〈特別寄稿〉 苧阪直行 前文学研究科長 「ワーキングメモリと意識の脳内表現」(2010.04.01)

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わたしは定年退職するまでの23年間、大学院文学研究科で意識の科学的研究を行ってきました。最近は機能的磁気共鳴画像法(fMRI:functional Magnetic Resonance Imaging)や経頭蓋磁気刺激法(TMS:Transcranial Magnetic Stimulation)などを用いて医学部との共同研究をまじえながら視覚的意識や言語的意識の実験的研究をつづけてきました。文系の研究者からみると、文学研究科(文学部)でこのような研究をしていること自体、不思議がられ、一方では興味を持ってみられてきました。

本稿は、2010年3月6日に第7回日本ワーキングメモリ学会の特別講演「ワーキングメモリと未来社会」で話した内容と、3月21日の退職最終講義「ワーキングメモリと意識の脳内表現」の内容を中心に、わたしの意識の研究の遍歴もご紹介しながら書いてみました。

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今から30数年前、わたしは文学研究科の修士課程(実験心理学)に籍を置いていましたが、その頃心理学教室は哲学科に属していました。意識の科学は哲学の揺りかごから生れたという歴史がここにあらわれています。西田幾多郎の「意識の問題」(1920)や「善の研究」(1911)を読んだのもこの頃の哲学的雰囲気の中でした。これらの著書は、アメリカの実験心理学の父とも呼ばれるウィリアム・ジェームスの「意識の流れ」や、やはりドイツの科学的心理学の父といわれるウィルヘルム・ヴントの意識心理学における「直接経験」のアイデアの影響を受けながら「純粋経験」という独自の見方にまで深めたもので、哲学書というよりも心理学の書でした。西田は「意識の問題」で実験心理学について次のように述べています。「余が実験心理学に反対するものの様に思はれるならば、それは誤解である。実験心理学が厳密に其立場を守るかぎり、余は此学の価値と功績を認めるに躊躇するものではない、唯、此学が何処まで、精神の科学の基礎として、すべての深い問題を解決し得るかは疑いなきを得ない。加之、余は心理学は他の科学にもまして、哲学的反省を要するのではないかと思ふのである」。ここで述べられている哲学的反省というのは心理学が意識を作用の学という側面からみていないという意味であろう。この時期以降、心理学の目的が作用としての意識ではなく、観察可能な行動の予測と制御に向かったことを考え合わせるとこの指摘は卓見だと思われる。 心理学の主要なテーマである心や感覚の主観性や意識の志向性についても哲学科ではさまざまな講義がありちょっと顔をだすこともできました。わたしは、主観という心の状態を実験装置で客観的(科学的)に研究するのが心理学の役目であると思っていたのですが、当時の心理学は行動主義が盛んで意識や注意など外部から観察できない内的過程は研究に対象とならないという雰囲気でした。広い芝生の中で柵で囲まれた細い道を用心深く歩くのは許されるが、緑豊かな意識の世界、つまり芝生に踏み込むことはご法度という意識研究の暗黒時代でもありました。幸いにも、心理学教室では自学自習を前提に、研究のテーマについては自分の判断で自由に選ぶことができました。学術の密林に分け入って迷路に迷うのも、密林の奥で美しい花を発見するのも自己責任で自由にどうぞ、という雰囲気でした。

周辺視

当時、視覚的意識に興味を持っていたわたしは文学部東館3階の実験暗室で周辺視の実験を行っており、実験に参加してもらう観察者を待ちながら、噴水のある静かな中庭を見下ろしながらケヤキの緑にしばし目を休めていました。周辺視に関心をもったのはヘルムホルツの著作で視野の9割を占める周辺視野ではモノはハッキリとは「見えない」という記述に出会ったことにさかのぼります。この記述を読んでわたしは不思議な気持ちがしました。というのも、目を開けば眼前の対象はリアルな実在として―中庭のケヤキの緑がそうであるように―ほぼ全視野を埋め尽くしており、しかも安定した確実な視世界を現出しています。一方、見る人の意識の作用の上でも世界がハッキリ見えていることは疑いの余地がありません。しかし、ある一点を凝視して周辺視野に点在する対象を改めて観察しようとすると、とたんに安定した見えの世界は崩壊し、自分の視覚的意識に自信をもつことができなくなってきます。ケヤキの緑や梢の枝ぶりは中心視では、カラー写真のように色も形も鮮やかに意識されるのに、周辺視では色は灰色に、枝の形状も不明瞭になっており、明晰さを欠くという意味でいわば無意識の世界への傾斜を深めています。確かに、ヘルムホルツの科学的観察眼は鋭く、眼はカメラではないのです。生れてこの方、カラー写真のように視野いっぱいに新鮮な色彩や形が広がっていると思い込んできたわたしにとっては新鮮な驚きでした。皆さんも、眼前に指をたてて、指に視線を当てたままで周囲を間接的に観察してみてください。ヘルムホルツの言っていることが当たっていることがわかるでしょう。普通、研究者の多くは中心視の研究に進むのですが、わたしは周辺視という横道に迷い込んでしまったわけです。周辺視ではモノは見えないのに何故見えるのかという視覚的意識についての疑問でした。この問題が発展して、後年の記憶(ワーキングメモリ)と意識の脳内メカニズムの研究につながってゆくことになりました。

さて、博士課程を終えて10年間関西の私学に奉職した後、1987年に再び京大に助教授として戻ってきました。その頃、当時売り出されたばかりのパソコンを購入し、眼球運動測定装置をつくりました。眼球が動くとその分だけ画面上に切り出された中心視の窓が移動します。この装置を使って、今度は読書中の視線の運動が周辺視の情報の曖昧さをどのように補っているのかを調べてみたわけです。言い換えれば、ある文字を凝視したまま近くの文字を何文字くらい認識できるだろうか、という問題です。結果は、やはり4から5文字離れた文字はぼやけて読めないというものでした。そのため、わたし達は新聞を読むとき、視線を無意識に移動させているのです。「移動窓」はコンピュータの画面に生成される長方形の窓で、視線の移動をリアルタイムで計測し、視線が移動すればそれに随伴して画面の窓も移動する、といったちょっと工夫のいる装置でした。画面の窓(中心視野)以外の部分はマスクされ活字は見えないようになっています(その逆に中心視野だけがマスクされて活字が見えない条件もつくりました)。「移動窓」実験によれば、中心視の窓で一度に意識化できるのはせいぜい5―7文字であり、わたし達は視線を移動させることではじめて文の意味を理解することができるのです。いわば、わたしたちは、無意識のテキストの大海の中をほんの小さな意識の窓「移動窓」を動かすことで、スナップショット方式で、情報を取り込み、それを消えないうちに記憶に取り込んでいるのです。ここに、周辺視ではモノは見えないのに何故見えるのか、についての一つの答えらしきものがでてきたのです。さらに、これには、能動的で目標志向的な作用としての意識、つまりジェームスが言うところの短い記憶としてのワーキングメモリ(working memory)がかかわっているようです。ワーキングメモリという短い記憶は、意識と無意識をつなぐ、あるいは中心視と周辺視を切れ目なくむすぶ作用をもつといっていいでしょう。

意識のワーキングメモリ仮説

さて、作用の学としての意識を短い記憶を通して、科学的にとらえるにはどのような方法が適切なのであろうか、というのがわたしのその次の課題でした。作用として意識を考えるということは、目標志向的な意識、もっと具体的にはある意図や意思を達成するための行為を内的にプランする意識を考えることに他なりません。ワーキングメモリをこの種の意識ととらえるとかなりの部分がうまく説明できるような気がしてきたのが1995年頃でした。ワーキングメモリは一般的に言うと「理解」のためのアクティブな記憶システムです。もう少し詳しく定義するとワーキングメモリは「視覚や言語の理解、学習、推論などの目標志向的な認知課題の遂行過程で、必要な情報を活性化状態で保持しながら、同時にその情報に処理を加え時間的に統合する認知システム」ということになります。ワーキングメモリはきわめて容量の少ない「心あるいは意識のメモ帳」でもあることがわかっています。このメモ帳では情報の一時的な処理と保持が同時的に行えます。保持と処理を加えた場合、両者を足して一定の容量内に収まれば作用は滑らかに進みますが、一定量を超えると(オーバーフローすると)問題が起こります。なすべきことが複数あった場合、そのうちいくつかを行うことをし忘れるといった、いわば物忘れのような症状もその現れの一つで、個人差が大きいこともわかってきました。たとえば、コーヒーを入れようとやかんでお湯を沸かしている途中で玄関のチャイムがなります。そして、隣人と話し込んでいるうちにやかんが空だきになるようなことは、時々経験します。会話という処理に夢中になったため、やかんを活性化状態で保持することができなくなったということです。このようなワーキングメモリのオーバーフローが事故につながることもよくあるのです。処理と保持は自転車の両輪のような存在で、双方がうまくまわると、いわば理解が促進され、環境にうまく適応できるのです。

このように、ワーキングメモリは毎日の生活を支え、目標に向けて行為を滑らかにつなぐというはたらきをもっており、その脳内中枢は前頭葉にあると考えられています。メモ帳は高齢者ではその作用が衰えてくることも知られていますが、これは「意識メモ帳」に対応する「脳のメモ帳」が脳の前頭葉ではたらいており、こちらのメモ帳の機能の衰退がかかわっているといわれています。ここで、脳の話が出てきましたので脳と意識(ワーキングメモリ)について少しみてみたいと思います。

脳はおおよそ視覚的意識とかかわる後頭葉、言語的意識とかかわる側頭葉、注意とかかわる頭頂葉と運動とかかわる前頭葉からなっています。このうち、前頭葉の前方の領域は前頭前野(prefrontal cortex: PFC)と呼ばれ、脳全体のはたらきを統合しています。PFCは40億年の脳の進化の最先端にあり、現在も進化を遂げつつあります。その統合の主な機能は新しい環境に適応すること、問題を解くことや創造的な思考をめぐらせることなどであり、ワーキングメモリのはたらきとも密接にかかわっています。したがって、ワーキングメモリの脳内表現の探求は必然的にPFCが脳の他の領域をどのように調整しているかを心理実験を通してfMRIやTMSで観察することが中心になります。ワーキングメモリ課題を遂行中にPFCの活動を観察すると、PFCが内側面にある前部帯状皮質などと連携して他の関連脳領域を制御していることなどがわかってきました。

意識のワーキングメモリ仮説では、見るという意識は理解するという志向性を内在させており、関連する諸事象をひとつの風呂敷―理解という布―に整合性をもたせつつ包み込むことと考えられます。わたしは、その布は意識の縦糸と無意識の横糸で織られているのではないかと思うようになりました。周辺視でモノが見えないのに何故見えるのかという疑問も解くヒントがここにもあります。わたし達はカメラのように外界を見ているのではなくて、みたいもの、理解したいと思うものを意識の中につくりあげるのだとも言えるようです。

ワーキングメモリと情報化社会

ここで、ワーキングメモリという特別な意識が現代社会で果たしている役割について考えてみたいと思います。ワーキングメモリには新たな環境への適応の役割があると述べましたが、この環境には社会環境や対人関係も含まれると考えられます。対話や会話などコミュニケーションは他者の心を理解するために必須の行為ですが、これを取りもつのもやはりワーキングメモリです。一方、今日の「高度?」情報化社会では情報化が進展するほど不必要な情報に振り回され、逆にゆとりのある対人関係は希薄となり人々は孤立化を深めているようです。携帯電話などの外部メモリをメモ帳としてボタン押し一つで、簡単に利用できる環境になってきて、脳のメモ帳であるワーキングメモリも使われなくなってきたようです。使われないものは衰退するのが世の習いです。脳のメモ帳は容量も少なく、使いこなすのに毎日の努力と鍛錬が必要です。この鍛錬がなされなくなるとワーキングメモリのはたらきが低下することになります。実際に、ここ十年ほど大学生のワーキングメモリの容量の個人差を観察してきた結果、ワーキングメモリのスコア低下していることがわかってきました。やはり、情報機器がもつ、使い勝手のよい外部メモリの増加が脳のメモ帳の機能低下をもたらしている遠因の一つのようです。ワーキングメモリが創造性や思考ともかかわることを考えると、教育上もシリアスな問題になりつつあるといえるでしょう。近未来の情報化社会が、健全な社会性を生みだすワーキングメモリの退化を促すことがなく、そしてワーキングメモリという創造的な意識を育む教育に配慮された社会であってほしいものです。「ワーキングメモリ・デザイン」で設計された教育システムを考える必要があるでしょう。

人文社会脳

最後に、近未来のワーキングメモリの脳科学について予測してみたいと思います。先端脳科学の進展は目覚しく科学者は動物とヒトの生物脳(Biological Brain)の研究を進めてきましたが、最近の研究は生物脳から社会脳(Social Brain)にその研究方向をシフトし、研究を加速しつつあります。社会脳は社会的存在としての脳のはたらきを探求する分野で、ヒトの意識やワーキングメモリの統一的理解に欠かせないのです。社会脳の解明を通して「人間とは何か」を探ることができます。「なんじ自身を知れ」と言った古代ギリシャの哲人ソクラテスや「われ思うゆえにわれあり」といった近代科学の祖デカルトの言明が21世紀の新たな融合型脳科学で解かれようとしています。

社会脳は,人文社会科学からの脳研究へのはじめてのアプローチであり、この新分野は人文社会科学と自然科学が協調しあって推進していく“社会性脳科学(Social Brain Science)”とも呼べる広大な領域に成長しつつあります。社会脳は前頭葉における思考や推論などの知性、辺縁系脳における感情や意思のはたらきと相互作用しながら心のはたらきの基盤を形成しています。報酬を期待する脳、駆け引きする脳、うそをつく脳、他者の心と共感する脳、美しさを感じる脳、自己を知る脳、これらはいずれも社会脳の興味ある研究分野であり、ワーキングメモリも密接にかかわっています。脳の内側前頭葉を中核に、頭頂や側頭皮質と連携して形成される社会脳がワーキングメモリと共通の形成基盤をもつことから、ワーキングメモリが他者の心の状態を推定する心の理論とどのようなかかわりをもつかにも注目が集まるようになってきました。社会脳がもつユニークな特徴を通して現代社会がかかえる問題を考えてゆく神経倫理学、神経哲学、神経美学、神経文学、神経言語学、社会神経科学、神経経済学や神経政治学などの新分野が、新たな文理融合の境界領域で花を開かせつつあります。先端脳科学に文学部の学科名がつくという驚くべき文理融合型脳科学時代の到来、つまり人文社会脳のルネサンス時代が幕開けが近づいているのです。先端脳科学が「人間この未知なるもの」の壁を越えるには人文社会科学の熟成した知を取り込まねばならぬ時代にわたしたちは今、立っているのです。わたしはこれを「理系の畑を文系の鍬(くわ)で耕す」と表現しています。生物科学の最終目標の一つである人の心の理解を目指して社会脳の探求はこれからも加速してゆくはずです。この近未来の境界領域で新たな学術ルネサンスが開花する様子を見守るのが楽しみです。


おさか・なおゆき
実験心理学・認知脳科学専攻。2010年3月末まで文学研究科長・文学部長。日本学術会議「脳と意識」分科会委員長。

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