[京大あれこれ] 生活感あふれる奇妙な建物 給水センター(2017.07.01)

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本部構内の正門をくぐり附属図書館を越えてしばらく歩いて西側に入った方角に、ひっそりとたたずむ建物がある。洗濯物が干してあることもあり、構内では見慣れない光景である。

この建物の正体は給水センターだ。京大構内の建物に水を供給する役割を担っている。施設部によると、この給水センターは1979年に建築され、今年で築38年になる。当初は京大が直接管轄し、大学職員が給水センターで働いていたが、現在は委託を受けた業者が管理している。

さて、気になる洗濯物についてだが、給水センターに誰かが住みこみ、その住人の洗濯物が干されているわけではない。大学職員の人員削減によりいつの頃からか給水センター内に空き部屋ができていた。大学構内では庭師や校内清掃員が働いており、その控え室として空き部屋が提供され、清掃員の洗濯物が干されるようになったという。(轟)

[京大あれこれ]花谷会館とその歴史 原爆調査団の功績を伝える(2016.12.1)

今年9月、正門横にある古びた建物が、ひっそりとその役目を終えた。名前は「花谷会館」。かつては喫茶店が入り、1960年からは京都大学生協本部として使われてきたが、耐震基準を満たさず、生協本部の吉田南構内への移転に伴って空き家となった。この建物、建築物として特筆すべき点はないが、1945年に広島に投下された原子爆弾についての現地調査中、台風の犠牲となった花谷暉一氏の兄が大学に寄贈したという経緯がある。今回は花谷会館の奥にある歴史、原爆調査団及び枕崎台風について記述したい。(国)

優れた研究業績

戦時中、理学部物理学教室の荒勝文策研究室で大学院生として研究を行っていた花谷氏は、多くの研究者・学生が徴兵される中、研究業績の優れた特別研究生として研究室に残って研究を続けることができた。花谷氏の研究内容は、ウランの核分裂が連鎖反応的に起こる条件を探ることであった。ウランが中性子を吸収して核分裂を起こす時に新たに中性子が発生すれば、その中性子を吸収した原子核も分裂するので、連鎖的に分裂が起こる。それによって発生するエネルギーを取り出すことができれば、エネルギー源として利用出来ると考えられていたのである。花谷氏は、核分裂の際に発生する中性子の数を極めて高い精度で測定した。その正確さは現代的に見ても遜色ないものだと言われている。核分裂の連鎖反応を利用すれば原子爆弾を作ることも出来るため、その知識は原子爆弾の調査においても活かされることになる。

原爆投下とその調査

1945年8月6日、世界初となる原子爆弾が広島に投下された。一瞬にして甚大な被害をもたらしたこの爆撃だが、本当に原子爆弾であるかどうかは調査によって判断する必要があった。早速花谷氏は、荒勝教授ら共に10日夜に京都を出発して広島へ向かい、現地の土壌を採取した。直ちに京都へ戻って調べると、その中に強いβ線を出す物質が検出されたことから、これが原子爆弾であるとの確信を持つに至った。しかしながら、調査した試料数が公式発表するには不十分だとして、荒勝グループでは13日に再び広島で百数十カ所の土壌を採取した。この時花谷氏は広島へは同行していないが、持ち帰った土壌を詳細に調査したところ、この爆弾が原子爆弾であることが確定的となり15日、海軍などにその結果が伝達された。なお、この日に終戦を迎えた一因として理化学研究所の仁科芳雄博士らが早期にこの爆弾を原爆と判定し、大本営に報告したことがある。一方荒勝教授らは自らの調査研究でそれが原爆であることが確定的になるまでは公式な発表を行わなかったが、それは「科学者たるもの、何事も発表する前に自分の研究で事実であることを証明しなければならない」という信念があったためであった。

再び広島へ

京都大学では、医学部でも、原爆投下直後から教授らが広島で遺体解剖を行うなどの調査が進められていた。8月27日には軍から研究員の派遣要請があり、病理学・内科・解剖学の各教室のメンバーが9月2日から順次広島へ入った。そこで彼らが活動の拠点としたのが大野村(現廿日市市)の大野陸軍病院である。彼らはそこで収容患者の回診と検血、外来患者の診察、また病理解剖を行い、原爆症の解明に尽力した。

こうした調査の進展によって、京都大学でも、医学部の調査団を大学の公式な研究班と位置づけるなど支援の動きが強まっていった。荒勝教授らも長期間調査を行ってより定量的、かつ正確な残留放射能のデータを得たいと、9月15日、花谷氏を含む6名が医学部の第三次研究班とともに大野陸軍病院へと向かう。

そして台風が……

しかし、16日に広島へ着いた一行は、すぐに雨に見舞われる。非常に強い勢力を持った枕崎台風が近づいていたのである。雨風は日が変わるとさらに強くなったが、戦争の混乱で防災・通信体制が整っていなかった当時、それが大台風であると知ることは難しかった。また研究員らは仕事に追われており、尚のこと気象状況に注意を向けることはできなかったのである。

そして17日の22時20分過ぎ、陸軍病院を山津波が襲う。当時理学部の6名は食堂で談笑していた。このうち山側のテーブルにいた花谷氏ら3名は、急速に流れてくる岩や水に飲み込まれて亡くなった。また、医学部でも8名が犠牲となった。大野陸軍病院のあった場所が大野浦を見下ろす斜面上にあったこと、戦争中松脂を採取するため山を掘り起こして土石流の発生しやすい状態になっていたことなどが大きな被害につながった原因だと考えられている。

記憶遺産としての会館

山津波が起こった2日後の19日以降、プレスコードによって、日本による原子核研究の成果の発表、また研究そのものが禁止された。山津波では、花谷氏ら優秀と言われた研究員や重要な研究資料が失われたが、日本の原子核研究が長く停滞する直接的要因となったプレスコードの陰に隠れ、この犠牲はともすると忘れられがちになる。その点からも花谷会館は、調査団に理学部の研究室が深く関わっていたことを示す重要な建造物なのである。生協本部は既に移転したが、花谷会館の奥にある歴史までが移ったわけではない。会館の今後の利用方法は未定だが、何らかの形で会館を保存する、石碑を建てるなど、こうした歴史を何らか思い出させるものがこれからも残ることを期待したい。

【取材協力】
京都大学名誉教授・政池明氏
芝蘭会事務局長・山田均氏
京都大学生活協同組合

【参考文献】
柳田邦男『空白の天気図』(1981年、新潮文庫)
核戦争防止・核兵器廃絶を訴える京都医師の会編『医師たちのヒロシマ 復刻増補』(2014年、つむぎ出版)
『広島医学』第20巻(1967年)

[京大あれこれ]中庭に佇む奇妙なオブジェクト 土木工学教室本館(2015.10.16)

京都大学に今も残っている古い建物のひとつに、工学部土木工学教室本館がある。本部構内の北側に門を構える立派な赤レンガ造りの校舎だ。1917年に竣工し、もうすぐ100歳を迎える。

建物の裏手には中庭が広がっており、東側は木々の生い茂る庭園、西側は駐車場として利用されている。庭園と異なり駐車場の方は殺風景なものだ。しかし、その隅には何やら珍妙なオブジェクトが佇んでいる。階段のような形をした建造物だ。コンクリート製で、等間隔に段差があり、背丈は2㍍弱。ところが階段にしては角度が急すぎるうえ、最上段には背もたれと肘掛けらしき造りが見られ、椅子のようでもある。いったい何なのか。

手がかりを探すべく、『京大土木百周年記念誌』(1997年)を紐解いてみた。それによると1960年ごろ、駐車場のある場所はテニスコートだった。コートは1931年時の写真にも姿を残しており、説明文にはこうあった ――「いまもある審判の座るコンクリート製の台は、右の枠外にあるようでこの写真では見られない」。つまり、少なくとも1931年から記念誌が発行された1997年まで、コート付近には審判台が存在していた。駐車場脇の建造物と同一だと考えていいだろう。正体はテニスの審判台だったのだ。

テニスコートについては『京都大学工学部土木工学教室六十年史』に詳しい。ある教授の回顧録に、コートを作った経緯が細かに綴られていた。これによると1920年ごろ、まだ一面草地だった中庭にテニスコートを作ろうという学生が現れたらしい。教授や卒業生に助けられつつ完成にこぎ着けたコートは土木工学教室の専用となり、学生も教授も一緒になってテニスに興じたという。戦時中には出征学生の歓送式にも使われていたようだ。

ただ、このテニスコートは現在存在しない。施設部によると、10年以上前から砂利を敷いて簡易駐車場として使っていたらしく、テニスコートとは名ばかりの状態だったようだ。それがつい3年前の工事でアスファルト製の駐車場に作り替えられたという。審判台は辛うじて工事の範囲外にあり、そのまま残されたとのことだ。

土木工学教室と一緒に長い歴史を歩んできたコートも、今はもう無い。独り残された審判台は、知る人ぞ知る思い出のモニュメントなのかもしれない。(賀)

[京大あれこれ]献体となった方のために 住宅地にある慰霊塔(2015.09.16)

吉田山の南にある閑静な住宅街を歩いていると、突然大きな石の塔が現れる。敷地の中は、塔を除けばいくらかの木と雑草が生えているのみだ。見ると、塔には「安魂」の文字。どうやら慰霊のためのものであるようである。

この慰霊塔は、京大や京大の関連病院で解剖された方、つまり献体となった方を慰霊するために作られたものである。医学研究科によれば、献体となった方のために納骨塔や納骨堂を設置している大学は多いとのことだ。この慰霊塔もそうした類のものと言えるだろう。

この建立に携わったのが、塔の隣にある金戒(こんかい)光明寺だ。金戒光明寺によれば、寺は1934年に火災で全焼し、その再建の際、慰霊塔建立の話が持ち上がったという。しかし1944年に塔が完成するまでには火災から10年がかかっており、それまでの詳しい経緯は分かっていない。京大と金戒光明寺の間には、献体となった方の法事を寺で行ったり、寺が全焼した際の設計を大学が手掛けたりと長年深いつながりがある。慰霊塔の建立はそうした付き合いもあってのことで、手入れに関しても寺が行っている。

慰霊塔の前を通ると、車を止めて外から手を合わせる人やたまたま通りかかってもの珍しそうに塔を眺める人など、多くの人に出会う。解剖実習の授業では、学生に塔について伝えることもあるという。建立から70年以上が経った今、慰霊塔には多くの人が各々異なった思いを抱いていると言えそうだ。(国)

[京大あれこれ]吉田南に立つ小屋の正体は(2015.07.16)

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吉田南キャンパスの正門脇に木造の小屋がある。空色に塗装されているが、ペンキの剥げ落ちた部分も多く、かなり古い建築物であることがうかがえる。小さな窓にはいつも紫のカーテンが下りているため、中の様子を覗き見ることはできない。日常的に人が出入りする様子はなく、正門の案内板を見ても名称は明記されていない。一体どういう建物なのだろうか。

実はこの小屋、元来は吉田南正門の門衛所である。1897年に京都帝国大学が設置された際、正門とともに建設された。正門とともに登録文化財に指定されて以来、現在まで保存されてきたという。昨年には耐震改修工事も行われた。

現在は自転車などの入構整理を請け負う業者が控室として利用しているのだそう。歴史ある門衛所の内部を覗き見るために、業者の人が出入りするのを待ち伏せるのも一興かもしれない。(睡)
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