実踏!琵琶湖疏水を行く 足でたどる治水の歴史(2010.03.16)

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「治水」と聞くと、どこか縁遠いものと感じていないだろうか。昨年末、前原誠司国交相はダム本体に着工していない全国89ダムを事実上凍結(朝日電子版/09年12月26日)。その中に滋賀県の南部に位置する大江戸川ダムが含まれていた。琵琶湖を水源とする淀川水系の治水事業のひとつ、大戸川ダム建設をめぐり京都、大阪、滋賀の3知事は08年建設反対を表明し凍結状態とする一方で、地元大津市や下流域の宇治市、久御山町に不満が広がった経緯がある。今回、京都市立芸大の映像作品制作に同行し、特別の許可のもと、琵琶湖疏水内部を歩く機会を得た。京大に近い琵琶湖疏水を通して、治水の歴史を再考したい。(鴨)

※本紙に写真掲載


◆ いざ、出発。 ◆

滋賀県大津市の三井寺近く。琵琶湖第1疏水は琵琶湖南部の大津港から始まり、滋賀と京都の県境である長等山(ながらさん)をくり抜いたトンネルを通って、山科につく。地上に姿を現した疏水は小トンネルをいくつかくぐったのち、蹴上浄水場、蹴上発電所を過ぎる。岡崎動物園や平安神宮を横目に見ながら、最後は鴨川と合流する。今回歩くのは、長等山をくり抜いた第一トンネル。その長さは2・4キロメートルある。第一トンネル東口は、大津から水をいの一番に飲み込む。洞門のかたちにどことなくモダンな印象を受けるのは、疏水が明治期に造られたからだ。明治18年(1885)に疏水工事は着手され、第一トンネル完成まで4年半を要した。東口の洞門に掲げられた扁額=写真A=に、伊藤博文がつけた「氣象萬千」(気象の変化は千変万化である)の字が読めることからも、その時代性がうかがえる。

中へ足を踏み入れる。意外にも風通しはよく、奥の方に一点だけかすかな光を放っているのが出口らしい。じゃぶじゃぶと音を立てながら進んでいくと左手に100メートルごとに標識が現れた。トンネルはどこまでも続き、気がつけばライトがなければ途端に闇に呑み込まれてしまうほど進んでいた。トンネルの床や側壁に小さな穴が穿たれ、ところどころ勢い良く水が湧き出している。水道局員によれば、この穴によって地下水の水圧を逃すのだという。中央を過ぎた頃、壁に石版「ホウ祚無窮」(皇位は永久に続く)=写真B=が姿を現した。これは当時京都府知事だった北垣国道がつけたものであり、彼は疏水建設のために中央政府や上・下京連合区会(京都市議会の前身)を奔走した、立役者の一人である。続いて歩いていくと、壊れかかったはしごのついた横穴を発見した。この穴はどこへ通じるのだろうか。第1疏水完成後、京都の電力需要はその供給量を上回り、また上下水道建設の機運、琵琶湖から唯一流れる淀川水体系改修に伴う琵琶湖水位の低下などの理由から望まれた第2疏水は、京都が第1疏水完成の次のスッテプへ進む三大事業「第二疏水建設」「上水道」「道路拡築と電気軌道敷設」のひとつに位置づけられた。この壊れかかった横穴は、第1疏水の横、約2メートル低く流れる第2疏水へと通じる連絡路の入口だ。

真っ暗なトンネルの中で、不思議な空間があった。天井から一筋の光線が差し込み、スポットライトの様にそこだけを照らし出す神秘的な雰囲気。トンネルの上を仰ぎ見ると楕円形の竪坑(シャフト)の口=写真C【右】=が、そのレンガ巻きの内部の向こうに青空が小さく顔を覗かせている。入口と出口からの掘削に加え、竪坑を掘ってそこから東西方向に掘削し、4つの掘削面にすることで第一疏水は工期を縮めた。トンネル内に新鮮な空気を送り込み、完成後も日光を取り入れる一石三鳥でもあった。全長約50メートルの竪穴は、地上にでるとその一部=写真C【右】=が山中に置いてけぼりにでもあったように佇んでいる。1時間に4500リットルの湧水をくみだしながら、竪坑掘削は1日平均21センチしか進まず困難を極めた。出口近くに第2竪坑がある。西口から300メートルほど進んだあたりで急に空気の通流が悪くなったため、送風機設置よりも安上がりな第2竪坑開削が決まった。

ついにトンネルを抜けて西口、JR山科駅ちかくへ出る。洞門の扁額に明治新政府の山縣有朋・筆「廓其有容」(雄大な自然の広がりは、大きな人間の器量をあらわしている)=写真D=が掲げられている。第一トンネルだけでも完成まで日数4年7カ月、費用43万2956円の大工事だった。

さて、明治の大人物の姿がちらつく国家の一大プロジェクト、琵琶湖疏水はなぜ推進され、そしてどういった役割を果たしたか。その歴史を各種文献から探ってみる。


◆ 疏水に託す京都復興 ◆

『琵琶湖疏水の百年』(京都市水道局)をもとにその歴史をひもといてみよう。

疏水工事の指導者として北垣国道京都府知事がいる。いわゆる「東京遷都」後、京都は人口の3分の1が流出し著しく衰退。彼はその京都復興手段に琵琶湖疏水を選んだ。もともと琵琶湖疏水は明治時代に突然現れたのではなく、江戸時代初期よりさまざまな開削計画が浮上していた。東や北から京都へ物資搬入するには人馬で山を越えねばならず、そのコストは物価高となって京都にはね返る。琵琶湖から京都へ水を引く利はまず運送にあり、そして近代化の時代には工業のための水車動力となった。北垣知事が示した趣意書には疏水の効用を順に水車動力、運輸、灌漑用水、精米水車、防火用水、飲料水、公衆衛生を挙げている。単一ではなく多目的な治水事業だった。連合区会(市議会の前進)をまとめ上げ、中央政府に起工を申請した北垣知事は、薩長のいがみあいが絡んで計画の修正を迫られる。トンネル内部は全てレンガ巻きせよとの達しで工事費用は現在の1兆円規模に達したものの、北垣知事の疏水に対する情熱は市民への課税による予算捻出によって着工にこぎつかせた。


◆ 上下流問題 滋賀、大阪からの反発 ◆

疏水計画が明らかになると滋賀県は京都府へ問い合わせ、疏水によって湖水が300個(注)減ること、疏水で遮断される道路の修理や閘門設置を京都府が受け持つことを確認。滋賀県令(知事)籠手田安定は、この疏水計画が県に不利益を与えるとして反対した。籠手田県令が招集した滋賀県勧業諮問会は、減水により沿湖各地で枯渇する、水産物に有害、滋賀にとって疏水の利は運輸以外に害ばかり、疏水閘門の開閉権は滋賀県にあるべきだ、といった意見が出た。諮問会の44人中40人が疏水は有害として反対が圧倒。籠手田県令は農商務省に諮問会の意見をまとめて上申し、京都・滋賀の対立が深刻化した。もともと滋賀としては京都より市場の大きな大阪経済との直結を望んでおり、滋賀県は京都市を通らず六地蔵と宇治川を結ぶ水路建設を計画していたが、明治初年京都府に拒否されている。『疏水を拓いた人々』(京都教育史サークル)は、そこには滋賀県産米を京都の市場に通過させて支配権を握りたい京都側の思惑があったことを指摘しており、これが疏水建設の対立の遠因とも言われる。

大阪では淀川がたびたび氾濫を起こしている。明治18年(1885)の淀川大洪水では枚方の堤防が決壊、大阪の街が水につかった。そんななか、北垣京都府知事が「疏水計画は滋賀、大阪に既に照会して支障ない回答を得ている」と答弁したとの報道があった。しかし実際そうした事実はなかったため、寝耳に水のこの発言はただでさえ増水を懸念する大阪に疑念を抱かせた。

色々の折衝ののち、大阪・滋賀と水害予防工事費を京都府が負担することで合意し、琵琶湖疏水建設への道が拓けた。治水に関する事業は、このように当該地域だけではなく上流域と下流域との複雑な利害関係や思惑が交差している。

(注)「個」は水の流量の単位。1個は1秒に1立方尺(0・0278立方メートル/秒)にあたる。


◆ 誰が為に水は流れる ◆

近隣府県の利害調整に奔走する一方で、府内でも水が京都市内のどこを流れるかでもめていた。疏水幹線の行きつく先を鴨川に連絡するか、あるいは鴨川を横断して高瀬川へ接続するかの2案がだされると、工費の高い高瀬川案は市民から反対運動に遭う。一方で疏水を鴨川へ落とし、一部を鴨川の東に造った新しい運河へ流す現行の鴨川運河計画が浮上。ところが高瀬川で営む運送業者や船曳にとってこれは死活問題であり、業者131人が疏水を高瀬川につなぐよう訴えた。彼らの憂慮は、その後の高瀬川の舟運衰退で現実のものとなる。「高瀬川は埋め立てる」といった風説が広まるにつれ、沿岸住人たちは集会を開いてその是非を話し合ったが警察の介入によりたびたび解散が命じられた。京都市会はわずか1票差で鴨川運河着工を可決したものの、翌年は延期・中止となる。『「伝統の都」の近代』(同志社大学人文科学)は、北西会という組織が堀川を改修して疏水を通すことを要求したとの叙述がある。北垣京都府知事の開発計画は鴨川より東の地域に偏重しており、これに対する批判が強かったという。また『東京日日新聞』社説で、疏水に対し京都市民は「異義の声多くして賛美の声ハ甚だ少し」とあったのを紹介。京都市民自身、全員が全員とも賛成していたわけではなく、効果を疑問視する見方が広がっていたことを指摘している。

一方で疏水に絶大な期待を寄せる人々もいた。桂川や宇治川、鴨川、堀川、高野川、白川の水量は乏しく、京都市郊外の田畑は毎年のように渇水に悩まされていた。疏水分線路の灌漑用水により、京大におなじみの一乗寺をはじめ左京区・北区一帯の350ヘクタール、宇治郡400ヘクタール、およびそれ以外の地域は干ばつ被害から解放された。


◆ 変容する水の役割 ◆

疏水建設時、その目的は順に水車動力、運輸、灌漑用水、精米水車、防火用水、飲料水、公衆衛生を挙げたが、その後この通りに進んだのだろうか。

筆頭の水車動力の工業生産への利用という目的は、アメリカで世界初の水力発電が成功したことを受け計画段階で大きく変更された。南禅寺や東山山麓一帯は工業地帯と化す予定で実際に水車も建ったようだが、実際には零細な織物工場と一部の精米業者の利用のみで、当初の、水車動力を工業生産に利用するという目的に関して実績をほとんど残さなかった。

また2番目の目的であった運輸に関して、完成時より近江―京都―伏見―大阪を結ぶ舟運はおおいに賑わったが、大正時代より鉄道の発達とともに衰退し、昭和22年(1948)にインクラインは休止する。

以上2つの目的に代わって、水力発電が疏水の主要な役割として躍り出る。急速な電灯の普及と京都に日本初の市電を走らせるに至り、明治末の水利事業の使用収入は90%が電気収入だった。しかしながら今、蹴上発電所は電力用水が制限され、蹴上や三条京阪といったごく一部に電力を供給するに過ぎない。

上下水道の普及後、現在の疏水は飲料水の提供を第一義的な役割として演じている。こうして疏水事業は当初の目的であった水車動力からはずれて舟運、電力、飲料水へと役割を変えてきた。飲料水は当初三番目以降の目的だったにもかかわらず、疏水と言えば飲料水とまでなった。


◆ 利害関係者として ◆

以上で見てきたように治水事業の難しさは、共時的にみれば費用や上下流域、当該流域内での利害調整、通時的にみれば水資源の役割が時代によって変化することが挙げられる。疏水建設の時代と異なるのは、生態系への影響といった新しい観点が今存在することだ。都市圏で河川水路の暗渠化、つまり地中への埋設が進み治水への関心が薄れつつある。しかし京大農学部グラウンドの横を流れる水も、大戸川ダムで焦点となっている水も同じ淀川水系の水である。水利問題で何百年も係争してきた歴史、そしてこれからも、府や県を越えた利害関係者の一員であることは、京都に住む以上忘れてはならない。




参考文献
 京都市水道局『琵琶湖疏水の百年』1990年
 同志社大学人文科学研究所『「伝統の都」の近代』2001年
 天野光三『疏水誕生』1990年
 京都教育史サークル『疏水を拓いた人々』1995年

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