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教習所体験記2026

2026.06.16

教習所体験記2026

旅行で訪れた、徳島県・大歩危峡。国道32号線はこのV字谷に沿って四国山地を越える

運転免許といえば、大学生のうちに取っておきたい資格の筆頭だ。免許さえあれば、自転車や徒歩では遠すぎる場所でも、電車や飛行機・バスが通らない場所でも、車で行くことが可能になる。そんな権利を手にするまでには、いかなる道のりがあるのか。ここでは編集員が自身の経験を振り返る。これを読んで免許取得のエンジンがかかるか、やめておこうとブレーキを踏むことになるか。いずれにしても、考えるきっかけにしてもらえれば幸いだ。(編集部)

目次

【通学】大人の「あかし」
【通学】勝負は落ちてから

【通学】大人の「あかし」


「大人になる」とはどんなことだろう。一人暮らしを始めること。お酒を飲むこと。就活で企業に愛想を振りまき、社会のしがらみに足を踏み入れること。色々考えられるが、私にとっての通過儀礼は自動車免許を取ることだった。以下は家族との思い出話ばかりの駄文だが、少しでも免許取得を考える読者諸賢の後押しとなれば嬉しい。

おやじの横顔


電車やバスは楽々目的地へたどり着けるが、人目を気にせず会話することや、決められた路線を逸れて関心のある場所へ向かうことはかなわない。だから家族で遠くへ出かける時は、ミニバンのマイカーを使うのが常だった。地元の長野県から、本当にいろんな所へ行った。4泊5日で紀伊半島を一周したり(1200キロ弱)、3泊4日で東北を一周したり(1900キロ強)した。

私の定位置は助手席。そして隣でハンドルを操るのは、決まって父だった。見知らぬ街での運転に怖気づく母に代わり、父はどこまでも続いていきそうな高速道路も、離合困難な山道も、東京都心の混雑の中も、危なげなくミニバンで抜けていった。助手席に座る私の役目は、ルートを考え案内し、カーオーディオのGReeeeNのCDが一周すれば交換し、父がうとうとしていればガムや飲み物を渡したり、頬を平手打ちしたりして、眠気を覚ますことだった。私の左方と前方の視界に広がるのは、四季折々・津々浦々で色鮮やかな表情を見せる日本の山野河海。そして右方にはいつも、くだらない冗談を言いながら前を見据える父がいた。その横顔に頼もしさを覚えつつ、サービスエリアで疲れて眠りこける姿を見るたび、少し申し訳なく思ったのを覚えている。

いつまでも父に任せきりではいけない、大学に入ったら免許を取ろう──そうは思ったものの、このサークルにうつつを抜かしていると、気がついたら2回生の春になっていた。最後に私の尻を叩いたのは、その頃免許を取得した同期の(燕)だった。「ドライブしたい」という彼に連れられ、連日助手席に座る日々。父よりは随分荒っぽい運転だったが、楽しそうにハンドルを握る彼を見て、「そろそろ取るか」という気になった。生協のカウンターで申し込み、初めて教習所に向かったのは5月10日のことだった。

助手席から運転席へ


正直、教習所で印象的だったことは少ない。学科では交通法規や運転時に注意すべき点を習うが、なにせ物心ついてから飽きるほど助手席に座っているのだ。たいていの標識や看板の意味は分かったし、危険予測のセンスもある程度はついていた。ちょっとチープな映像教材を見るのが楽しかったぐらいだろうか。

実車教習はもちろん初体験だったが、何回か経験すれば車体感覚も身についてくる。何としても夏の家族旅行の前に免許を取りたかったので、空きコマがあれば毎日のように教習所へ通った。第一段階の修了検定はつつがなく終わり、一発で仮免許をもらった。

第二段階では所外教習が始まり、歩行者や他の車両など「不如意」なものが無数に現れる。ただ、ここでも10年以上に渡る「助手席のエキスパート」としての経験に助けられてか、父の運転パターンを思い出し、取るべき動きは大抵取ることができた。駐停車教習や所内でのバック練習などで多少つまづいたが、第二段階の方がむしろスムーズに進んだ記憶がある。唯一強く印象に残っているのは、他の入所者と合同で実施された高速道路教習。別の入所者が環状交差点を逆走しかけたり、車線変更のタイミングを間違えて後続車からクラクションを鳴らされたりと、とにかく生きた心地がしなかった。車という「凶器」の危険性を改めて認識させられた出来事だった。

こうして8月上旬の免許取得が現実味を帯び始めてきたものの、最後の最後に思わぬ問題が生じた。7月末は大学の試験・レポートに、8月1日号の紙面発行と塾バイトの夏期講習が重なり、予想外の過密スケジュールとなってしまったのだ。試験の合間を縫って教習へ行き、夜はバイトへ向かう毎日。なんとか全て無事に終わらせ、伏見区羽束師の免許センターで免許証を受領したのは8月4日。生来の不器用さから補習にならないかと心配していたが、蓋を開けてみれば3か月弱での免許取得となった。

父が景色を眺めた日


免許を取ってからは京都市内で練習を積み、いよいよ家族旅行へ。父がマイカーを京都まで運転してきた上で、淡路島を通って四国4県の県庁所在地を全て回るルートだった。学科を思い出しながら高知市内で路面電車と並走したり、延々続く四国山地の中の山道を運転したりと、3分の2くらいは私が運転させてもらった。後部座席で口を開けて眠りこける母はいつも通りだが、左方で目を閉じてうつむく父の横顔が新鮮だった。一番印象に残ったのは、明石海峡大橋を渡った時のこと。ハンドルを握る私は、今までのように脇を流れてゆく景色を見ることはかなわない。一方父は、眼下を通る船を窓ガラス越しにまじまじと見つめていた。「今日は景色を堪能させてもらうよ」という父の一言を聞いてふと、やっとこの人と同じ場所に来られたのだと、少し目頭が熱くなったことを思い出す。

免許証は、単に運転資格を証明するものではない。これまで親に支えてもらってばかりだった自分が、少しずつ親を支えていく側に移っていくための資格証でもあるのだと思う。同乗者の命を預かり、目的地へと車を走らせる。そんな新たな役目と責任を引き受け、「大人」のあかしを得るためなら、教習所へ通うのもきっと悪くない。(晴)

明石海峡大橋(助手席より撮影)



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【通学】勝負は落ちてから


これを読み始めた方は驚くかもしれないが、私は免許の試験に3回落ちている。修了検定(仮免許試験)で2回、卒業検定で1回だ。警察庁によれば、修検の合格率は8割近く、卒検でも約7割だそうで、3回も落ちた私は相当珍しい部類に入るようだ。だがそんな私でも、なんとか免許を取得できた。免許を取るか悩んでいる人、あるいは今教習で苦しんでいる人に少しでも希望を届けられればと思い、今回筆を執った。

明確な目標を求めて


教習所に通おうと思ったのは、1回生の夏前だった。その頃の私は目標を見失っていた。長い受験生活を終えて、京大に入学できたはいいものの、打ち込むものが見つからなかったのだ。サークルにも入ってみたが、雰囲気が合わず今後続けるかどうか悩んでいた。そこで見つけたのが、免許だった。免許取得に目標を定め、エネルギーを投入することにした。合宿型と通学型どちらにするか迷ったが、思い立った時には既に夏休みの合宿免許の申し込みは終わっており、通学しか選択肢が残っていなかった。京都の道に慣れたいと思い、8月中旬に左京区北方の某教習所に入所した。

脱輪はつらいよ


第一段階教習が始まると、学科は特に問題なかったが、技能はかなり苦労した。最初の実車教習では、ブレーキは、踏み加減がわからずバーンと踏み込んでしまうし、ハンドルを大きく回したときは、持ち替えができず手がクロスしてしまった。最大関門はS字・クランクの通行だった。運転している自分の感覚と実際の車の位置にずれがあるためか、どのタイミングでハンドルを回せばよいか見当がつかない。「内輪差に注意して」とよく言われたが、そもそも前輪と後輪がどこを通っているのかがわからないためピンとこなかった。

結局腑に落ちないまま教習は進み、最初の修検を迎えた。最初はとくに何もなく進行したが、問題が起きたのはやはりS字だった。よくわからないままハンドルを回しながら低速でS字を通行しているとき、突然「ボコッ」という音がした。脱輪したのかもしれない。教官に尋ねてみるが、試験中なので答えてくれず、自分で脱輪したものだと判断し復帰の手順を取った。実は1回の脱輪では即検定中止というわけではない。その時は復帰がうまくいったようで、教官からは何も言われなかった。そしていよいよS字を抜けようと左にハンドルを切ったとき、教官から待ったがかかった。不安を感じながら待っていた私に告げられたのは、2回脱輪のため検定中止、つまり不合格ということだった。

不合格後には補習を受け、再試験に備えなければならない。補習時にはとにかくたくさん質問した。教官は丁寧に、しかも試験で役立つ実践的なアドバイスをしてくれたことが印象に残っている。2回目の検定を受けたが、また落ちた。落ちた原因は前回と同じくS字での脱輪。前よりはうまく通れている感覚はあったが、やはりS字を抜けるとき、空しくもボコッと脱輪した。2回目の検定中止。さすがに悔しかった。

3回目の検定に向けてまた補習を受けた。この時は前回にもまして懇願するかのように質問をした。教官も何とか受からせようとよりいっそう実践的なことを教えてくれたおかげか、少し感覚がつかめるようになった。そして迎えた三度目の試験。今回こそは絶対に受かりたかったので、ある秘策を取ることにした。S字を通る際、少し進むたびに窓を開け車輪の位置を確認するのだ。何度も車輪が落ちそうにないかを入念に確かめた。10分ぐらいかかったが、何とか無事にS字を抜け、3度目の正直で合格した。季節は移り変わり11月になっていた。

落ちて理解する


ようやく仮免許を手にし、第二段階教習が始まった。第二段階は路上教習が基本だが、その前に1回だけ教習所内で急ブレーキ・急発進の教習を行った際の経験が忘れられない。高速でカーブを曲がった後に急ブレーキをかけるという項目で、カーブを曲がる際にハンドルを切りすぎてあわや対向車と衝突しそうになった。ハンドルを戻し九死に一生を得たが、あと数秒遅ければ大事故になっていただろう。車が凶器になりうると身をもって感じた。路上では、車の左側に次々と現れる自転車や突然すり抜けてくるバイク、度重なる路上駐車を目にして、第一通行帯を走るのが苦手になった。根っからの方向音痴で道が覚えられず、教官に次はどこの信号で曲がるのかを何度も尋ねた。しかし、ただ大変だったわけではない。山岳教習で初めて大原を訪れたときは、自分の手でまだ見ぬ景色まで辿り着いたことに感慨深さを覚えた。このとき少しだけドライブの楽しさを実感した。

年が明け、卒検を受けることになった。卒検は案外スムーズに進んだ。しかし、あと数百メートルでゴールという、矢印式信号のある交差点で右折しようとしたとき、事件は起きた。前の車がどんどん右折していたのを見て、流れに乗りハンドルを右に切った。その瞬間教官がバーンと補助ブレーキを踏んで車は停止した。信号無視による検定中止を言い渡され、あと一歩で不合格になった。信号に目をやると、右折矢印は消えており、完全に赤になっていた。

その日のうちに補習を受け、そこで初めて矢印式信号機の見方を理解した。矢印がどのタイミングで出るかといった基本的な知識が不足していたのだった。今思えば、きちんと理解せず世に放たれるよりはよっぽどよかっただろう。復習の功あって、次の日の再試験で無事に卒検に合格できた。さらに次の日免許試験場で、最後の学科試験を突破し、ようやく免許を取得できた。入校から約5か月後のことだった。

長い闘いを終えて


卒検に合格したとき、教官に「安全意識はあるけど、円滑さは欠けているね」と言われたことが印象に残っている。今でも右折のタイミングをつかめず、もたもたしてしまうこともしばしばだ。運転するときの緊張も抜けない。ハンドルを握るとき力んでいるよ、と私より後に免許を取得した友人に指摘された。一番大きな課題はまだ一人で運転したことがないということだろう。父親や先輩、さらには後から免許を取得した友人にまで教えを乞いながらも、何とか運転を続けられている。これからも早く真の「独り立ち」ができるよう、肩肘張らずにハンドルを握っていきたい。(鳥)

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