企画

【検証】総長選考プロセスを問う 第3回 選出方式の歴史を追う

2026.09.16

10月に就任する第28代京都大学総長は、総長選考・監察会議(選考会議)の合議によって選ばれた。現在の方式で選ばれるのは今回で4人目であり、京大総長の選出方式は時代とともに変化してきた。官選から学内の選挙へ、そして現在の「選考会議による選考」に移行した。

本企画では、『京都大学百二十五年史 通史編』(京都大学百二十五年史編集委員会)をもとに選出方式の変遷をたどり、現在の選出方式がどのように形づくられてきたのかを考える。総長選挙が生まれた背景など、戦前の総長選出については、高等教育史を専門とする京都大学大学文書館の西山伸教授の寄稿で詳しくひもとく。(法)

目次

「官選」から「選挙」、そして「選考」へ
強まる選考会議の「主体性」
〈寄稿〉歴史からみた京大の総長選考 西山伸 教授(京都大学大学文書館)

「官選」から「選挙」、そして「選考」へ


京大の総長選出は、時代とともにその方式を大きく変えてきた。▼文部省の「官選」▼学内の「選挙」▼現在の選考会議による「選考」の3つの時期に大きく分けることができる。

教授の反発招いた「官選」 1897年~1919年


文部省の「官選」は、京都帝国大学が創設された1897年から、1919年に初めて総長選挙が実施されるまでの時期に当たる。大日本帝国憲法のもとでは、天皇が官吏を任命する権限を持ち、帝国大学の総長も官吏とされた。実際の人選は文部省が担い、天皇が任命するという形をとった。学内では、教授による互選を求める声が次第に高まり、第7代総長・荒木寅三郎が就任する際には、文部省が現在の学部に相当する分科大学の意向を事前に確認した。学内の意向を踏まえて荒木が総長に就任したが、選挙による選出は4年後のことであった。

日本初の総長「選挙」 1919年~2004年


学内の「選挙」は、投票資格の範囲を変えながらも、1919年から2004年の国立大学法人化まで続いた。1919年4月には「総長選挙手続」と題する学内規程が定められた。5月に総長選挙が実施され、当時の総長であった荒木寅三郎が選出された。日本で初めて、総長が選挙によって決まった。ただ、総長を任命する権限は天皇にあり、学内で選出されるのはあくまで総長候補者であった。選挙権・被選挙権は学内の教授に限定され、3回にわたる投票が行われた。1回目では3人の教授に投票し、10人の候補者を選出。2回目では10人のうち2人に投票して候補者を2人に絞り、3回目では現総長を加えた3人の中から1人を選んだ。3回目で過半数を得る者がいなかった場合は、上位2人による決選投票が行われた。1928年に学内規程は「総長候補者選挙手続」と改称され、現総長は2回目の投票で追加されることになった。戦時下には国による大学への統制が強まったが、総長選挙の仕組みは実質的に維持された(詳しくは後掲の西山教授の寄稿を参照されたい)。

戦後、学制改革によって1949年、京都帝国大学は新制の京都大学へと移行した。同年、国立大学の総長は、学内の会議体によって選出され、文部大臣に任命されると、法律で定められた。具体的な選出方法は各会議体に委ねられ、京大では選挙によって総長を選ぶ仕組みが維持された。

1949年に制定された学内規程「学長選考基準」により、具体的な投票手順は以下のようになった(=図1)。1回目では3人の教授に投票し、10人の候補者を選出。2回目では1人に投票して10人から3人に絞り、3回目では3人の中から1人を選んだ。3回目で過半数を得る者がいなかった場合は、上位2人による決選投票が行われた。投票資格を助教授にも拡大する案が検討されるも、専任教授のみに留まった。助教授と講師が投票資格を得たのは1966年の学内規程「京都大学総長選考基準」による。あわせて、1回目の投票で2人の教授に投票し、15人の候補者を選出するように変更された。1973年には、総長の諮問機関「大学問題検討委員会」の答申をもとに、1回目の投票のみ、助手も投票できるように改正された。答申では、職員や学生も請求可能なリコール制度が提案されたが、実現しなかった。2001年には、2回目の投票は評議会が行い、5人を選出するようになった。

(図1)京大の1949年の総長選挙の流れと選挙権・被選挙権の対象



法人化で「選考」へ 2004年~


2004年の国立大学法人化により、1919年より続いた総長選挙の時期が終わり、選考会議による「選考」の時期に入る。国立大学法人法(国大法)第12条により、総長選考会議が選考した候補者を文部科学大臣が総長に任命するとされ、国立大学の総長は選考会議に選出されることになった。選考会議は、教育研究に関する重要事項を審議する教育研究評議会と経営に関する重要事項を審議する経営協議会の同数の委員によって構成される。京大では、前者から選出の学内委員6名、後者から選出の学外委員6名で構成されており、学外者が総長選考に関わることとなった。

法人化が変えた一票の意味


選考会議が総長を決定する権限を持つようになったが、投票制度がなくなったわけではなかった。学内予備投票では、理事、教授・助教授・講師・助手、職員(時間雇用などを除く)が投票資格を持つ。教育研究評議会は予備投票の上位10人を推薦し、10人から選考会議が6人の第一次候補者を選考する。推薦された10人に学外者を加えて選考することもできる。第二次選考では、第一次候補者6人に投票する学内意向投票を実施し、その結果を基礎に選考会議が総長候補者を決定する。意向投票で過半数を得る者がいない場合は、上位2人による決選投票が行われる。助手と課長補佐級未満の職員に意向投票の投票資格はないが、投票資格は職員にまで拡大したのである。

「官選」から「選挙」への移行は大学自治の進展を背景としていたが、「選挙」から「選考」への移行は、国立大学法人化という国の政策が直接の契機となった。国立大学法人化とは、国立大学を国の行政組織から独立した法人とし、大学自身の責任で運営する仕組みに転換するものである。文部科学省(文科省)は大学ごとに法人格を与えて「自律的な運営を確保」するとともに、「民間的発想」のマネジメント手法を導入し、学外者の参画による運営システムを制度化すると説明していた。選考会議にも学外者が参画し、法人化に伴う大学運営の仕組みの見直しの一つとして総長の選出方式も位置づけられていたのである。

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強まる選考会議の「主体性」


意向「投票」を意向「調査」へ


法人化後は、学内の投票結果に拘束されず、選考会議が自らの判断で候補者を選ぶよう、選考会議の権限を強める方向に変化していった。2013年12月、京大の職員組合は、意向投票を廃止し、選考会議のみの議決で総長を選出可能にすることなどが選考会議で提起されたとの情報を入手したとして集会などで抗議した。13年5月、第2次安倍内閣が設置した教育提言を行う私的諮問機関「教育再生実行会議」は総長選考の在り方を国や各大学が検討すべきと提言していた。提言の影響を問う本紙の取材に対し、京大は「国の議論があったことは承知している」と回答するに留めた。結果として、選考会議は投票行為を廃止しなかったが、2014年4月、学内規程を改正して「意向投票」を「意向調査」と改称した。また、第二次選考について、「意向投票の結果を基礎に」としていた規定に、「第一次総長候補者に関する事項を総合的に判断して」との文言を加えた。変更理由を問う本紙の質問に、京大は「選考会議がその責任と権限に基づき、主体的に総長候補者の選考を行うという国大法の趣旨を踏まえた」と回答した。

過半数の支持を問う「決選投票」廃止


2019年、京大の選考会議は、過半数を得る者がいない場合に、上位2人への投票を行う決選投票を廃止し、再意向調査を導入するように学内規程を改正。再意向調査とは、意向調査の結果を踏まえ、選考会議が必要と認めるとき、得票上位の者について再度、意向調査を実施するものである。また、第二次選考について「意向調査の結果を基礎に」という文言が削除され、「意向調査の結果その他第一次総長候補者に関する事項を総合的に判断」と変更された。変更理由を本紙が尋ねたところ、京大は2014年の変更と同様に、国大法の趣旨を踏まえたものだと回答した。また、予備投票による推薦人数は5人増えて15人となり、選考会議が第一次候補者をより幅広く選べるようになった。

2026年、京大の選考会議は再意向調査の対象を、意向調査の得票が上位の者から、選考会議の評価が上位の者に変更した。また、第二次選考の前にも面接を追加し、第二次選考では「面接調査及び意向調査の結果その他第一次総長候補者に関する事項を勘案」するとした。京大は面接を追加した理由を「より総長候補者としての資質を確認するため」と本紙に説明した。

国主導の「ガバナンス改革」進む


京大では、選考会議の権限を強化し、より主体的な選考ができるように制度が見直されてきた。国もガバナンス改革の一環として、選考会議に関する改革を実施してきた。

2014年2月、中央教育審議会大学分科会は「大学のガバナンス改革の推進について(審議まとめ)」の中で、さらなる大学改革を進めるうえで、大学のガバナンスのあり方についてさまざまな問題があると指摘。総長のリーダーシップ確立の必要性を強調し、一部の国立大学で「選考会議が、主体的に選考を行っているとは言い難い状況も見られる」とした。これを受けて6月に国大法が改正され、選考会議が選考基準を定めるとした。

国大法の改正に伴い、文科省が国立大学などに出した通知では、選考会議による主体的な選考を「社会の意見を学長選考に反映させる仕組み」とし、社会の意見を反映するという観点から「過度に学内の意見に偏るような選考方法は適切でない」とした。本通知に関して、京大は「通知については認識している。選考方法等は、選考の都度、関係法令を考慮して、会議で議論・決定し、選考を実施している」と本紙に回答した。2019年に政府が示した骨太の方針では、「各大学が学長を、必要な資質能力に関する客観基準により、法律に則り意向投票によることなく選考」という文言が見られた。

その後も、国立大学のガバナンスをめぐる国の制度改革は続いた。2022年の国大法改正では、総長選考会議の監察機能が強化され、「総長選考・監察会議」に改称された。例えば、監事から不正行為などの報告を受けた際、総長に職務執行状況の報告を求めることができるようになった。2024年の改正により、特に規模の大きい国立大学法人に設置が義務づけられた運営方針会議は、総長選考について選考会議に意見を述べることもできる。

本紙が今回の京大の総長選考に関する見解を尋ねたところ、文科省は「学内の意向の調査の結果も参考としつつ、選考会議の権限と責任において、選考された」との見解を示した。

(図2)京大の今年度の総長選考の流れ



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〈寄稿〉歴史からみた京大の総長選考 西山伸 教授(京都大学大学文書館)


よく知られていること(かどうか疑問)だが、日本の大学で最初に総長を学内の選挙で選んだのは京大(当時は京都帝国大学)であった。1919年5月のことである。

初代総長・木下広次の退任後、京大では総長と教官との間が円滑にいかない事態が何回か発生した。木下の後任であった岡田良平は著名な文部官僚であったが、教官に対する管理強化などが学内の反発を呼び、教官たちによって総長職から事実上追い出された(1908年)。1913年に就任した沢柳政太郎も大物官僚だったが、独断で7名の教授に退任を求めたことに対し、法科を中心とした教官による激しい反対運動が巻き起こった。結局当時の文部大臣が、教授の任免について総長が教授会と協定するのは「妥当」との覚書を作成して事態を鎮静させるまでになった。沢柳はその後間もなく辞任した。

なぜこうも官選(文部省から任命されてきた)総長と教官たちがうまくいかなかったのか。この頃教官側が作成した資料には「従来京都大学は総長と教授との間に意思の疎通を欠き紛擾的行動を惹起せるは総長が大学なるものゝ真相を知悉せざるにあり」と述べられている。傲慢とも思えるが、「真理の探究」を目的とする帝国大学の教授としての彼らの矜恃を感じることはできよう。

こうしたなか、すでに岡田総長退任の頃から総長は学内の教授から、そして互選で、という意見が出始めていた。これは京大だけでなく東大でも同様だった。後に「大正デモクラシー」と呼ばれる時代の傾向も後押ししたかもしれない。そして冒頭に述べたように1919年5月、荒木寅三郎が初めて学内の選挙を経て総長になった。選挙権・被選挙権とも学内の教授で三次にわたる直接投票で選出するしくみだった。ちなみに東大における最初の選挙は、この2カ月後に実施されている。ただし、大日本帝国憲法には天皇の官吏大権が規定されており、その意味では学内で選出されるのはあくまで「総長候補者」だった。当時のある教官の回想によると、文部省は学内選挙による選出の「実情ヲ知ルモ敢テ積極的ニ干渉セシコトナク黙認ノ形」をとったのだという。こういう形で総長を決めるのが、最も円滑な方法だとそれまでの事例から学んでいたのだろう。

教授会による教授の任免と総長の学内公選は戦前期大学自治の二本の柱で、そのいずれも京大が先駆けとなったことになる。しかし、その後の大学自治の維持・拡大という側面での京大は必ずしも芳しくない。滝川事件から5年後の1938年、文部大臣であった荒木貞夫(もともと陸軍軍人)は、帝国大学の総長・教官が選挙で決定されては大臣の輔弼の任が全うできないとして、これに代わる任用方法を考慮するよう求めた。紆余曲折の末、「選挙」と称していたのを「答申」と変更しつつ、帝国大学側は実質的には従来の制度を維持することに成功したのだが、この動きを主導したのは明らかに東大で、京大はこの直前に学内で不祥事が相次いだせいもあり、文部省の意向を汲んで妥協に傾いていた(詳しくは『京都大学百二十五年史通史編』を参照されたい)。さらに戦後になると教育民主化の動きのなか選挙権を助教授に拡大する案が検討されたが、学内に強硬な反対があり1949年に決定された新選考基準では従来どおり教授のみに限定された。同時期東大では総長選考の選挙権は助教授にまで拡大している。なお京大で助教授・講師に選挙権が与えられたのは1966年のことであった。

その後大学紛争を経た1973年、一次投票に助手に選挙権が与えられるように改正されたが、基本的に学内の直接選挙による総長選出は制度としては2004年の法人化まで続いた。

このように歴史を振り返ってみたが、1919年の総長選挙導入は次の二つの要素があって可能になったのではなかろうか。一つは一種の「帝国大学教授万能論」である。帝国大学教授は研究・教育に優れているのは当然、さらに加えて管理もこなすことができる、と思われていたのであろう。もう一つは、当時全学の教授は合計で100名前後だったことである。しかも彼らのほとんどが一高や三高といった少数の高等学校(旧制)の出身だった。学生時代からの知り合いも少なくなかったであろう。そうした限られたコミュニティだから成立した方法ではなかったか。

大学の姿が大きく変わっても同じ形で選考され続けたことが、今となってはむしろ驚きであるというべきかもしれない。



西山伸(にしやま・しん)京都大学大学文書館教授
京都大学文学部卒業。京都大学文学部助手、京都大学大学文書館助教授を経て現職。専門は日本近現代史、特に大学沿革史。『京都大学百年史』や『京都大学百二十五年史』の編纂を主導している。

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