ろうという動きが村々の中に生まれてきた。1902年、地元の会合から京都府知事へ向けて、『漁場保護ならびに公安保維の件に関する意見書』が提出される。これは冠島の保護施策を訴える文書で、その理由として挙げられているのが、①冠島が避難所として人々を助けてくれていること、②冠島に棲む種々の海鳥が、漁師に魚群の位置を知らせるしるべとなっていること、③冠島に繁茂する樹木が魚の棲み処を提供していること、である。こうした地元民の努力が実を結び、冠島は翌年に魚つき保安林となり、24年にはオオミズナギドリ繁殖地として国の天然記念物となったのだった。
島の浜辺に立つ標識。雄島参りや学術調査の際にしか上陸は許されない
これが地元民の反発を招いた。なにしろ冠島は何百年も前から生活の一部となっている。雄島参りができなくなるばかりか、悪天候時の避難所としても使えなくなってしまっては深刻な問題である。
軍に対する不満が渦を巻くなか、地元の郷土史家・山本文顕氏が声を上げる。彼は地方新聞に投書し、島と地元民の古く深い関わりを説きつつ、それを蔑ろにした海軍の非と法令の撤回を訴えた。山本氏の投書と海軍の反論が幾度となく戦わされると、やがては全国紙でまでこの問題が取り沙汰されるようになる。同年12月、海軍は、小橋、三浜、野原の3村に限って向こう5年間は上陸を許す決定を下した。しかし、山本氏はこのことで海軍に対する侮辱罪を着せられ、軽いながらも罰金を命じられたのだった。
冠島を歩いていると、今でも海軍の足跡がそこかしこに見てとれる。船着き場、砲台、見張り台、貯水池――様々な建造物の残骸だ。見張り台などは当然島の頂上あたりに築かれており、同時に導水管もその付近まで敷かれていたようで、破片が点々と落ちている。冠島は周縁部を除くとほとんどが急斜面だから、資材を運んだ際の苦労を思うと怖いものがある。また、遺構の中には何のためかは分からないが大きな竪穴がかつてはあったらしく、その中に何と大量のオオミズナギドリの屍が積み重なっていたという。彼らは飛び立つまでに助走をつける必要があるので、穴に落ちようものなら脱出が不可能だったのだ。死臭と死肉に満ちたその穴は戦争が終わってから島を調査しにきた吉田直敏氏によって発見され、それからようやく対策が取られたようだ。
貯水タンクだったという直径数mの穴
中国から引き揚げてきた彼は、1946年5月、妻の故郷である舞鶴に帰還した。妻というのは、冠島への上陸禁止令を巡って海軍と論争を繰り広げたあの山本文顕氏の娘だ。同年8月、彼は山本氏から誘われて冠島に上陸し、一晩を過ごす。それは、海から帰ってきた幾千幾万のオオミズナギドリたちと共に過ごす夜だった。夜通し響きわたる鳴き声に眠りを妨げられながらも、彼はその生態に強い興味を抱く。独自に調査を始め、以後20年以上にわたって島に通い続けることになるのだ。
ちなみに、65年にはオオミズナギドリが京都のシンボルたる「府鳥」に選ばれている。これは府民投票による結果で、なんとウグイスやホトトギスなどといった強豪(?)に差をつけての勝利だ。今、オオミズナギドリと言われてすぐに姿形が思い浮かぶ人はどれほどいるだろう。当時いかに吉田氏の研究が世間をにぎわせていたかが窺い知れる出来事である。
吉田氏の個人的な興味から始まった調査は年々規模を増し、府民を巻き込み、日本野鳥の会や政府からも協力を得つつ、80年ごろ、ついに「冠島調査研究会」を結成するに至る。会長に就いた吉田氏は89年に亡くなってしまったが、この調査研究会によって今も調査は続いている。
以上が吉田氏の作った新たな歴史の概要だ。雄島参りに象徴される信仰の歴史と並ぶ、もう一つの大きな流れである。だが今、冠島調査研究会は課題に直面している。次世代を担っていく人員が足りないのだ。現会長の須川恒氏いわく、構成員は高齢者と学生が多くを占め、近い未来に会を牽引しうる中間層が希薄となっている。今後、調査活動をどう持続させるかが問われている。
飛び立つオオミズナギドリ
オオミズナギドリは東南アジア海域で冬を越し、2月下旬になると日本へ帰ってくる。彼らの巣があるのは冠島をはじめ、御蔵島や沖ノ島などの島だ。巣は奥行き1mから2mほどの横穴で、1カ所につき1羽または1組のつがいが入る。5月下旬までに自分の巣穴の確保と補修を済ますと、オオミズナギドリは交尾の時期を迎える。調査はおよそこのタイミングで行われるのだ
今年の調査日程は5月19日から22日までの4日間。冠島調査研究会の須川氏らをはじめ、京都大学の野生生物研究会や野鳥研究会、また西舞鶴高校からも数名が参加し、ほかには環境省や舞鶴市の職員が見学のため同行した。19日の朝、海上自衛隊の艦船に乗せてもらい、2時間ほどかけて島へと渡った。
その名の通り、水を薙ぐように飛ぶ(提供:京都大学野鳥研究会)
調査員は日が沈み切るまで望遠鏡でこれを観察し、1分間に何羽が定点を通り過ぎたかカウントする。オオミズナギドリが帰島してきた数の目安にするのである。
やがてある程度の高さを得た彼らは、森にめがけて次々突っ込んでくる。しかし、樹の密度や体の大きさのせいで、枝に留まったり地面に軟着陸したりすることはできない。梢にぶつかり勢いを殺して落ちてくるという、いとも荒っぽいやり方で帰島を果たすのだ。森のあちこちに鳥が降りそそぐこの光景は「鳥吹雪」と呼ぶ。
だが、第2の調査はそんな中で実施される。鳥吹雪が落ち着く20時ごろ、調査員は次々とオオミズナギドリを捕獲し、番号が刻まれたリングを脚に取り付けていく。こうすることで個体を見分けられるようになり、年齢や行動範囲を掴む手がかりとなるのだ。また、すでにリングを装着されていた個体が見つかると漏れなく番号を確かめておく。どうやらオオミズナギドリは冠島の位置をしっかり覚えているらしく、毎年たくさんのリング持ち個体がここに帰ってくる。20年や30年以上も前にリングをつけられた個体だってちらほらいて、意外と長寿な鳥なのだと分かる。
22時ごろに調査区域を回り終えると、各々はテント場に戻り、最後の調査に向けて仮眠を取る。疲れと慣れで、オオミズナギドリの鳴きわめく声も子守歌に聞こえなくはない。
オオミズナギドリの細長い翼は、風を切って速く飛ぶことに長けているが、羽ばたかせても大した浮力が得られない。だから飛び立つには助走をつけたり高所から飛び降りたりする必要がある。そこで使われるのが冠島にたくさんある大岩や巨木だ。彼らが樹の幹を列をなして登る様は「鳥行進」と呼ばれるそうだが、岩場では四方八方からひょこひょことやってきて何が何やらわからない。
この時、飛び立ちの様子を観察するほかに、リングの装着および確認作業が再び行われる。くわえて各部位のサイズや体重の測定もする。これによって、オスの方が一回り大きいらしいことが分かっている。
そうやって調査をしているすぐ横で、岩の縁を蹴っては空中へと踊り出すオオミズナギドリたち。岩場をすぎ、樹々の梢をかわし、眼下に広がる海原まで、羽ばたきもせずただ風のレールを滑るようにして降りてゆく。頭上を仰ぐと、薄ぼんやりした星空に時々横切る影、影、影。頂上付近から飛び立つものもたくさんいるのだろう。島の斜面のあらゆる地点からオオミズナギドリが流れ出てゆく――この光景が「鳥流れ」だ。
曙光が射すころ、島はすっかり静寂を取り戻した。ほとんどのオオミズナギドリが海へ行ってしまったのだ。調査はひとまずここまで。次はまた彼らが帰ってくる夕方を待たねばならない。それまでは、今度こそ静かな中で寝るのである。
抵抗を抑えながらリング装着(提供:西舞鶴高等学校)
爪を立てて樹を登ってゆく(提供:冠島調査研究会)
以上、冠島を取り巻く民俗や自然を見てきた。類まれな文化・自然遺産でありながら、その存在が府民にすら大して知られていない。数十年前の新聞記事や書籍になら詳しく紹介されているし、今だって研究の対象になることもあるのだが、それらはやがて時の流れに忘れられてゆく。こうした資料を保存し、かつ人目に触れるようにするためには、博物館などにおける恒常的な展示が望ましいのではないか。これは生態調査や信仰の次なる担い手を確保する意味においてもである。
【参考文献】 『樹に登る海鳥 奇鳥オオミズナギドリ』吉田直敏 1981年 汐文社 『冠島のオオミズナギドリ』岡本文良 1972年 小峰書店 『海といのり』舞鶴市郷土資料館 1985年 『加佐郡誌』京都府教育会加佐郡部会 1985年 臨川書店 「冠島の信仰と大浦三ヶ村」廣瀬邦彦 「京都府冠島の生物」丹信実 1956年
全周約4km、最高海抜高度約170m。岩石だらけの浜と切り立った崖、そして原生に近い樹林からなる無人島だ。そこには地元の信仰を集める神社があり、また研究者から奇鳥と呼ばれる海鳥「オオミズナギドリ」が約20万羽も棲息している。
この冠島を舞台に、人々とオオミズナギドリの営みが幾重にも織りなされてきた。島の例祭と生態調査に足を運び、その一端を垣間見た。(賀)
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色濃く残る信仰の形
例祭・雄島参り見聞録
「雄島参り」は、毎年6月ごろに地元の氏子らが渡島し、冠島の神様に参拝する行事だ。島にある神社は3つ。「雄島さん」の呼び名で親しまれる老人嶋神社、木船の大きな模型をご神体とする船玉神社、そして恵比寿神を祀る瀬の宮神社だ。私は今回、舞鶴市小橋の人々に同行させてもらった。小橋の村は、日本海に突き出た大浦半島の北部にある。JR東舞鶴駅から車で約20分、小高い山を越え、海を左手に見ながら木造の古い家々と畑の間を抜けていくと、やがて小さな港に出た。午前8時半ごろ、出航を間近に控えた小橋の港は賑やかだ。村の男たちとその家族をはじめ、舞鶴市の職員や海上自衛隊隊員、さらには京都府知事の山田啓二氏までもが集まった。晴れ空にずらりと並んだ大漁旗のもと、ウミネコが飛び交い、太鼓と笛の囃子が響き渡る。9時を過ぎたころ、参加者は各々漁船に乗り込み始めた。
エンジンを唸らせて港を発った船の列は、すぐには沖に向かわない。先頭を走る船が港のすぐ隣にある「竜宮浜」に立ち寄り、浜の前をおもむろに旋回し始めた。2隻目、3隻目も後に続いて円を描き出す。小橋ではこうして、竜宮浜の前を3周してから冠島へ参るのが伝統なのだという。どういった意味が込められているのか、今は定かでないそうだ。
竜宮浜に別れを告げた後は、寄り道なしで島まで一直線だ。船は波を砕いて海原を突っ走っていく。ふと、港にいたウミネコたちとは違う海鳥が船と並走しているのに気づく。カモメ類に似た体型をしてはいるが、何やら全体的に茶色っぽい。ウミネコよりもずっと低空を、羽ばたきも少なく、翼で水面を切りつけるようにして飛ぶこの鳥は――他でもない「オオミズナギドリ」だ。冠島にある巣からやって来たに違いない。船の進む先に目をやると、島影がずいぶん大きくなってきていた。
島に着くと、周囲の船が出港時より明らかに増えていることに気付いた。それもそのはず、今日雄島参りに来ているのは小橋の人だけではない。冠島の信仰は若狭湾の沿岸部一帯に広まっていて、小橋と隣り合う三浜や野原をはじめ、小浜や伊根などいくつもの地域から参拝者が訪れるのだ。そのなかで今日は小橋、三浜、野原の3村が参加している。この3村は共同で冠島を管理し、雄島参りの幹事役を持ち回りで担ってきたという伝統を持っている。なお、今年の幹事役は小橋である。
降り立った浜辺は大小様々な岩石に埋め尽くされており、その向こうにはひたすら樹々が生い茂っていて、奥の方は見通せない。この森の入口に、ぽつんと石造りの鳥居が佇んでいる。森から海を臨むように立つこの神社が、老人嶋神社だ。参拝者らは早速、そこを目指して列をなし歩いてゆく。
丸石を敷いた細い道を通って森に入ると、「老人嶋大明神」と大きく書かれた何本もの真っ赤な幟が、古めかしい社殿の前に立てられていた。神前には山ほどの酒や鮮魚が供えられている。樹々に囲まれた狭い境内に人がひしめく中、やがて主な参列者らがなんとか社殿前に収まると、宮司が祈祷の言葉を読み始めた。豊漁や海上安全を願って頭を垂れる面々。神妙な空気が境内に満ちる。
祈祷が終わると、次は参列者らが個別に参拝していく。名前を呼ばれた者は宮司からサカキの玉串を受け取り、神前に積み重ねて戻る。3村それぞれの代表者に始まり、府知事、舞鶴市長、府の漁業協同組合、海上自衛隊……と、順々に玉串を捧げていった。ちなみに小橋の人の話によると山田知事が参加するのは初めてで、皆驚きつつも張り切って今年の雄島参りに臨んでいるのだそうだ。
「雄島さん」を拝んだ人々は、その後同じ境内にある船玉神社に向かい、ご神体である全長約2mもの巨大な模型船に手を合わせていた。船玉は「船霊」とも書き、船の守り神なのだという。船霊を祀る神社は各地に存在するが、ご神体は必ずしも模型船ではなく、人形やサイコロということもあるようだ。
他に漁師が信奉する神様といえば、七福神の一人でいつも鯛を抱えている恵比寿神である。老人嶋神社から浜に出て端の方まで行くと、傍らの茂みの奥、樹々の間にひっそりと建つ祠があって、恵比寿神はそこに祀られている。この恵比寿神は耳が遠いとされているので、参拝者は祠のすぐ前で丸石を激しく打ち鳴らして呼びかける。なお、ここでは単に豊漁祈願だけでなく、冠島唯一の接岸場所であるこの浜が消えてしまわないようにとの願いも懸けられるのだという。
さて、11時半ごろになると、太陽の照り付ける浜辺には何やら香ばしい空気が満ちていた。見ると、ブルーシートの屋根が方々に張られていて、その下で、すでに参拝を終えた人々が冷えたビール缶を開けつつ魚の煮物や刺身をつまんでいる。どうやら、村へ帰る前に一杯やるのが習わしのようだ。ホタルイカの沖漬けやカメノテのみそ汁など、海の幸をふるった料理を私もありがたく頂いた。参列した人々はこうして、雄島さんの傍で海の恵みを享受することによって、感謝の念をいっそう深めようとしているのかもしれない。
そうこうしているうちに時刻は正午を回った。一行は船に戻って次々と錨を上げていく。けたたましいエンジン音が、再び島の周囲に響きだした。
その時、宮津の伊根に伝わるという伝説が頭に浮かんだ。まだ冠島の所有権がどの村にも定まっていなかった頃、舞鶴と伊根とが冠島まで競漕をして決着を着けることにした。すると伊根の方が早く着いたのだが、船を回して後ろ向きに接岸しようとしている間に舞鶴の船がやってきて、それがそのまま舳先から突っ込んで着岸を果たしてしまった。こうして島は舞鶴の者が手に入れたのだった、という話だ。実話かどうかは分からないが、宮津の船が沖から雄島参りを見守っている光景は例年のことらしい。また、舳先から突っ込む着岸方法には「雄島着け」なんて呼称があるというが、この伝説に由来しているのだろうか。
さて、残すところは港へ帰るのみのはずだったが、またしても少し寄り道があった。発進した船はすぐに船先を切り返し、島の裏側に回るルートをとった。岸に沿って進むにつれて先ほどの浜は視界から消え、見る間に崖が一面に広がりだす。来たときは目立たなかったが、島の裏側は、落差数十mはあろうかという崖に支配されていた。その表面にはいくつもの窪みや穴が空いており、今にも崩れそうだ。しかし、こんな急崖にもハヤブサやウミネコなどは巣を作るというから驚く。ハヤブサの警笛のような鳴き声は神事の際にもよく聞こえてきていたが、その巣もこの崖のどこかにあったのかもしれない。
残念ながら、フンで白く染まった岩肌のほかは鳥の痕跡らしきものを確認できなかった。気づけば例の浜が再び姿を現していた。どうやら島を一周したようだ。船は速度をぐんと上げ、港に向かって駆け出した。
大浦半島の山の稜線が次第にはっきりとしてくるなか、また何度かオオミズナギドリと遭遇した。十数羽が群れをなし、のんびりと海面に浮かんでいるのだった。船に驚いて一斉に飛び立つ彼らに必死でカメラのシャッターを切りまくるが、猛進する船がひどく揺れていたおかげで、もれなくブレてしまった。
失意のうちに竜宮浜まで帰ってきた。するとやはりこの時も、船は浜の前を旋回し始めた。朝と同じで、左回りに3周だ。この行為にはいったい何の意味が……と悩んでいると、横にいた市の職員が面白いことを教えてくれた。なんでも、20年ほど前まで小橋には港なんて無かったのだという。そのため、船の出し入れはこの竜宮浜で行われていたらしい。
今朝の記憶を思い起こしてみると、港にはたくさんの人が見送りに訪れていた。20年前まではその光景はこの竜宮浜にあったのだ。もしかしたらこのことが、狭い浦に船を機敏に巡らせるあの儀式の意味を考える手がかりになるかもしれない。たとえば、豪快な舵捌きで送り迎えの人々を楽しませるためだったとか、「行ってきます」の挨拶がわりだったとか、そういう空想の余地が広がる。しかし実際のところは何なのだろう。
雄島参りは、江戸時代にはすでに大規模に行われていたことが記録に残っている。それから長い時を経て、祭の形態や意味が様々に変わってきたであろうことは想像に難くない。現に、かつては女性の上陸が禁じられていたり、誰が島に一番乗りできるか競漕したりしていたのだ。掘り起こせばまだまだ歴史に埋もれかけた事実が浮上してきそうである。まるで深海のような尽きない魅力が、冠島には渦巻いている。
冠島史を鳥瞰する
生活・軍事・学術 流転してきた利用法
雄島参りが今日まで長らく受け継がれてきたことは、冠島と地元民との強い結びつきを窺わせる。では、両者のこうした関係は、どのようにして育まれてきたのか。民俗研究や地誌などの文献を紐解けば、潮のように絶えず変化するその様子を覗き見ることができる。生活の支えとして
平安時代に編纂された歴史書『日本三代実録』に、冠島の老人嶋神社と思しき神社が記されている。これによると、古くも880年には存在していた由緒ある神社だそうだ。冠島を神聖視する文化はそれほどまでに昔からあったということになる。ただ、その信仰が当時どれほど広まっていたかは分からない。もしかしたら幾つかの村に限った話だったかもしれない。気になるところだが、その辺りの資料があまり残されていないため、冠島の利用を詳しく知ろうとすると江戸時代以降の話になる。江戸から明治期にかけての冠島は、実に色々な面で人の役に立っていた。その多くが庶民の生活と直結しているため、今に続く地元信仰はこの頃に固まっていったのではないかと思う。
最初はやはり、漁業における利用を取り上げよう。冠島のように沿岸部に鬱蒼とした森林がある場所には、魚が集まりやすいらしい。水中にできる木陰に寄ってくるから、あるいは森林の土壌から流れ出る栄養分に寄ってくるからだともいう。このことは既に江戸時代から知られていたようで、「魚隠林」「魚付林」などといった語が当時の文献の中に見つかっている。現在、こうした森林を「魚つき保安林」として保護する制度があり、これに指定されているのが冠島だ。島を神様の住み処として保全することには、生活の生命線である魚の棲み処を守る狙いもあるのかもしれない。
さて、漁場としてなら今でも現役の冠島だが、当時は他にも色んな顔を持っていたようだ。
まず触れておきたいのが、天然の避難所として重宝されていたことだ。接岸しやすい浜に加えて雨風を凌げる森と神社もあるため、事あるごとに漁船や商船の助けとなっていたという。次に引用するのは、1857年に日本海沿岸の津母という村から奉行所に宛てられた文書が要約されたものである。
「老人島には以前から漁船難風助成のための米が置かれていて、浦々の漁師はありがたかったのだが、近年は拝借米を返さず、老人島に助米がないというありさまになっている。したがって、このたび漁船難風のお助けのため、津母村が老人島に番小屋を建て、毎年十月から二月の間は番人を二人ずつおき、助米も差し出したい。なにとぞ、番小屋のための敷地を貸してほしい」(出典:「冠島の信仰と大浦三ヶ村」廣瀬邦彦)
「老人島」とは老人嶋神社か冠島そのものを指しているのだろう。そこにはどうやら、荒波から逃れてきた人たちのために米の備蓄があったらしい。冠島が避難所として活かされていたことがよく分かる。雄島参りで海上安全が願われることには、こうした歴史的経緯もあったに違いない。
続いては、冠島の恵みを受けていたのが何も海に生きる者だけではなかったということを見ていこう。冠島には夥しい数のオオミズナギドリが棲息しているので、当然ながら夥しい量のフンが積もり積もっている。これが農作物の肥料になると考えられたらしく、明治初年ごろから度々、フンを含んだ土を運び出そうと画策する者が現れた。中には、島に無断で上がって小屋掛けしていた商人らに対し、小橋、三浜、野原の3村が詰め寄り、小屋を焼き払ってまでこれを阻んだという事例も記録に残っているようだ。
さらには、オオミズナギドリ自体が手に掛けられることもあったという。密猟者がオオミズナギドリを捕獲し、むしり取った羽毛でひと儲けしていたことが1900年ごろに地方新聞で報じられたのだ。一時は絶滅が囁かれたアホウドリの乱獲も、ちょうどこの時期に盛んだった。こうした密漁の背景には、羽毛がクッション材として需要を高めていたことがあるといわれる。幸いにしてオオミズナギドリの方はあわや絶滅という事態にまで至らずに済んだが、それでも目に見えて数が減っていたそうだ。
これらの事件を経て、冠島のオオミズナギドリを法的に守ろうという動きが村々の中に生まれてきた。1902年、地元の会合から京都府知事へ向けて、『漁場保護ならびに公安保維の件に関する意見書』が提出される。これは冠島の保護施策を訴える文書で、その理由として挙げられているのが、①冠島が避難所として人々を助けてくれていること、②冠島に棲む種々の海鳥が、漁師に魚群の位置を知らせるしるべとなっていること、③冠島に繁茂する樹木が魚の棲み処を提供していること、である。こうした地元民の努力が実を結び、冠島は翌年に魚つき保安林となり、24年にはオオミズナギドリ繁殖地として国の天然記念物となったのだった。
軍用地として
のちに「雄島大事件」と呼ばれる騒動の発端は、1933年に日本海軍が発布したとある法令だった。それは冠島の一部を軍用地と定め、非軍属の者が立ち入ることを一切禁じるものだった。当時の舞鶴には軍港があったので、冠島はそれを守る砦として独占されようとしたのだ。これが地元民の反発を招いた。なにしろ冠島は何百年も前から生活の一部となっている。雄島参りができなくなるばかりか、悪天候時の避難所としても使えなくなってしまっては深刻な問題である。
軍に対する不満が渦を巻くなか、地元の郷土史家・山本文顕氏が声を上げる。彼は地方新聞に投書し、島と地元民の古く深い関わりを説きつつ、それを蔑ろにした海軍の非と法令の撤回を訴えた。山本氏の投書と海軍の反論が幾度となく戦わされると、やがては全国紙でまでこの問題が取り沙汰されるようになる。同年12月、海軍は、小橋、三浜、野原の3村に限って向こう5年間は上陸を許す決定を下した。しかし、山本氏はこのことで海軍に対する侮辱罪を着せられ、軽いながらも罰金を命じられたのだった。
冠島を歩いていると、今でも海軍の足跡がそこかしこに見てとれる。船着き場、砲台、見張り台、貯水池――様々な建造物の残骸だ。見張り台などは当然島の頂上あたりに築かれており、同時に導水管もその付近まで敷かれていたようで、破片が点々と落ちている。冠島は周縁部を除くとほとんどが急斜面だから、資材を運んだ際の苦労を思うと怖いものがある。また、遺構の中には何のためかは分からないが大きな竪穴がかつてはあったらしく、その中に何と大量のオオミズナギドリの屍が積み重なっていたという。彼らは飛び立つまでに助走をつける必要があるので、穴に落ちようものなら脱出が不可能だったのだ。死臭と死肉に満ちたその穴は戦争が終わってから島を調査しにきた吉田直敏氏によって発見され、それからようやく対策が取られたようだ。
オオミズナギドリの冠島
戦争から時を経て、冠島のオオミズナギドリをめぐる大きな潮流が湧き起こる。それまで主立って行われていなかった生態調査が、急激に加速し始めたのだ。その立役者となったのが先にも登場した吉田直敏氏である。中国から引き揚げてきた彼は、1946年5月、妻の故郷である舞鶴に帰還した。妻というのは、冠島への上陸禁止令を巡って海軍と論争を繰り広げたあの山本文顕氏の娘だ。同年8月、彼は山本氏から誘われて冠島に上陸し、一晩を過ごす。それは、海から帰ってきた幾千幾万のオオミズナギドリたちと共に過ごす夜だった。夜通し響きわたる鳴き声に眠りを妨げられながらも、彼はその生態に強い興味を抱く。独自に調査を始め、以後20年以上にわたって島に通い続けることになるのだ。
ちなみに、65年にはオオミズナギドリが京都のシンボルたる「府鳥」に選ばれている。これは府民投票による結果で、なんとウグイスやホトトギスなどといった強豪(?)に差をつけての勝利だ。今、オオミズナギドリと言われてすぐに姿形が思い浮かぶ人はどれほどいるだろう。当時いかに吉田氏の研究が世間をにぎわせていたかが窺い知れる出来事である。
吉田氏の個人的な興味から始まった調査は年々規模を増し、府民を巻き込み、日本野鳥の会や政府からも協力を得つつ、80年ごろ、ついに「冠島調査研究会」を結成するに至る。会長に就いた吉田氏は89年に亡くなってしまったが、この調査研究会によって今も調査は続いている。
以上が吉田氏の作った新たな歴史の概要だ。雄島参りに象徴される信仰の歴史と並ぶ、もう一つの大きな流れである。だが今、冠島調査研究会は課題に直面している。次世代を担っていく人員が足りないのだ。現会長の須川恒氏いわく、構成員は高齢者と学生が多くを占め、近い未来に会を牽引しうる中間層が希薄となっている。今後、調査活動をどう持続させるかが問われている。
奇鳥と過ごす奇妙な夜
オオミズナギドリ調査紀行
冠島調査研究会は現在、毎年5月と8月に冠島のオオミズナギドリの生態を調べている。私は先の5月に行われた調査に加わった。その様子を記しつつ、オオミズナギドリが「奇鳥」と呼ばれる所以を紹介していこう。オオミズナギドリは東南アジア海域で冬を越し、2月下旬になると日本へ帰ってくる。彼らの巣があるのは冠島をはじめ、御蔵島や沖ノ島などの島だ。巣は奥行き1mから2mほどの横穴で、1カ所につき1羽または1組のつがいが入る。5月下旬までに自分の巣穴の確保と補修を済ますと、オオミズナギドリは交尾の時期を迎える。調査はおよそこのタイミングで行われるのだ
今年の調査日程は5月19日から22日までの4日間。冠島調査研究会の須川氏らをはじめ、京都大学の野生生物研究会や野鳥研究会、また西舞鶴高校からも数名が参加し、ほかには環境省や舞鶴市の職員が見学のため同行した。19日の朝、海上自衛隊の艦船に乗せてもらい、2時間ほどかけて島へと渡った。
鳥回り
まずは、昼のあいだ沖に出ていたオオミズナギドリが島に戻ってくる様子を観測する。日が沈みゆくにつれて、黒く小さな影が次々と水平線上を横切るようになる。何千羽ものオオミズナギドリが島の周囲を回っているのだ。ピーク時にはその隊列が黒い帯に見えるほど密に連なり、島がほとんど包囲されてしまう。オオミズナギドリの群団が島を回るこの様子は「鳥回り」と呼ばれている。調査員は日が沈み切るまで望遠鏡でこれを観察し、1分間に何羽が定点を通り過ぎたかカウントする。オオミズナギドリが帰島してきた数の目安にするのである。
鳥吹雪
頭数を揃えたオオミズナギドリたちはやがて回るのをやめ、上昇に転じる。この時、天に向かって巨大な柱が伸びてゆくように見えることがあって、その光景は「鳥柱」というらしい。やがてある程度の高さを得た彼らは、森にめがけて次々突っ込んでくる。しかし、樹の密度や体の大きさのせいで、枝に留まったり地面に軟着陸したりすることはできない。梢にぶつかり勢いを殺して落ちてくるという、いとも荒っぽいやり方で帰島を果たすのだ。森のあちこちに鳥が降りそそぐこの光景は「鳥吹雪」と呼ぶ。
鳥地獄
さて、雪が降った後はたいてい静寂が訪れるものだが、降ってきたのがオオミズナギドリであった場合は「鳥地獄」が幕を開ける。彼らは帰島するなり狂ったように鳴きはじめ、一晩ずっと島中に声を響かせるのだ。異性を呼ぶ声、巣穴をめぐって喧嘩する声、枝に絡まってもがく声。「ピィー、ピィー」と甲高い声がオス、「フガァー、フガァー」と唸るようなのはメスだ。さっきまで島を包囲していたあの群団がみんなしてフガピィと鳴くわけだから、本当にやかましい。だが、第2の調査はそんな中で実施される。鳥吹雪が落ち着く20時ごろ、調査員は次々とオオミズナギドリを捕獲し、番号が刻まれたリングを脚に取り付けていく。こうすることで個体を見分けられるようになり、年齢や行動範囲を掴む手がかりとなるのだ。また、すでにリングを装着されていた個体が見つかると漏れなく番号を確かめておく。どうやらオオミズナギドリは冠島の位置をしっかり覚えているらしく、毎年たくさんのリング持ち個体がここに帰ってくる。20年や30年以上も前にリングをつけられた個体だってちらほらいて、意外と長寿な鳥なのだと分かる。
22時ごろに調査区域を回り終えると、各々はテント場に戻り、最後の調査に向けて仮眠を取る。疲れと慣れで、オオミズナギドリの鳴きわめく声も子守歌に聞こえなくはない。
鳥流れ
まだ暗い3時ごろ、調査員らは眠い目をこすりつつテント場を後にする。目指すのは島の中腹にある岩場だ。そこにはオオミズナギドリがたくさん集まっている。彼らは休息を終えて、また海に飛び立ってゆくための足場を求めてここに来た。調査団はその様子を観察しにきたのだ。オオミズナギドリの細長い翼は、風を切って速く飛ぶことに長けているが、羽ばたかせても大した浮力が得られない。だから飛び立つには助走をつけたり高所から飛び降りたりする必要がある。そこで使われるのが冠島にたくさんある大岩や巨木だ。彼らが樹の幹を列をなして登る様は「鳥行進」と呼ばれるそうだが、岩場では四方八方からひょこひょことやってきて何が何やらわからない。
この時、飛び立ちの様子を観察するほかに、リングの装着および確認作業が再び行われる。くわえて各部位のサイズや体重の測定もする。これによって、オスの方が一回り大きいらしいことが分かっている。
そうやって調査をしているすぐ横で、岩の縁を蹴っては空中へと踊り出すオオミズナギドリたち。岩場をすぎ、樹々の梢をかわし、眼下に広がる海原まで、羽ばたきもせずただ風のレールを滑るようにして降りてゆく。頭上を仰ぐと、薄ぼんやりした星空に時々横切る影、影、影。頂上付近から飛び立つものもたくさんいるのだろう。島の斜面のあらゆる地点からオオミズナギドリが流れ出てゆく――この光景が「鳥流れ」だ。
曙光が射すころ、島はすっかり静寂を取り戻した。ほとんどのオオミズナギドリが海へ行ってしまったのだ。調査はひとまずここまで。次はまた彼らが帰ってくる夕方を待たねばならない。それまでは、今度こそ静かな中で寝るのである。
以上、冠島を取り巻く民俗や自然を見てきた。類まれな文化・自然遺産でありながら、その存在が府民にすら大して知られていない。数十年前の新聞記事や書籍になら詳しく紹介されているし、今だって研究の対象になることもあるのだが、それらはやがて時の流れに忘れられてゆく。こうした資料を保存し、かつ人目に触れるようにするためには、博物館などにおける恒常的な展示が望ましいのではないか。これは生態調査や信仰の次なる担い手を確保する意味においてもである。
【参考文献】 『樹に登る海鳥 奇鳥オオミズナギドリ』吉田直敏 1981年 汐文社 『冠島のオオミズナギドリ』岡本文良 1972年 小峰書店 『海といのり』舞鶴市郷土資料館 1985年 『加佐郡誌』京都府教育会加佐郡部会 1985年 臨川書店 「冠島の信仰と大浦三ヶ村」廣瀬邦彦 「京都府冠島の生物」丹信実 1956年