インタビュー

京都大学新聞 人文学入門講座「なぜ大学で人文学を学ぶのか」 第一講「なぜ大学で歴史学を学ぶのか」 藤井 崇 教授(西洋史学)

2026.08.01

京都大学新聞 人文学入門講座「なぜ大学で人文学を学ぶのか」 第一講「なぜ大学で歴史学を学ぶのか」 藤井 崇 教授(西洋史学)
哲学や歴史学、文学といった「人文学」は人間の精神や文化を研究する学問とされている。しかし科学技術の発展や経済成長を追い求める社会において、実利を生まない人文学が軽視される風潮は否定できない。人文学の軽視の影響は受験生個人の自己実現にも及ぶ。受験生が抱く人文学への志を、「役に立たない」「就職できない」といった言説が攻撃してくることもある。確かに人文学研究は、理系研究ほど設備を必要としないことが多く、経済学や法学などの社会科学に比して社会活動に直結しづらいかもしれない。

それでは一体、受験勉強をし、学費を払い、20歳前後の時間を費やして人文学に取り組む意義は何なのだろうか。本講座企画の第1回は文学部で西洋史を教える藤井崇教授に、「大学ではどのように歴史学を学ぶのか」「大学で歴史学から何を学ぶのか」を訊いた。もし今、人文学への進学に不安を抱いていたり迷っていたりする受験生がいたら、少しでも選択の参考になればと思う。(燕)

藤井崇(ふじい・たかし)京都大学大学院文学研究科 教授
2001年京都大学文学部卒業。03年京都大学大学院文学研究科修士課程修了。10年ハイデルベルク大学哲学部博士課程修了。10年オックスフォード大学研究員、13年京都大学白眉センター特定助教、15年関西学院大学准教授、21年京都大学准教授を経て、26年より現職。専門は西洋古代史。

目次

高校と大学で何が違うか
歴史は役に立つのか
「高校生は楽しいことを」

高校と大学で何が違うか


―歴史学の方法は。

歴史学には2つの柱があります。1つは「歴史的事実」です。著名な人物や大戦争もありますが、昨晩何を食べたのかも歴史的事実の1つです。大小ある歴史的事実のどれかに興味を持つことが、歴史学のはじめの一歩です。

もう1つの柱は「歴史的事実へのアプローチ」です。徳川家康に注目するとしても、家康の家族構成や関ヶ原の合戦、中央集権の仕方などの多くのトピックがあります。あらゆる歴史的事実には複数のアプローチがあり、多様な切り口から新たに面白い歴史的事実を発見していくことができます。

―高校と大学の歴史学習の違いは。

高校と大学の学びには、本質的な違いはないと思います。高校の教科書の執筆には代表的な研究者が携わっており、研究者の仕事の多くが反映されています。古代ギリシア・ローマ史では「市民」や「奴隷」というテーマが、一昔前には小作人に耕作させ地代をとる「コロナートゥス」といったテーマが重点的に教科書で扱われていました。ローマ帝国における重要事項は他にも多いですが、教科書で扱われるテーマの取捨選択は学界のトレンドに強く対応していると言えます。教科書は結果として暗記するために使われているかもしれませんが、プロダクトとしては大学での研究活動とは大きくは異なりません。

しかし一方で、私も大学入学後に高校と違う印象を受けました。高校で扱われる歴史的事実はとても少なく、大学からは量・密度が増えます。高校の授業では、よほど詳しい先生でない限り、1つの歴史的事実に対して1つの解釈しか示されない場合が多いです。しかし大学では、学部教育レベルの歴史的事実にも解釈の余地がありますし、時代が変われば新たな視点も生まれます。大学に入ると学生は、高校の教科書では複数の可能性から1つが選ばれていることに気づき、他の可能性にも着目するようになります。「なぜ教科書ではこう書かれているのか」「なぜ他の説明が教科書に載っていないのか」という視点から、深い調査に踏み込みます。さらに勉強を進めると、教科書はいくつかある可能性の中から意味のあるストーリーが選ばれて書かれている、と理解し、教科書の叙述に納得がいくようになります。そういう意味でも、大学と高校の授業には一定程度の継続性があると考えているのです。

大学には国が定めた教科書はありませんが、教科書的な役割を担う書籍はあります。例えば西洋史学の実習で扱う書籍は、研究者の共通理解によって構成されており、物事の考え方を伝えるという意味で教科書的な役割を果たします。紙媒体としての教科書を用いない授業も、議論しながら考え方を共有していくことを出発点としています。基本的な前提を共有するという意味で、教科書の役割を担っているのです。

―大学の歴史学のカリキュラムは。

西洋史学の場合、2回生時に「西洋史学講義」、3回生時に「西洋史学実習」「西洋史学演習」の受講が期待されています。

「講義」で私は「歴史学の歴史」をテーマに、古代から現代における歴史叙述の基本的な変遷を扱っています。歴史は各時代に異なる書かれ方をしてきました。古代ギリシアのヘロドトスが書いた『歴史』と、現代の研究者が書く歴史教科書は全く異なります。時代・地域によってどのような事柄がどのように扱われてきたのか、を理解するのが目的です。直近のことだけが大切なわけではなく、より古い時代から現代への影響も確かにあることを伝えたいと思っています。

「実習」では『論点・西洋史学』(ミネルヴァ書房、2020)を用いつつ、西洋史学における物事の考え方、問いの立て方、文献の調査方法、発表資料の作成方法を学びます。『論点』 では「歴史的事実」と「アプローチ」の組み合わせの重要性が強調されていますが、これは現代歴史学の考え方を端的に表しています。歴史的事実の評価は時代によって変化しますし、それまで意識されてこなかったテーマが注目されることもあります。特にジェンダー史は、19世紀の人間は一切考えてこなかったものの、21世紀では歴史学の大きな一翼になりつつあります。授業では学生が興味を持った論点を選び、論点を膨らませて発表します。こうした授業を通して、歴史学の2番目の柱「歴史的事実へのアプローチ」を学びます。

最も重視しているのが「演習」、いわゆる「ゼミ」です。演習では前期に英語の研究書を、後期に各自の研究報告をして討論をします。この授業には3回生から大学院生、ポスドク(*)までが参加します。院生の中には、分野によっては私よりも遥かに詳しい人や、教員志望の人も多くいます。学部生は、私だけでなく、そうした学生からも様々な歴史の見方やテーマを学びとります。一方で上級生にとっては教えることを学ぶ場でもあるのです。

(*)ポスドク
ポスト・ドクターのこと。博士号取得後、もしくは博士課程満期退学後、教育業務に従事していないが研究業務に従事している者のこと。

金澤周作 監修/藤井崇・青谷秀紀・古谷大輔・坂本優一郎・小野沢透 編著/ミネルヴァ書房/2020年



―高校では、教科書の理解を促す目的で史料が用いられる。一方で大学では、史料・資料が間違っている可能性も視野に入れる印象がある。

歴史研究で扱う史料には色々なことが起こりえます。例えば、「演習」で読む古代の史料には伝承の過程で写し間違いもあります。写本の中で提示される異なる読みを、文献学者が考察しながら現代のテキストを作り上げます。史料が残っていく過程で生まれたかもしれない間違いを、現代の研究者が確認する必要があるのです。

間違い自体が面白い歴史的現象になることもあります。私は毎年、トルコ西部のアプロディシアスで史料調査をしていますが、石碑に刻まれる古代ギリシア語の落書きに注目すると、間違いが多く見られます。例えば、私たちは一定の英語教育を受けているので、英語では「彼女」のsheと「海」のsea、「〜を見る」のseeの綴りが異なることを知っています。一方で教育を受けていなかった当時の人たちは発音通りに落書きを刻みます。しかしこの間違いがあるからこそ、古代ギリシア語の当時の発音が明らかになることもあります。

私がアプロディシアスでお世話になっている先生は「石は嘘をつかない」と言います。石碑から出発して当時の人々の思考を考えるのです。私たち現代人の思考から出発して石碑の字や内容を間違いだと断定したり、些細なことだと蔑ろにしたりするのではなく、石に書かれていることを正確に読み取ることから始めなければいけません。そのため私は一次史料が間違っているとは考えません。私たちにとって正しく思えない場合、なぜそうした事象がありうるのかを考える態度が求められます。

アプロディシアスの十字路門(藤井教授提供)



―白眉センター(*)に在籍していたことも。理系研究者と関わる中で抱いた文系研究の印象は。

もちろん文理といってもそれぞれ多様な研究がありますが、文系研究は個別性を、理系研究は普遍性を重視する傾向があります。白眉センター在籍時、私は古代ギリシア語で書かれた墓碑銘から読み取れる死因や感情の研究をしていました。調査の段階で数百の墓碑銘をサンプルとして用いました。これは古代史研究のサンプル数としては多い方ですが、同僚の理系研究者に「サンプルはそれだけか」と尋ねられました。歴史学者は個別性に注目します。数百の墓碑銘を特定の時代・地域の現象として研究し、各々のサンプルにおける差異や他の時代・地域の墓碑銘との相違点に焦点を当てます。そのため扱えるサンプル数には限界があります。一方で理系研究者の多くは、個別の実験や観察から得た結果がルールとして普遍的に世の中を構成する、と考えます。その点で文理の研究姿勢の違いを感じました。

(*)白眉センター
2009年に、次世代研究者の育成を目的に京大が設立した研究機関。多様な分野を専門とする若手研究者が5年の任期と一定の研究費のもとで研究に取り組む。

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歴史は役に立つのか


―歴史学は、大学以外でも博物館や書籍などで簡単にアクセスできる。一方、大学で学ばなければ辿り着けない領域は。

大学で学ぶことは、運転免許証のような側面があると思います。授業や卒業論文で徳川幕府の一側面について深く研究したとして、その研究過程から得た考え方や調査方法が、ウクライナ戦争の理解に役立つかもしれません。卒業論文などの通過儀礼を越えることで、あらゆるテーマについてどのように順序立てて考えを深めれば良いか、どの背景に注目することで眼前のテーマを明確に理解できるか、もしくは人と違った理解ができるのか、という思考の方法を得られます。大学では、自分で考え調べる術を学ぶのです。

また、現在見えているものだけが全てではない、ということも学びます。何らかの原因や経緯によって現在は形成されていますが、違った形になっている可能性もあり、違った社会を再び作ることも可能かもしれません。社会的にも個人的にも「違う可能性もあったかもしれない」という考えが、ただの空想ではなく、歴史的に考察して想いを巡らせることができるようになると思います。

大学の学習は、そうした進んだ考え方や調べ方の基盤となります。身近なことから国際的なことまで、世の中の出来事に対する考え方が変わると思います。ただ、それが人生をハッピーにするかといわれたら分かりません。余計苦しくなる場合もあるかもしれませんね(笑)。

―昨今、高校教育に新たに導入された「歴史総合」のように、「世界史」「日本史」の枠組みを越えた、近代以降のグローバルヒストリーが重視される傾向がある。古代史研究者の立場としてどう捉えるか。

現代社会の問題を考える際、近い時代の歴史が大切だという考えは、一つの明確な理屈です。

かつて京大で西洋史を教えていた藤縄謙三は『ギリシア文化と日本文化』(平凡社、1994)で「推移の歴史」と「構築の歴史」を紹介しています。「推移の歴史」は、歴史を川の流れのように認識し、現状を理解するためには少し上流を鑑みれば良く、源流まで遡る必要はないという考えです。一方で「構築の歴史」は、歴史をピラミッドのように捉え、土台としての古代の上に中近世以降が順に重なっているという考えで、土台としての古代の方が後の時代よりも重要性を持つといいます。前者は日本の古典に、後者は古代ギリシア・ローマの古典に見られる態度です。

「歴史総合」の理念は「推移の歴史」に通底するものですが、古代が現代に影響を与えていることは否定できません。ギリシアで始まってローマに引き継がれた民主制は、ルネサンスの時代に政治思想として復活し、英米仏における共和主義の勃興に繋がりました。このように古代に生まれた民主主義は日本への導入に至るまで強く影響を持ちました。一方でデヴィッド・グレーバーは『民主主義の非西洋起源について』(平凡社、2026)で、暴力や不平等などの社会悪も古代ギリシア・ローマから始まったものだと指摘しています。

いずれにせよ、民主主義や人権などを考えると、古代の基礎がなければ現代の枠組みは変わっていた、と考えられます。直近のことではなく現状の直接的な原因にはなりませんが、前近代には、良くも悪くも人々の考えを深い地点から規定する強い力があります。

―歴史は役に立つのか。

古代ギリシアの歴史家たちは、歴史は役に立つと訴えています。戦争の原因を考察することで、将来的に似た状況が起きた際に対応できるだろう、と。女性の社会的地位の向上や奴隷制の廃止など、長期的には社会は是正されており、歴史が寄与している側面はあります。

しかし短期的な視点で考えると、歴史には限界があります。現代の世の中を見ると、歴史で戦争に対抗するのは容易ではないと分かります。戦車が突っ込んでいくような戦争は2度と起こらないと思われていたが、実際に起こってしまった。80年代半ばの歴史学者は誰もソ連が崩壊するとは思っていなかった、という話もあります。歴史を踏まえた予見は容易ではないし、予見できたとしても歴史家がそれを阻止する力はありません。歴史家が新書を書いたとしても戦争は止められませんし、政治家にもそうした力はないのかもしれません。様々な政治的・国際的な問題は、歴史の力では止められずに進展しているのが現実です。

藤縄謙三/平凡社/1994年



デヴィッド・グレーバー/平凡社/2026年



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「高校生は楽しいことを」


―大学で歴史を学びたい高校生ができる有意義な学習は。

私自身、高校生の時にそのようなことを考えていなかったので、「別に気楽でいいんちゃう」と思います(笑)。敢えていうならば、新書を読むことを薦めます。昨今、研究者の知見が取り入れられた漫画やアニメなどによって、学術研究が一般の人に間接的に影響を与えることが多くあります。一方で、専門家の学術書が読まれなくなるという状況が生まれています。ただ、そうした中でも新書は一般に読まれており、人文・社会科学の最後の砦です。だからこそ研究者は新書の執筆に力を入れていますし、専門書に比べたら手に取りやすいです。興味がある新書を学習に役立てるのが良いでしょう。

―大学入試では単語の暗記が重視される側面も。 受験生は暗記一辺倒になりがちだが。

一問一答形式は必要な手続きだと思います。例えばローマ帝国について考察する際、経済、ジェンダー、食料供給などの様々なアプローチが考えられますが、「アウグストゥス」や「ディオクレティアヌス」などの固有名詞を一切出さないで語ることはできません。歴史学は個別の事実の集積であることは間違いなく、固有名詞は歴史学の根幹です。歴史学の社会的な意義などを追求しすぎると、その時代に実際に生きていた個人の営みとしての固有名詞を蔑ろにしてしまい、むしろ歴史学でなくなってしまいかねません。興味がない人にとっては苦痛に過ぎないかもしれませんが、単語の暗記は否定されるべきではないと思います。

―受験生にメッセージを。

私はこれまで長い期間、海外で研究していたことがあります。その中で欧米出身の人に「なぜ、日本人のあなたがわざわざギリシア・ローマの研究をしているのか」とよく訊かれました。日本で生まれ育った私がギリシア・ローマ史に関心を寄せることは、欧米の研究者が『源氏物語』などに興味を持つことと同様、おかしいことではありません。離れた地域同士の思想や哲学が共通の基盤から発生している可能性もありますし、異国で長年暮らしてきた人の思考に響くものがあっても良いはずです。そのため今でも、「〇〇人だから〇〇の歴史が大事だ」や「どうしてそんなことをやるんだ」といった質問とは闘っていきたいと思っています。

受験生の皆さんも、周りからの言葉や将来などをあまり気にせずに、楽しいことに取り組んでみるのはどうでしょう。現代社会では心身の健康を保つのが難しくなっています。利己的に聞こえるかもしれませんが、自分自身が幸せでないと、周りの人たちも楽しくありません。京大にはある程度の自由があります。不完全だったり問題があったりしますが、それでも自分が楽しく活動し、ポジティブに人と接することができます。そうした環境を活用して過ごすのはいかがでしょうか。

―ありがとうございました。(聞き手:燕・悠)

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