複眼時評

吉田英生 工学研究科教授「エネルギーにまつわる理解と誤解 ─ワット、ヴェルヌ、ディーゼルなどを振り返って─」

2015.10.16

フォルクスワーゲンによる前代未聞の不正のために、「ディーゼルエンジン」の語が最近の新聞のトップに頻出している。ところで、工学部に入学したばかりの学生向けに機械系の導入とする講義で、「ガソリンエンジンとディーゼルエンジンの違いは?」という質問をすると、「バスやトラックはディーゼル」とか「スタンドで軽油の方を入れるのがディーゼル」という答えがほとんどである。もちろんこれらは間違いではないが、筆者が期待しているものではない。機械工学の立場からは、圧縮方法とそれに伴う点火プラグの有無──前者はガソリンと空気を混合してそこそこ圧縮したところに点火プラグで燃焼させる(予混合燃焼)のに対し、後者は空気だけをできるだけ圧縮して高温高圧にしたところに軽油をスプレーして自ずと燃焼させる(拡散燃焼)という違いが最も本質的なものである。

また、ワットが蒸気機関を改良したことが産業革命につながったことは世界史を勉強した人なら必ず知っていることであるが、「どのように改良?」とたずねると答えられる人は理工系研究者仲間でも結構少ない。ワットの改良はいろいろあるが中核となるのは、ピストンを大気圧によって押し込ませるためにシリンダー内の蒸気を凝縮させて真空に近い状態にする工夫にある(1769年の特許)。すなわち、ワット以前のニューコメンの蒸気機関ではシリンダー内に間けつ的に水を吹き込んでいたのに対し、ワットはシリンダー(母屋)とつながる別室(離れ)を設けてそこに水を吹き込んだことがポイントである(専門用語では「分離凝縮器」という)。この構造により離れは間けつ的に温度が下がるが母屋は高温のままであるために、効率が一挙に向上したのである。

この二例からも感じ取っていただけるように、理工系のことがらに関しては最前線でなくごくありふれたことでさえ世の人々にはあまり理解されていない。様々な解釈が可能である文系のことがらに比べれば、理工系のことがらは少なくとも事実関係については不確かさはそれほどない。あるのは前述のような不理解、そして後述のような誤解あるいは誤解に導きかねない不適切な表現である。

ヴェルヌは1875年に「神秘の島」の中で、水素エネルギーの時代がいつかやってくることを予言した。その水素エネルギーに関して時おり目にする誤解がある。水素は電気と同様で、化石燃料のように自ずと存在するエネルギー(一次エネルギー)ではなく、人間が働きかけてはじめて手にすることができるエネルギー(二次エネルギー)である。にもかかわらず、この水素が無制限に入手できるかのような議論が不注意か故意かよくわからないが展開されることがある。

また、表面的なことかもしれないが、「再生可能エネルギー」というのは科学的にはおかしな言葉である。これは英語のrenewable energy(これ自体おかしい)の訳語としてやむを得ず使われていると筆者は理解しているが、別に太陽エネルギーや風力エネルギーなどが再生(regenerate)する、つまり生き返る訳でも何でもない。むしろ(太陽エネルギーや地中にあるエネルギーを源とする)自然エネルギーとでも呼ぶ方がいくぶん誤解が少ない。

最後に、重大な誤解にもつながる不適切な表現として、「低炭素社会」という(二酸化)炭素があたかも悪者のような言葉を筆者は苦々しく思っている。自然は基本的に炭素循環によって成立している。遠くを探すまでもなく、ほかでもないわれわれの体そのものが、水分を除けばほとんどが炭素でできている。低炭素社会という言葉がいささか軽率に使われていることは残念だ。

エネルギーに限らず理工系全般にわたるこのような理解の現状を少しでも改善することを目的の一つとして、筆者は工学系学会連合ウェブサイトのプロトタイプwattandedison.comを、まずは個人ベースで構築中である。

(よしだ・ひでお 工学研究科教授。専門は熱工学)