小山哲 京都大学名誉教授「空とぶ大学の教え」
2026.04.01
ノーベル財団によると、昨年までの時点でノーベル賞を受賞した女性は67名で、個人としての受賞者全体に占める女性の割合は7%に満たない。女性の比率が相対的に高いのは平和賞と文学賞で(それぞれ16%、15%)、次いで生理学・医学賞の5.6%、それ以外の自然科学と経済学では5%を下回っている。比率が最も低いのは物理学賞で、224名中5名、1.8%である。学術の世界におけるジェンダー間の不平等をまざまざと示す数字である。ちなみに、日本からノーベル賞を受賞した女性はまだ1人もいない。
ノーベル賞の歴史のなかで、2度にわたって受賞した女性が1人だけいる。放射性物質の研究で知られるマリア・スクウォドフスカ・キュリーである。1903年に夫のピエール・キュリー、アンリ・ベクレルとともに物理学賞を受賞し、1911年には単独で化学賞を受賞した。「放射能」という用語は、1898年にピエールとマリアが発表した論文で初めて用いられた。彼女はどのような環境で学んだのであろうか。
マリアは1867年、ロシア帝国支配下のポーランドの都市ワルシャワで生まれた。彼女が生まれる4年前、ポーランドの解放を求める武装蜂起が起こったが敗北、ロシア政府はポーランド人の抵抗力を削ぐために教育のロシア化を推し進めた。蜂起鎮圧の7年後、ワルシャワに帝国大学が創設されたが、教育言語はロシア語で、ポーランド語の使用は禁止された。加えて学生は男性のみで、女性への門戸は閉ざされていた。
こうした状況下で、意欲をもって学ぼうとするポーランドの女性たちが始めたのが「空とぶ大学」である。非合法の地下活動として組織され、当時のポーランドを代表する学者や知識人が講師として協力した。「空とぶ大学」という名称は、警察の取り締まりを逃れるために教室を転々としたことによる。地下に潜った運動を「空とぶ大学」と名づけたセンスには脱帽するしかない。学びに明日への希望を託した女性たちの意志を感じさせるネーミングである。マリア・スクウォドフスカは、この地下大学で学んだ女性の一人であった。彼女はその後ソルボンヌ大学で学んで研究者となるが、夫ピエールと発見した新元素を「ポロニウム」と名づけたことに、祖国ポーランド(ラテン語ではポロニア)の解放への強い思いが表現されている。
体制に抵抗しながら自主的に学びの場を組織する経験は、その後の世代に受け継がれた。第二次世界大戦中、ドイツ占領下で地下に潜ったワルシャワ大学の学生と教員たちは、市内を転々としながら教育と研究を継続した。戦後の社会主義時代にも、「空とぶ大学」が名前とともに復活した。政治的な理由で大学を解雇された若い社会学者が始めた非合法の自主講座に多くの若者が集まり、体制の締め付けから自由な議論と探究の場となった。
東京大学工学部の助手だった宇井純は、1966年にワルシャワを訪れた際に現地で会った教授からドイツ占領下の地下大学の話を聴いて感銘を受け、こう書いている。
「建物と費用を国家から与えられ、国家有用の人材を教育すべく設立された国立大学が、国家を支える民衆を抑圧・差別する道具となってきた典型が東京大学であるとすれば、その対極には、抵抗の拠点としてひそかにたえず建設されたワルシャワ大学がある。そこでは学ぶことは命がけの行為であり、何等特権をもたらすものではなかった。」
さらに宇井は、「勉強をめざす学生が夜ひそかに教授の私宅を訪ねて大学の講義を受け、それがだんだんに教室の形をとっていった」ポーランドの経験を知って、「権力に条件を用意してもらって、権力のためになるような、立身出世のための学問とちょうど反対のものが存在していた、あるいはやり方によっては存在しうるということに気づいた」とも述べている。マリア・スクウォドフスカが学んだ「空とぶ大学」に始まる水脈は、宇井が1970年に東京大学で開講し、15年間続いた「自主講座・公害原論」にも流れ込んでいたのである。
*
昨年12月、京都大学は国際卓越研究大学の認定候補に選出された。正式に認定されれば、このさき数年のあいだに、教育・研究組織の大きな変更が予想される。具体的に何がどう変わるのか、現時点では大学組織の末端にいる学生や教員にはまだよくわからない。しかし、この4月に入学した学部生が卒業する頃には、その変化の向かう先はより明確になっているであろう。その方向性が多くの学生・教員にとって望ましいものとなることを願うが、京都大学や日本全体の状況がもし期待に反する方向に進んでいくことになっても、学びの場を放棄せず、したたかに、しなやかに、自分たちの力で自由な探究と議論の空間を創り出していく選択肢がありうるということを、「空とぶ大学」の歴史的経験は私たちに教えてくれる。
新入生のみなさん、今みなさんの立っているその場所が、空をとぶための滑走路の始まりだ!
こやま・さとし 京都大学名誉教授、佛教大学歴史学部特任教授。専門はポーランド史
ノーベル賞の歴史のなかで、2度にわたって受賞した女性が1人だけいる。放射性物質の研究で知られるマリア・スクウォドフスカ・キュリーである。1903年に夫のピエール・キュリー、アンリ・ベクレルとともに物理学賞を受賞し、1911年には単独で化学賞を受賞した。「放射能」という用語は、1898年にピエールとマリアが発表した論文で初めて用いられた。彼女はどのような環境で学んだのであろうか。
マリアは1867年、ロシア帝国支配下のポーランドの都市ワルシャワで生まれた。彼女が生まれる4年前、ポーランドの解放を求める武装蜂起が起こったが敗北、ロシア政府はポーランド人の抵抗力を削ぐために教育のロシア化を推し進めた。蜂起鎮圧の7年後、ワルシャワに帝国大学が創設されたが、教育言語はロシア語で、ポーランド語の使用は禁止された。加えて学生は男性のみで、女性への門戸は閉ざされていた。
こうした状況下で、意欲をもって学ぼうとするポーランドの女性たちが始めたのが「空とぶ大学」である。非合法の地下活動として組織され、当時のポーランドを代表する学者や知識人が講師として協力した。「空とぶ大学」という名称は、警察の取り締まりを逃れるために教室を転々としたことによる。地下に潜った運動を「空とぶ大学」と名づけたセンスには脱帽するしかない。学びに明日への希望を託した女性たちの意志を感じさせるネーミングである。マリア・スクウォドフスカは、この地下大学で学んだ女性の一人であった。彼女はその後ソルボンヌ大学で学んで研究者となるが、夫ピエールと発見した新元素を「ポロニウム」と名づけたことに、祖国ポーランド(ラテン語ではポロニア)の解放への強い思いが表現されている。
体制に抵抗しながら自主的に学びの場を組織する経験は、その後の世代に受け継がれた。第二次世界大戦中、ドイツ占領下で地下に潜ったワルシャワ大学の学生と教員たちは、市内を転々としながら教育と研究を継続した。戦後の社会主義時代にも、「空とぶ大学」が名前とともに復活した。政治的な理由で大学を解雇された若い社会学者が始めた非合法の自主講座に多くの若者が集まり、体制の締め付けから自由な議論と探究の場となった。
東京大学工学部の助手だった宇井純は、1966年にワルシャワを訪れた際に現地で会った教授からドイツ占領下の地下大学の話を聴いて感銘を受け、こう書いている。
「建物と費用を国家から与えられ、国家有用の人材を教育すべく設立された国立大学が、国家を支える民衆を抑圧・差別する道具となってきた典型が東京大学であるとすれば、その対極には、抵抗の拠点としてひそかにたえず建設されたワルシャワ大学がある。そこでは学ぶことは命がけの行為であり、何等特権をもたらすものではなかった。」
さらに宇井は、「勉強をめざす学生が夜ひそかに教授の私宅を訪ねて大学の講義を受け、それがだんだんに教室の形をとっていった」ポーランドの経験を知って、「権力に条件を用意してもらって、権力のためになるような、立身出世のための学問とちょうど反対のものが存在していた、あるいはやり方によっては存在しうるということに気づいた」とも述べている。マリア・スクウォドフスカが学んだ「空とぶ大学」に始まる水脈は、宇井が1970年に東京大学で開講し、15年間続いた「自主講座・公害原論」にも流れ込んでいたのである。
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昨年12月、京都大学は国際卓越研究大学の認定候補に選出された。正式に認定されれば、このさき数年のあいだに、教育・研究組織の大きな変更が予想される。具体的に何がどう変わるのか、現時点では大学組織の末端にいる学生や教員にはまだよくわからない。しかし、この4月に入学した学部生が卒業する頃には、その変化の向かう先はより明確になっているであろう。その方向性が多くの学生・教員にとって望ましいものとなることを願うが、京都大学や日本全体の状況がもし期待に反する方向に進んでいくことになっても、学びの場を放棄せず、したたかに、しなやかに、自分たちの力で自由な探究と議論の空間を創り出していく選択肢がありうるということを、「空とぶ大学」の歴史的経験は私たちに教えてくれる。
新入生のみなさん、今みなさんの立っているその場所が、空をとぶための滑走路の始まりだ!
こやま・さとし 京都大学名誉教授、佛教大学歴史学部特任教授。専門はポーランド史
