〈映画評〉ぼやけた善悪の境界線上で 『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』
2026.09.16
画像中央がちいかわ、左上がうさぎ、上がセイレーンと人魚、右上がハチワレ ©ナガノ / 2026「映画ちいかわ」製作委員会
ある島に招かれた泣き虫の「ちいかわ」と、その友で楽天家の「ハチワレ」、奇声を発するが勇猛果敢な「うさぎ」たち。偶然入った洞窟で、伝説の生物「セイレーン」に出くわした彼らは、セイレーンと行動を共にする3匹の人魚のうち、1匹が島民の誰かに食べられてしまったことを聞かされる。ところがその翌日、セイレーンが島民を次々攫っていると告げられたちいかわたちは、島民からセイレーンの討伐を依頼されることに。セイレーンの攻撃が迫る中、ちいかわたちは島を守ることができるのか。そして「人魚の身を食べると『永遠の命』が手に入る」という伝説の真相とは──。
こうした物語は一見すると、異邦人がその地の問題を解決して去ってゆく、水戸黄門のような勧善懲悪モノを思わせる。単純で、ある意味子供向け。しかし、家族向け映画のような雰囲気を出している本作は、実はちゃちなヒーロー活劇では終わらない。
本作には「絶対悪」が登場しない。セイレーンは島民を攫って「食べ」(直接の食事シーンはないが、調理過程が描かれているのは生々しい)、ちいかわの仲間たちをも捕らえてしまう、非道の怪物だ。だがそもそも、島民の何者かが人魚を殺めなければ、セイレーンが復讐に燃えることもなかった。もう出会うことのない友を想って涙する姿は、無力な島民たちと何ら変わらない。
人魚の命を奪った「犯人たち」もまた、善悪の境界線上に佇むキャラクターだ。ままならぬ災厄によって悲劇に見舞われたことで、罪を犯した彼らは、いかなる犠牲も覚悟で、人魚に秘められた秘密を守り続ける。たとえ島民が拐かされようと、ちいかわの仲間たちが傷ついてゆこうとも。被害者だったはずの彼らの立場が、次第に加害者へと転じてゆく回想シーンは、胸が締め付けられる。
セイレーンを倒すことが正義か。人魚殺しの下手人を差し出すことが正義か。こうして境界線の上で、ちいかわたちは立ち往生する。巨体も、勇ましい精神も持ち合わせないその姿はあまりに弱々しく、セイレーンとの最終決戦まではまるで主人公然としない。そして終盤、犯人たちとの対峙で、ちいかわが下した選択にもどかしさを覚える観客もいよう。それでも彼らは、どんなに傷を負っても目の前の命を見捨てず、奪うこともしない。どちらか一方を悪と決めつけることもない。先鋭化した善悪の二元論と、力による現状変更が席巻する現代にあって、二元論に陥らず、力はなくとも命を救うことを諦めないちいかわたちは、実はこの時代に最も相応しい英雄の姿なのかもしれない。
本作が扱うのは「善悪」という、答えの出ない重々しいテーマだけではない。「いつまでも絶えることなく友達でいよう」。劇中歌『今日の日はさようなら』が示唆する通り、「友情」もまた本作を貫く重要な軸である。友を守るため、手を血で染めた犯人たち。友の命を奪われ、復讐に燃えるセイレーン。ラストシーン、喪失の痛みに翻弄された二者を想うちいかわは、やるせなさを抱えてやはり立ち尽くす。だが、その肩にうさぎが優しく手を置き、ハチワレはかの曲を口ずさむ。ままならぬ世の中でも、手を差し伸べてくれる人はどこかにいる、そんな一筋の光を感じさせるシーンである。ちなみに「永遠」という要素も絡めると、『今日の日はさようなら』は流れるシーンに応じて響きが変わる。秀逸な脚本をかみしめて耳を澄ませるのもよいだろう。
本作は愛らしい生き物たちの奮闘劇に、複雑な哲学的テーマや不条理な展開を内包してみせた。また、意味深なモチーフを折り込みつつ、あえてストーリーに「余白」を持たせることで、観客それぞれに解釈を委ねているのも巧い。ただ、かわいらしい外見と残酷な物語の落差という本作の魅力は、かわいいキャラに癒しを求める観客にとっては騙し討ちにもなりうる。原作の作風や登場人物名、世界観は劇中で全く説明されない点でも、事前知識なしでの鑑賞はおすすめしない。多少の心構えを持って映画館に足を向ければ、徹頭徹尾容赦なく、理不尽で、しかし少しだけ希望を与えてくれる、忘れがたい99分に出会えるだろう。(晴)
原作・脚本 ナガノ
監督 及川啓
配給 東宝
公開 2026年7月24日
上映時間 99分
監督 及川啓
配給 東宝
公開 2026年7月24日
上映時間 99分
