文化

〈生協ベストセラー〉 松野弘著『環境思想とは何か―環境主義からエコロジズムへ』(ちくま新書)

2009.12.20

新聞やテレビに躍り出る25%という数字、民主党が掲げた二酸化炭素排出量の削減目標を知らぬ者はいまい。「持続可能な社会」「ガイア理論」といった言葉を昨今よく耳にする。クロマグロの漁獲量が一部制限されるらしい。環境税は果たして導入されるのか。こうしてみると環境に関する話題は否応なしに我々の耳に入ってきている。しかしそれらを生み出してきた環境思想とはいかなるものなのか。世界各国、特に欧米ではどういう議論がなされてきたのか。いま一度立ち止まってその流れを考えてみても悪くはない。

本書は環境問題に対処せんとする思想、環境思想の諸潮流がどのように発生展開されてきたかを順を追って検証し、全体像を俯瞰するものである。環境問題の根本的な原因は何か。筆者の結論によれば、それは近代産業主義社会、大量生産―大量消費、人間中心主義的な自然資源搾取にあるという。小手先だけの技術的対応ではなく、社会変革を伴ったラディカルな動きが求められているのだといい、「緑の国家」構想にその希望を見出している。

我々の社会は経済発展維持と自然環境保護、つまり人間中心主義と自然中心主義のどちらに重心を置くべきなのか―環境思想を織りなす二大要素である。それらが対立した象徴的な事件として「ヘッチヘッチ論争」が挙げられている。これは20世紀初頭、アメリカで起こったヘッチヘッチ渓谷ダム開発に関する、環境保全主義者と保存主義者の論争である。前者は自然を人間のための資源とみなし、有効利用を推し進める。一方で後者は、自然それ自体を価値あるものと捉える。結局は保全主義側が訴訟で勝利するのだが、環境思想の展開はここで終わらない。人間中心主義的な保全主義の不徹底な姿勢を厳しく批判することで、環境思想は枝葉を広げていくのだ。

まず、紹介される環境思想の5潮流が興味深い。人間社会と自然界を融合させ、自己を非人間世界を含めた世界の一部として捉えるよう促す「ディープ・エコロジー」。動植物や山河といった人間外のものに権利を与え、自然との新しい道徳的関係を築く「自然の権利」思想。公害の被害が社会的弱者や地方に集中することに注目し、これを正そうとする「環境的正義」思想。急激な社会変革を用いず、再生可能な範囲で資源を利用し、経済のエコロジー化を促す「持続可能な発展」や「エコロジー的近代化」。最後に、ラディカルな社会変革を目指し、環境問題の原因を「人間―環境」=「支配―服従」の関係に見出す「エコ・ソーシャリズム(エコマルクス主義)」や「エコフェミニズム」。どれもユニークな思想で、この章だけ読んでも面白い。環境思想について学ぼうとする人の入門書としても、本書は相応しいだろう。

読み進むごとに環境思想が多方面で華々しく咲き乱れるのがわかる。環境政治学、環境経済学、環境法学、環境政策学や環境文化学などなど。概してどれも急進的なものであるが、筆者はこれらを新しい社会システムを築く方策と捉えている。かいつまんで見てみると、その一つである環境法思想では、非人間に権利を与える「自然の権利」の考えに基づいた訴訟運動がある。なんとアメリカで鳥や河川を共同原告に訴訟を起こし、勝訴しているのだ―ちなみに日本でも同様の訴訟はあったが棄却されている。また環境経済学に関して筆者はこれを手ぬるいとし、環境問題を倫理やCSR(企業の社会的責任)の観点からも踏まえた「社会的市場」において解決すべきであるとする「グリーン・エコノミー」や、生態系分析を用いた「エコロジー経済学」に期待している。筆者のこういった姿勢を長々とみていると、その急進っぽさが少々危なっかしく思える。それに環境思想の学者というのは、こんなにもロマンチストなのか…と私は感じるのだ。だがしかし、多少危なっかしくともラディカルな思想で時代に添い寝するのがこの分野の学者の仕事だろう。ましてや、環境学者達は昨日の地球より明日の地球を心配しているのである。過去を振り返ってばかりいるよりは、理想の未来を懸命に追い続けるロマンチストでいる方が、私の目にはよっぽど違和感なく映る。(鴨)