古代インドの知に挑む 文学部・インド古典学専修インタビュー
2026.04.01
左からパンさん、ダヴィデさん、天野さん、ヴァスデーヴァさん
本特集では、世界を股に掛ける研究者たちと、この稀有な環境を謳歌する学生たちの姿を追う。(編集部)
目次
研究者 世界から京都へ学生 世界初の翻訳にも挑める濃密指導
研究者 世界から京都へ
インド古典学専修には文字通り「世界中」から4人の研究者が集まっている。なぜ千年も昔の古典を読むのか、その苦楽や意義を伺った。(唐)
ヴァースデーヴァ・ソームデーヴ 教授
イギリス・ロンドン大学卒業、オックスフォード大学にて博士号取得。19年より現職。
天野恭子(あまの・きょうこ) 准教授
大阪大学卒業、ドイツ・フライブルク大学にて博士号取得。24年より現職。
ダヴィデ・モッチ 特別研究員
イタリア・カリアリ大学卒業、パヴィア高等研究院にて博士号取得。25年より現職。
パン・タオ 特定講師
中国・復旦大学卒業後、ドイツ・ミュンヘン大学にて博士号取得。21年より現職。
イギリス・ロンドン大学卒業、オックスフォード大学にて博士号取得。19年より現職。
天野恭子(あまの・きょうこ) 准教授
大阪大学卒業、ドイツ・フライブルク大学にて博士号取得。24年より現職。
ダヴィデ・モッチ 特別研究員
イタリア・カリアリ大学卒業、パヴィア高等研究院にて博士号取得。25年より現職。
パン・タオ 特定講師
中国・復旦大学卒業後、ドイツ・ミュンヘン大学にて博士号取得。21年より現職。
インド古典学との多様な出会い
――自己紹介を。
ヴァスデーヴァ(以下「ヴァ」) 私はフィンランド人の母とインド人の父のもとで生まれ、スイスで育ちました。日常的にさまざまな言語が飛び交う環境で、自然と言葉そのものに興味が湧いたのです。学部はロンドン大学で学び、オックスフォード大学で博士号を取得した後、アメリカの大学でも教鞭を執り、京都へやってきました。現在はシヴァ教のヨーガ実践と、美学・経験論の研究をしています。
天野 学部時代に「一番珍しい言語をやりたい」と思ったのがきっかけです。そこでサンスクリットに出会い、ヴェーダ文献(*)の中でも誰も訳していなかった『マイトラヤーニ・サンヒター』に巡り合いました。「これをなんとか訳してみよう!」と思って研究を始めました。既存の辞書が通用しない古い文法が使われているので、言語学の実力をつけるためにドイツに留学し、印欧語比較学の博士号を取りました。
パン もともと物理学を専攻していましたが、物理で使うα・β・γといったギリシャ文字に惹かれ、古典語へと関心が移っていきました。気がつけばインド・ヨーロッパ語族(*)のサンスクリット(*)やトカラ語を研究するようになっていました。ドイツでの滞在が長かったこともあり、日本人の同僚ともドイツ語で会話することが多いですね。
ダヴィデ(以下「ダヴ」) 博士課程までイタリアで学び、現在は天野先生の研究手法を学ぶために日本に来ています。古典語との出会いは高校時代でした。ラテン語に強い興味を持ち、当時の先生から「本当に手応えのある研究をしたいならサンスクリットだ」と勧められたんです。それがきっかけで、今ではすっかりこの分野に魅了されています。
*ヴェーダ文献
紀元前千5百年から千年ほどの間で作られた、インド最古の文献群。バラモンによる宗教儀礼について記されている。
*インド・ヨーロッパ語族
インドからヨーロッパにかけての多くの言語が、同じ祖先(インド・ヨーロッパ祖語)から派生したと言われ、それらは「インド・ヨーロッパ語族」と分類される。
*サンスクリット
「サンスクリット」は、「完全にしつらえられた」を意味する「サンスクリタ」からきている。文中では、英語sanskritに合わせ「サンスクリット」と表記する。
紀元前千5百年から千年ほどの間で作られた、インド最古の文献群。バラモンによる宗教儀礼について記されている。
*インド・ヨーロッパ語族
インドからヨーロッパにかけての多くの言語が、同じ祖先(インド・ヨーロッパ祖語)から派生したと言われ、それらは「インド・ヨーロッパ語族」と分類される。
*サンスクリット
「サンスクリット」は、「完全にしつらえられた」を意味する「サンスクリタ」からきている。文中では、英語sanskritに合わせ「サンスクリット」と表記する。
数千年の時空を超えて対話する
――「インド古典学」とは。
天野 核心は、サンスクリットなどで記された文献を厳密に読み解くことにあります。
ヴァ もう少し厳密に言えば、植民地化以前のインドにおいて、インド・ヨーロッパ語族の言語で書かれた文献を対象とする学問です。近代ヨーロッパで発展した比較文献学や歴史言語学の手法を用いて分析します。一方、インドには今でも息づいている伝統的な言語学、言語哲学があり、それと対話をしていく必要もあります。それには、今よりも洗練された理論もあるのです。
――サンスクリットとは。
天野 紀元前4世紀頃の文法学者であるパーニニが、それ以前のヴェーダ文献などに見られる古代インド語を体系化しました。これが一般に古典サンスクリットと呼ばれるものです。サンスクリットは、動詞・名詞ともに複雑な活用体系を持ち、音の区別も日本語より多いため、学習では文法と音韻論を扱います。
文献を読むときは、一言一句、読み飛ばすことができません。単語の文法機能を一つひとつ確定させていくことで、初めて正確に読み取ることができます。
ちなみに私が扱っているヴェーダ文献は、パーニニによる体系化以前に成立したものなので、一般的な辞書が通用しない場合も多く、いっそう難しいですね。
――サンスクリットをマスターするには。
パン 天野先生こそ「サンスクリットマスター」ですよね。
天野 いやいや(笑)。2年ほど学べば、古代インドの叙事詩『マハーバーラタ』のような、翻訳のあるテキストを読めるようになりますね。そこから初めて「研究」ができます。
パン 確かに最初は大変ですが、サンスクリットを学べば、ギリシア語やラテン語は習得しやすいです。私のようにギリシア語から入るパターンもありますが、どちらにせよ強い好奇心があれば乗り越えられます。
――言語学習と研究の違いは。
天野 研究とは、答えのないことに取り組む、という向き合い方をすることです。自分では理解したと思っても、それが本当に正しいか教えてくれる人はいません。また、翻訳付きの文献を読むこともありますが、翻訳はあくまで一つの解釈に過ぎません。常に自分自身で考え、解釈を試みる必要があります。
世界初の「発見」ができる喜び
――インド古典学は非常に国際的な分野。
パン インド古典学はヨーロッパ、とりわけドイツやフランスに発祥した学問です。したがって学史を理解するにも、最新の研究動向を追うにも、欧州の言語で学ぶことが不可欠になります。
また、同じ環境の中だけで議論していては得られない視点を得るためにも、海外の研究者との交流は重要です。日本は仏教研究が強いので私は日本に来ましたが、現在も欧米の研究者とは議論を行っています。
天野 インド古典学は研究者の数が少ない分、「世界」がとても近い分野なんです。同じことをやっている人は、世界中どこでも知り合い。言うならば「All Vedists, all friends」(すべてのヴェーダ研究者は友達)です。この前、イタリアの研究者に誘われて、イタリアで講義をしてきました。ダヴィデさんと出会ったのはその講義の時です。
ダヴ とはいえ、異国で研究することには難しさもあります。海外に出ることで、自分が当然と思っていた前提や概念が、実は相対的であると気付かされました。たとえばアリストテレスが唱えたような、ヨーロッパ哲学では自明な概念でも、日本の文脈では共有されていないことがあります。そのたびに、自分の立場を説明し、議論しながら主張していく必要があります。少し哲学的になってしまいましたね(笑)。
――研究の思い出を。
パン 世界で初めて、英語の「fat」のルーツに当たる言葉の音を特定しました。fatは、サンスクリットではpayas(乳)に対応し、その祖先は8千年前のインド・ヨーロッパ祖語にある「*peiH」という言葉だとわかっていました。しかし印欧祖語にはHの音が3種類あり、「*peiH」のHをどの音で発音するのかは分かっていませんでした。そこで、トカラ語のpikteという言葉と比較し、音の変化のルールからHの音を特定しました。
天野 大発見ですね。対して私は、修士課程から今までずっと『マイトラヤーニー・サンヒター』という1つの文献を読み続けてきました。当時、有名であるのにまだ現代語訳がなかったので、取り組み続けました。博士論文として全文の3分の1のドイツ語訳を出版し、今や世界中の研究者に参照いただいています。
――研究における苦労と楽しさは。
天野 どうしても理解できない一文に出会ったとき、登場する単語や構文の用例を徹底的に集め、考え続けます。ようやく理解に到達した瞬間はパズルが解けたような感覚で、非常に楽しいですね。読めば読むほど、色々気づくことが増えてきますし、すでに訳した部分でも、もっと深い意味があったと後から気づくことがあります。
ダヴ もっとも、論文がすぐに認められるとは限りません。それでも研究仲間や、尊敬している先生から励みをもらえると、研究を続けてよかったという気持ちになれますね。
「訳の分からないもの」を読む意義
――現代でインド古典学を学ぶ意義は。
パン 私は授業でAIの活用も勧めています。文章を入力すれば、すぐに答えが返ってくる時代です。しかし、サンスクリットを学んでいなければ、その答えが正しいかどうかを判断できません。大切なのは、技術に頼り切るのではなく、自分で疑い、考える力を養うことです。その訓練は物理学や数学でも可能ですが、インド文化や仏教、古典語に関心があるならば、インド古典学は格好の場になると思います。
天野 同感です。情報が溢れる時代だからこそ、一つひとつ丹念に読み、考える態度を身につけること自体が精神の涵養になると思います。そのためには、できるだけ「訳の分からないもの」を読むのがいいです(笑)。3千年前の人々の思考や生活に少しでも近づこうと考える営みそのものが、良い訓練になると思います。
まだ訳されていない世界へ
――どのような学生に来て欲しいか。
ヴァ 遥か昔の人々の方が、現代の私たちより賢いかもしれないと思える人に来てほしいですね。サンスクリットの学習は決して容易ではありませんが、その先には、まだ訳されていない知の世界や、美しい詩が広がっています。ある音楽理論家は「凡庸さから逃れるために、難しい交響曲を学ぶ」と言いましたが、インド古典文献を読むことにも通じるものがあると思います。
天野 誰でもウェルカムです。突飛なアイデアがなくても、文献に誠実に向き合えば、その分報われる分野です。研究者の数が少ないので、自分だけのテーマに出会いやすいのも魅力ですね。ゆっくり時間をかけて取り組める学問だと思います。
――興味を持った学生が挑戦できることは。
天野 まずは授業を聞きにきてください! 入門書を読むのもよいですが、直接先生の話を聞いたほうが、感じ取れるものが多いと思います。文学部ではサンスクリット文献学とインド哲学の入門講座がありますし、サンスクリット文法の授業もあります。
26年度、私は全学共通科目「人と人以外の存在者の関係を考えてみよう」にも登壇する予定ですので、ぜひ受講してみてください。
――ありがとうございました。(聞き手:唐・法)
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学生世界初の翻訳にも挑める濃密指導
インド古典学専修には、2026年2月時点で、学部生1人、修士課程2人、博士後期課程2人の学生が所属していたが、今年度の学部生は「0人」だという。学生たちはどのような生活を送っているか、4人の学生にインド古典学専修の知られざる魅力を聞いた。(法)
佐藤礼さん 学士課程4年
渡邊時丸さん 修士課程1年
宇野仁子さん 修士課程2年
山田修平さん 博士後期課程2年
渡邊時丸さん 修士課程1年
宇野仁子さん 修士課程2年
山田修平さん 博士後期課程2年
卒論で世界初の翻訳
――皆さんの研究内容は。
渡邊 『リグ・ヴェーダ』を用いて、前期ヴェーダ時代(紀元前1500年頃〜紀元前1000年頃)の社会構造・社会集団を研究しています。神話的、宗教的な内容に注目されることが多い文献ですが、当時の社会構造も読み取ることができます。
佐藤 『実利論(アルタ・シャーストラ)』の、中世に書かれた注釈文献を卒論で翻訳しました。日本語はもちろん、英語、ドイツ語でもまだ翻訳がなく、世界初の翻訳でした。学部生には難易度が高く、結局1ページの上半分しか翻訳できませんでした。
山田 『リグ・ヴェーダ』の次に古いとされる『アタルヴァ・ヴェーダ』を用いて、「ブラーティア」という異端とされた集団を研究しています。変わった祭式を行うことが特徴で、現代で言う「ヤンキー」に近いかもしれません。多くの文献では否定的な表現で描かれますが、彼らを初期に記述した『アタルヴァ・ヴェーダ』では、彼らをポジティブに捉えている文言が出てきます。
宇野 修論では、古代インドの結婚について扱いました。古代インドの道徳、社会規範を記したダルマ文献では、結婚は8種類あるとされています。現代の恋愛結婚のようなものから、さらって結婚するという現代では考えられないことまで結婚として認識されていたようです。
一文に数時間もサンスクリット学習
――サンスクリットの学び方は。
山田 最初に勉強するのは、文法の授業です。初級文法の授業があって、2時間コース(日本語)と4時間コース(英語)があります。第二外国語の授業と同じように進みます。例文を通じて文法を学び、例題の翻訳という宿題を先生にチェックしてもらいます。
――大変だったことは。
佐藤 1番大変なことは、曲用と活用という語形変化がとても多いことです。サンスクリットの特徴でもあります。
宇野 男性・女性・中性の3つの性、単数・双数・複数の3つの数、主格・対格・具格・与格・奪格・属格・処格・呼格の8つの格で変化します。
佐藤 先生には覚えるように言われましたが、僕は覚えずに乗り切りました。生成AIのおかげです……。
宇野 最初に教えてもらったロシア人の先生に「私も全て覚えるまで十年かかった」と言われました。同じく曲用が多いロシア語を話す人でも覚えるのにとても時間がかかるそうです。日本語で書かれた分かりやすい入門書が少ないことも大変です。日本語の辞典はコンパクトなものしかないので、本格的に勉強するなら、英語かドイツ語の辞書が必要です。
――ほかに大変な点は。
山田
文献は、デーヴァナーガリーという文字で書かれていることが多いです。文字の特性と、音韻融合というサンスクリットならではの現象によって、単語の区切りが見えないないので、自分で語を区切りながらローマ字に転写し、さらに日本語に訳します。
佐藤 慣れていないと、すごく時間がかかります。文法の授業が終わっても、辞書と文法書を使ってやっと読める程度です。
京大のカリキュラムでは、文法の授業を2回生で、講読の授業を3回生以上で取るのが一般的です。文法の2時間コースではデーヴァナーガリーを学びませんが、3回生の時のある講読のテキストは全部デーヴァナーガリーで書かれていました。「授業が始まるまでに覚えてきて」と先生に言われたので、死ぬ気で勉強して1週間で覚えました。先生が指定した箇所の予習も必死にやりました。たった一文のために何時間かかったことか……。
国際色豊かなインド古典学専修
――インド古典学専修進学のきっかけは。
宇野 山田さんは心理学をもともと学んでいましたよね。
山田 学部生時代は現代史学専修で、インドネシアの現代政治を研究しました。インドネシア国内の政治的な理由で研究を進めづらくなったので、京大の人間・環境学研究科でフロイトの精神分析を学んだ後、インド古典学の修士課程に入りました。丸暗記ではなく、仕組みを教える天野先生の授業で、サンスクリットの文法の法則性に興味を持ちました。読んでいく中で、内容そのものにも惹かれていきました。
佐藤 東洋大学でインド哲学を学んだ坂口安吾に憧れて、文法の授業を取ってみました。例文がすごく面白くて、もっと読みたくなりました。進路は特に考えず、その時の興味で専修を選択しました。何かを極めれば、道は開けると思っていました。
宇野 高校生の頃に『マハーバーラタ』をベースにした新作歌舞伎を見て、インドの古典文学に興味を持ちました。さらに、『実利論』などを日本語で読み、インドの古典文学を原文で読みたくなりました。サンスクリットは活用が多く大変だと気づいたのは大学受験後でしたが、それでも学びたかったです。
渡邊 CLAMPという漫画家集団の『聖伝-RG VEDA-』という『リグ・ヴェーダ』を題材にした漫画が好きで、元ネタを読みたいと高校生の時から思っていました。また歴史が好きで、南アジアの歴史に特に興味を持っていたこともあります。インダス文明が滅んでから、仏教誕生までの千年以上の期間はわからない事が多い空白の時代です。歴史書は残っていませんが、聖典である『リグ・ヴェーダ』から、当時の社会を読み解けると思いました。
山田 比喩表現から、当時の生活を推測することができます。教義を説明する時の比喩が、現実の生活を表していることがあります。
――インド古典学専修の特徴は。
佐藤 学生同士で教えるというより、先生に教えてもらうことが多いです。先生が個別に指導をしてくれるのは、学生の人数が少ないことのメリットだと思います。また、インド古典学専修は英語をよく使うので、就職するにしても院進するにしてもいい環境だと思います。ヴァースデーヴァ先生とパン先生は日本語が話せないので、英語で授業をします。学生も英語で発表します。
宇野 インド古典学専修の学生はやりたいことしかやらない学生だと企業にみなされ、就職に不利ではないかと考える人もいると思いますが、ドイツ語など目標のために、気が進まないこともやっていると企業にアピールできます(笑)。
佐藤 学部卒として就職する人は少ないので、就活の情報を得づらいというのはあるかもしれませんが、選考上で特段不利になることはない気がします。むしろ、英語をよく使うことや、好奇心旺盛であることなどをアピールできると思います。
――新入生へのメッセージを。
渡邊 CLAMPファンは是非。
宇野 学生が少ない分、世界で活躍している先生に丁寧に指導してもらえ、テーマも自由に選ぶことができるのが京大インド古典学専修の魅力です。
佐藤 未訳のサンスクリット文献は多く残っているので、世界初の研究ができます。最近、研究室として「印哲Lab」というユーチューブチャンネルを始めました。動画を通じて、サンスクリットやインド古典学を知ってもらいたいです。
――ありがとうございました。(聞き手:法・唐)


