複眼時評

川島昭夫 人間・環境学研究科教授 「1665年のパンデミック」

2010.01.16

新型インフルエンザの流行がつづいている。学級閉鎖や休校にいたるケースも多いらしい。身辺でも学生が感染したり、その家族が発症したりした話もきく。しかし、5月、海外での「豚」インフルエンザの出現が最初に報道されたり、空港での厳重な検疫にもかかわらず、国内で患者が発生したときの社会全体の反応を思えば、現実に流行がひろがっているいま、意外なほど多くの人が冷静に対応しているように思う。

神戸、大阪の高校生の間に、最初の患者が発生したときの衝撃は大きかった。それが報道された翌日、近鉄奈良線に乗車したとき、目に飛び込んだ光景は忘れられない。座席に女子中学生らしい集団が、全員マスクをし、目をつぶり体を寄せあって同じ方向に倒れるようにしていたのである。一瞬、異常な事態が発生したかと錯覚した。考えてみると、彼女らは修学旅行生で、強行軍に疲れて仲良く休んでいたに過ぎないし、マスクは学校の指導で全員が着用していたというだけだろう。

私自身が過敏になっていたともいえる。しかし、降車したホームで待機していた修学旅行生も全員がマスクをしていたし、この日私は、これまで見てきた数以上のマスクを目にしたかもしれない。確かに、ただならない雰囲気だったのである。

この時の経験が、よい教訓になったかも知れない。その後夏を迎えていったん終息し、気温が下がり始めてから流行が始まった。いまでは患者はすぐ近辺にいる可能性がある。慢性疾患をもつ患者や幼児のいる家族には深刻な状況である。しかし、多くは特効薬で治癒するし、もはや得体の知れない恐怖におびえる必要はない。全員マスクの行進も目にすることがなくなった。

マスクをしないのがよいというわけではない。マスクが感染予防のための万全の措置ではないことはよくいわれている。しかし、90年前のスペイン風邪の世界的流行時に生死を分けたのはマスクであったともいう。日本にマスクの習慣が定着したのはこの時である。そういえばこの時流行した口の前につきだすタイプの黒いマスクを、古い探偵小説の挿絵によく見た記憶がある。感染予防のためというより、自身の正体を隠すための禍々しい道具としてである。

最初の国内患者となった高校生たちが、感染したと思われるカナダで、すでに流行が始まっていたにもかかわらずマスクをせずに行動したことが非難された。これは引率者に同情しないわけにいかない。欧米では公共の場でマスクをすることによって、その意図が疑われることがあるからである。ロンドンで、あまりに埃っぽさに辟易した友人がマスクをして歩いて尋問されたという話を聞いたこともある。

少なくとも集団のマスクは異様である。個別には安全をはかるための慎重な対応が、社会的には心理的な危機をひきおこし、1種の恐慌状態をもたらしかねない。どうやら、この冷静さと恐慌とが行動においてわかちがたく融合するのがパンデミックのさいの特徴のようでもある。

さきごろ偶然読んだ大阪のある女学生の日記が、たまたま大正7年のものであった。スペイン風邪流行の年である。この時も学校が閉鎖され、閉鎖が解けて再開されたときには友人たちの幾人かが死亡していた。少女の日記には、仲のよい友人の死を悼むことばが真情から書きつらねられているが、その死が自らを襲うことになる不安についてはまったく触れられていない。異常事態の中でも、自分だけは別であるという楽観か、反対に運命に抗してもしかたがないという諦観か、そのどちらかがはたらいているのだろう。大正7年は米騒動の年で、大阪でも襲撃される米屋があった。この時の人心の動揺にも少女は沈着なことばを日記に記している。

英国の作家・ジャーナリストのダニエル・デフォーの作品に『疫病流行記』がある。原題は ‘A Journal of the Plague Year’で、「疫病の年の日記」であるが、正確に日記の形式で記述されているわけではない。出版されたのは1722年、この年フランスのマルセイユでペストが発生し、流行が英国にも及ぶ可能性があった。そのような社会的関心をみこしての俊敏な執筆であった。「疫病の年」というのは1665年のこと。この年、ロンドンを中心に英国でペストが大流行した。「疫病」というのは腺ペストのことである。

ペストは、発症した場合死亡する率が高く、病気の進行もきわめて早い。しかも死者の身体に異状がおき、黒く変色するので「黒死病」と恐れられた感染症である。この時、ロンドンの人口のおよそ一割が死亡した。一割にとどまったのは、その余裕のある市民の多くが市を脱出したからであるが、いっぽう脱出した人たちの中にもすでに感染した人たちがいて、病気が全国に蔓延する原因ともなった。公的な職務にある人たちは全員がロンドンにとどまって、対策にあたることが義務づけられた。脱出するすべをもたない人もいたし、あえて市内にとどまって事態を目撃しようとする人もいた。

作者のデフォーは、このパンデミックの年には5つ、6つの幼児である。強い印象はあっただろうが、流行時に何が起きたかは叔父に取材した。その叔父ヘンリー・フォーは、十分な資力もあり周辺の人の勧めがあったにもかかわらず、あえて市内にとどまった1人である。その叔父の証言と、公式の刊行物の詳細なデータに基づいて、デフォーはこの小説を創作した。創作ではあるが、歴史資料としても大きな価値があるとされている。

叔父があえて市内にとどまったのはなぜか。小説の前半で、主人公はつねにその理由を自問している。本人自身も正確には答えられないが、それは神に対する信頼によるものであった。神が私を生かすものであれば、どこにいても生かすであろうという信念である。この信頼にもとづく冷静な観察のおかげで、私たちは、集団の恐慌とそれにもかかわらず実施される冷静な措置の実際を、いま知ることができる。

中世以来、ヨーロッパの都市はたびたびペストの流行を経験していたから、当局がとるべき措置については、ほぼ定式化していた。それはひとことでいえば、感染のひろがりを阻止するための「隔離」である。もちろんペストの原因となるバチルスについては知られていなかった。しかし病気の人間に接近し、接触した人が発病しやすいことは経験から明らかであった。病気は患者や死者から健康な人へと感染する。だから、感染の経路を遮断すること、すなわち「隔離」が唯一の有効な手段だったのである。

「隔離」は患者を健康な人に近づけないために、行動を厳しく拘束することである。特定の施設に収容する。そこから出ることはできないからそれは監禁することである。はじめ「施設」が監禁のために利用された。しかし患者数が増加すれば収容しきれなくなる。それ以降は、病人が発生した家屋を封鎖し、その内部に閉じこめる。看守をつけ、日夜、人の出入がないか監視する。封鎖家屋に戸口に赤い十字のめじるしをつけ、誰1人として出入は許可されない。食糧は、看守が窓から金を受けとって買物を代行する。この措置を全市において実施した。

問題は、家族の中にいまだ罹患していない健康な人がいても、病人とともに監禁されることである。感染はしているが発病はしていない可能性があるからだ。病気は感染することがわかっているから、かりに現在健康であってもそのうちに感染する確率はいちじるしく高い。要するに、「あなたはこの中にいて死になさい」と命じるようなものである。事実、家族の中の最初の病人が死亡し、死体が搬出されても家屋の封鎖はつづき、やがて残された家族も発病し、家族全員が死去して封鎖が解かれるというのがつねであった。

これは大変残酷な措置である。罪もなく死ぬ理由もない人に、「あなたは死になさい」というに等しい対策を行うのは、誰にもできることではない。このような封鎖命令を発した市当局にしても、もしペストの流行という事態がなければ、考えることもできない怖ろしい措置であったに違いない。しかし、経験は、この非人道的な手段が、感染の拡大を阻止し、結果的に多くの人の生命を救う可能性がある唯一の方法であることを教えていたはずである。冷酷だが、冷静でもあるこのむごたらしい方法は、恐慌という事態の中でのみ実行可能だったのであろう。

デフォーの『疫病流行記』という作品が、文学的にも、また現実的にも問いかけているのは、「あなたなならどうするか」ということであろう。多くの人を救う可能性があるときに、死ぬ理由もない人に、死ぬことを命じられるかということである。私にはどうしていいかわからない。

現在、私たちの社会が、インフルエンザの流行にも比較的冷静でいることができるのは、「豚」インフルエンザでなく、「鳥」インフルエンザの発生が予測されたときに、懸念されたほど重症化しないことがわかったからである。「豚」インフルエンザ発生のときに、社会が敏感に反応したのは、逆にこの懸念がまだ生きていたからでもある。この後の展開は、予想できない。さらに新型のウィルスが誕生しないとは断言できない。もっと多くの死が現実になったとき、1665年のロンドンの場合のようにむきだしの形ではないにしても、上記の質問に対して回答をせまられることになるだろう。5月の小さなパニックのさいにも、すでに「排除」か「防御」かという問題はさまざまなかたちで発生していたように思うし、私は難問にとまどっていた。

(かわしま・あきお、大学院人間・環境学研究科教授)