複眼時評

鎌田浩毅 人間・環境学研究科教授「私の授業論」

2015.05.16

低空飛行で大学を卒業して36年たつが、その前半は国立研究所で人とほとんど会話せずに、富士山のような活火山と向き合って研究ばかりしていた。後半は京大に転職し学生を含めて多くの人に話をするのが仕事となった。

実は、赴任当初に私が行った授業も「超」低空飛行で、惨憺たるものだった。ちなみに「惨憺たる授業」と言っていたのは学生たちで、私は「これぞ天下の京都大学にふさわしい授業」と自負していた。もちろん、学生たちの「難しすぎて理解不能」という言い分が正しかったのである。

このギャップを知ったことが、私を授業改善へ駆り立てるきっかけとなった。熱中する対象が活火山から講義へ大転換したのだ。教授になって18年の総括として、「活きた時間」という観点から授業論を述べてみたい。

授業は人類が古代に発明した優れた「メディア」である。人と人をつなぐコミュニケーションの媒体をメディアという。20世紀に活躍した社会学者マクルーハンは、代表作『メディア論』(みすず書房)の中で、ラジオとテレビをそれぞれ「熱いメディア」と「冷たいメディア」と呼んだ。

ラジオは音だけでささやくように情報を伝えながら、人を揺り動かす力を持つ。一方、テレビは大量の映像を使って冷たい情報を次々と垂れ流す(拙著『座右の古典』東洋経済新報社、196ページを参照)。

ラジオでは聴き手の心にメッセージを柔らかく、かつ着実に残してゆく。たとえば、リスナーから寄せられた「お便りハガキ」に対して、パーソナリティのコメントが直接届けられる。この時、双方向のコミュニケーションが成立し、「活きた時間」が生まれるのだ。そこには親しい友だちと心を開いて語り合う満足感がある。 

私が京大で毎年行っている講義は、ラジオ番組のようだとよく言われる。大教室に詰めかけた数百人の学生と、白い紙を使って質疑応答を行う。用意されたメディアは、リサイクル紙のウラ面を使った何の変哲もない紙切れだ。

毎回、授業の終盤で学生たちはペンネームで質問・感想・意見を書き込み、次の時間に私はていねいに回答する。学生と教授の個性がそのまま数百人の若者たちに開陳されるスリルあふれる瞬間だ。まさに匿名性と即興性から、思いもかけぬ一期一会が生まれるのである。

先日もある学生からキャリアパスで迷っている質問が寄せられたので、私が「えー、古今和歌集に良い歌があって・・・」と回答すると、たちどころに白い紙で「先生、それは新古今和歌集です」と京大生らしい訂正が入った。平野啓一郎や万城目学のような明日の芥川賞や直木賞が座っている。未来のノーベル賞学者が頬杖ほおづえついて聴いているかもしれない。こうした「後生畏こうせいおそるべし」を地でゆく学生たちに当意即妙で応答するうち、いつしか私自身が夢中になっていった。授業に集中してもらおうと思ったら、教師が授業に熱中するに限る。まずかいより始めよ、である。

私の授業は口コミで受講生が集まるらしい。何ともアナログな世界だが、白い紙という超アナログメディアを用いた一期一会にふさわしい。ときどき「先生、お久しぶりです。昨年お世話になりました○○です」と単位を取った上級生が書いてくる。彼らの中にはQ&Aから生まれた心地よい感覚が残っているのだろう。それこそ自発的に学ぶ「活きた時間」ではないだろうか。

なお、ここに述べた授業論はYouTubeでも試聴できる。京都大学新任教員教育セミナーで行った2回の講演記録だが、京都大学オープンコースウェア(OCW)内の高等教育研究開発推進センター作成のビデオだ。ちなみに、京大OCWには優れた授業が数多く紹介されていることも、是非お知らせしておきたい。

(かまた・ひろき 人間・環境学研究科教授。専攻は地球科学)