企画

二〇〇年続く祈りのかたち 南タイ・プーケットの九皇齋節調査記

2026.04.16

二〇〇年続く祈りのかたち 南タイ・プーケットの九皇齋節調査記

20日深夜、水碓斗母宮で九皇大帝ら3柱の神霊を奉迎するマーソンたち

タイ南部の島、プーケットは、美しいビーチを売りにした世界的なリゾート地だ。しかし、大学院で東南アジアの文化を専攻する筆者の目的は、200年にわたり受け継がれてきた華人の宗教行事、「九皇齋節」の調査だ。昨年10月、祭りの現場で筆者が体験した、少し可笑しく、温かな日常の風景をレポートする。(唐)

目次

移民の記憶と九皇信仰
フィールドに溶け込め!
爆竹と神威
なぜ海辺に向かうのか
海の向こうへ続く記憶

移民の記憶と九皇信仰


九皇齋節は、英語では「ベジタリアン・フェスティバル」、タイ語では「キンジェー」と呼ばれる。神が憑依したシャーマン(タイ語で「マーソン」)が頬に針を刺すなど、衝撃的な光景が見られる「奇祭」として知られている。

まず、なぜプーケットでこれほど熱狂的な華人祭礼が行われているのか。そこにはスズ鉱山と移民の歴史がある。19世紀、プーケットはスズの採掘で沸いていた。その過酷な労働を担ったのが、イギリス領マレーシア(特にペナン島)から渡ってきた福建系の華人移民たちだ。彼らはただの労働者ではない。異郷の地で身を守るため、「天地会」などの秘密結社を作り、利権を巡って血で血を洗う抗争を繰り広げてきた。

現在の九皇祭りの原型は、1825年頃、スズ鉱山で働く鉱夫たちが原因不明の疫病に苦しんだ際、故郷の神である「九皇大帝」を招いて無病息災を祈り、身を清めるために菜食を貫いたことにあるという。祭りで全員が着用する「白装束」や「菜食戒」には、清朝への反乱に敗れ、南洋に流れた者たちの「喪服」の記憶が刻まれているとも言われる。つまり、この祭りは単なるレクリエーションではなく、南洋の地で生き残るために、神とコミュニティにしがみついた人々のサバイバルの記録なのだ。ちなみに、筆者も日本の華僑2世、勝手に親近感を抱いての現地入りとなった。

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フィールドに溶け込め!


調査地、プーケット


香港での深夜トランジット(眠い)を経て、10月19日の午後にプーケット旧市街にあるゲストハウスに到着した。町はすでに黄色い「齋(ジェー)」の旗がたなびき、お祭りムード一色だ。

宿主は、恰幅のいいコシットおじいさん。そしてバンコクから手伝いに来ている親戚のチャーイおじさん。綺麗な七三分けとニヤリ笑顔が特徴的だ。「お祭りはあっちの神社(廟)でやってるぞ。ベジタリアン・フードばかりだけど、美味いから行け」。 おじいさんが指さしたのは、プーケット最大規模の廟・「水碓斗母宮/水碓庵」(*)。100年以上の歴史を誇るこの聖地が、筆者の主戦場となった。

門前には、吉田神社の節分祭を思い出させる屋台が立ち並ぶ。お店の人も一般人も皆、白い服を着用している。屋台では、飲み物や果物のほか、焼きそば、餡饅、おやつなどの食べ物や、白装束も売られている。

「料理しようか」から始まった朝


20日の朝、移動の疲れと窓のない部屋のせいもあって、ゆっくり起き出した筆者は、共用キッチンでコーヒーを探していた。そこへチャーイおじさんが現れ、机に置かれた生の豚肉とバジルの葉(タイ語で「ガパオ」)を指さして「おはよう。よし、料理しようか」と笑った。あれ、殺生してよかっただろうか(*)。しかし、文化人類学の鉄則は「出されたものは拒まない」。そして何より、美味しいものがあれば食べたい。そう思い、鍋の前に立った。

作ったのは「ガパオ・ムー(豚肉のガパオ炒め)」。なぜか豚肉を丁寧に洗い、油でニンニクとネギを熱する。香ばしい匂いがキッチンに充満する中、おじさんが「これを入れろ」と差し出したのは、まさかの冷や飯。チャーハン風に仕立てるのか。頬張りながら料理の話で盛り上がると、おじさんは「明日はグリーンカレーだ。市場に連れて行ってやる」と上機嫌。筆者の胃袋は、調査開始早々、現地の人々にガッチリと掴まれてしまった。

グリーンカレーにバジルなどの野菜、そしてカノム・チーンを添えて食べる



雨の中の奉納


その日のプーケットは、雨が降ったり止んだりを繰り返していた。しかし、水碓庵の門前には雨など意に介さない白装束の群衆が溢れていた。巨大な柱を立てる儀式が始まるところだ。柱に吊るされた9つの灯は、九皇大帝の象徴である。柱が立ち上がった瞬間、人々は歓声をあげ、涙を流す者も多い。雨は「神が大地を洗い清めるために降らせている」と言われ、この祭りに雨はつきものだという。

深夜23時(子の時)、爆竹が夜空を切り裂き、いよいよ神霊の勧請儀式が執り行われた。9日間の聖なる祝祭期間の始まりである。

混沌の市場と「南洋のパスタ」


約束通り、翌朝7時半に市場へ。ラノーン通りにある市場は、巨大なコンクリートの迷宮だ。吊るされた肉、山積みの野菜とハーブ、干物の匂いが混じり合うカオス。 カレールーの店に行くと、まるでジェラート屋さんのようにスパイスのペーストが山盛りにされている。おじいさんが「辛すぎず、コクがあるやつを」とオーダーすると、店主が手際よくブレンドしてくれた。

宿に戻り、調理開始。ココナッツミルクで鶏肉とナスを煮込み、フレッシュなバジルを放り込む。これを「カノム・チーン」という米の細麺にかけて食べる。 この「南洋の生パスタ」とも言うべき一品が、悶絶するほど美味い。カレーのピリピリする辛さに、朝の眠気も吹き飛んだ。調査という名のグルメの旅になりつつあるが、これもまた「現地の生活を胃袋で理解する」という重要なプロセスである(と言い訳しておく)。口直しに上に漬物を乗せたり、付け合わせのきゅうりなどと一緒に食べたりするとまた美味しい。

量り売りされるカレーペースト



*中国寺院は中国語では「廟」と言い、タイ語で正式には「サンチャオ(神の社)」という。「吉田神社」なら「サンチャオ・ヨシダ」だ。実際の会話では、中国語由来のアン(庵)が多用された。
*現地の人でも、菜食には温度差がある。祭りの期間中数日だけ菜食する者、全くしない者も入る。筆者は、肉を食べてしまった日には、現地の人と同様の白装束を身につけないというルールを自分に課した。

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爆竹と神威


意外すぎる初対面


23日早朝、SNSで「神輿行列が出る」と聞きつけ、現場へ急行した。様々な神明が憑依したマーソンたちを載せたトラックが、1キロ以上の列をなしていた。荷台には派手な装束に身を包み、頬に針や刃物を貫通させたマーソンたちが。血生臭さよりも、ピンと張り詰めた「神聖な狂気」が勝る。

圧倒的な迫力に気圧されていると、関羽の神像を載せたトラックと目が合った。意を決して、若衆たちに「乗せて!」と頼むと、「パイ!(行くぞ!)」と腕を引かれ、まさかの神様との相乗りが実現。

町に入ると、若衆たちが車から降り、上半身裸になって関羽の神像を神輿に担いだ。沿道の見物客から一斉に爆竹が投げ込まれる。耳を塞いでもなお鼓膜が震え、視界は真っ白な煙に覆われる。何より鼻に匂いが入り込み呼吸が苦しい。それでも若衆たちはタオルで顔を覆い、誇らしげに進み続ける。火傷するものではないが、それ以上に「場」の熱狂に麻痺しているのだ。

ふと横を見ると、観音菩薩が憑いたマーソンが、沿道の老婦人の頭を優しく撫でて祈祷していた。かと思えば、孫悟空のマーソンが猿のような動きで子供たちに飴を配り歩いている。「武神の厳しさ」と「菩薩の慈愛」が、爆竹の煙の中で渾然一体となっている。2メートルもある爆竹の束を竹竿で神輿に直撃させる信者の姿は、もはや神への攻撃に見えるが、これこそが神威を高める最高の奉納なのだ。

行列のトリを飾るのは、九皇大帝の「鳳輦」だ。厚い幕に隠された神像の威厳に、沿道の信者は一斉にひれ伏す。呆然と立ち尽くしていた筆者も「頭が高い!」と一喝され、慌てて地べたに膝をついた。たなびく旗には「大帝が広く南の国を救う」の文字。中国の神様が遥か南洋まで出張し、異邦の民を守護する。そんな海を越えた救済の神話が、爆竹の煙の中で力強く躍動していた。

市中心部からやや離れた廟で、23日早朝の行列を探すとき道中で出会った



武神・ナタのマーソンとその神輿を担ぐ氏子に、爆竹の集中砲火が浴びせられた



タイ語学習と「お斎」の注文


祭りのもう一つの楽しみは、精進料理(お斎)の食堂「齋堂」での食事だ。京大でタイ語を半年学んだが、実戦では全く役に立たない。メニューが読めず立ち往生していると、ふくよかなおばちゃんが「何食べるの?」と中国語で話しかけてくれた。 「おお、救いの神!」 タイの華人コミュニティでは、今では標準中国語(北京語)を学ぶ人も多いようだ。おばちゃんに教わりながら、ご飯におかずを2品載せてもらう。これで50バーツ(約200円)。 野菜で肉や魚の形を再現した「もどき料理」は、京都・宇治の萬福寺の普茶料理を思い出させる。 「君も華人か?」 会計のおばちゃんに声をかけられた。彼女はマレーシアからボランティアで手伝いに来ているという。この破格の安さは、多くの信者の寄進と奉仕で成り立っている。信仰がそのまま「安くて美味い飯」として還元されるシステムに、筆者は深く感動した。

真ん中の魚も含めて、すべて野菜でできた精進料理



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なぜ海辺に向かうのか


サパンヒンという聖地


神輿行列は、海に向かって臨時の祭壇が設けられる。爆竹の音と、銅鑼の音が混ざり合う中、九皇大帝の神輿が着御する。白装束の信者は跪き合掌し、マーソンたちは手に線香を持つ。祭壇では僧侶のような読経師が、福建語でお経を唱える。波音に混じって聞こえる「南無阿弥陀仏」。 ふと、これは「お葬式」ではないか、と思った。

九皇祭りは、航海の道中や鉱山で命を落とした先人たちを偲ぶ、鎮魂の儀式でもあるのだ。そして、九皇大帝がやってくる海の向こうには、彼らのもう一つの故郷・ペナン島がある。祭壇に立てられた9本の白い蝋燭が、潮風に揺れ、そこには深い静寂と、先祖への思慕があった。

夜空を焦がす9日目の爆竹


最終日の29日(旧暦9日)の深夜(これまた子の時)、多くの廟からマーソンと神輿が次々とサパンヒンに向かい、御霊を海に送り返す。砂浜に供物を並べる人々もいたが、正直浅瀬で静かに行われる儀式に目を向ける人は少ない。やってくるマーソンやお神輿に向かって爆竹を投げるのを楽しむ者、出店でベジタリアンフードを楽しむ者、……場は祝祭の賑わいを極め、煙は天まで届く。開かれている海辺のはずが、煙たくて周りすらよく見えない。

最終日の深夜、空を焼き尽くさんばかりの爆竹と花火の中、神々は海へと帰っていった。人々も9日間の菜食を終え、盛大に祝い、また日常に戻るのである。

マーソンや氏子集団に厳重に守られている九皇大帝の神輿



沿道の家庭に祝福を与えるマーソン



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海の向こうへ続く記憶


翌朝5時、ほぼ一睡もしていない筆者を、コシットおじいさんがバスターミナルまで送ってくれた。車を降りる際、おじいさんは私の肩を叩いて言った。 「お前はもう、俺の息子みたいなもんだ。いつでも戻ってこいよ」

出発までの時間、近くのコーヒー屋で「スタミナ朝食」をとることにした。ココナッツジャムをたっぷり塗ったトーストと、これでもかと砂糖を入れた濃厚なコーヒー。かつて鉱夫たちが過酷な労働の前に胃に流し込んだのと同じ味だ。

寝不足の頭に、甘いコーヒーが染み渡る。 200年前、スズを求めて海を渡ってきた人々。ある者は成功し、ある者は倒れ、またある者はこの地に根を下ろして「タイ人」になっていった。言葉が変わっても、習慣が変わっても、彼らが守り続けた信仰は今も形を変えながら、異郷から来た私のような若者をも優しく(そして爆竹で激しく)包み込んでくれる。海の向こうにあるペナン、そして大陸へ続く歴史。私が軽く飛び越えた水平線の向こう側に、かつての人々が抱いた「祈り」の重みを感じながら、プーケットを後にした。〈了〉

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