文化

NF鼎談連動書評 辺見庸・著『しのびよる破局』(大月書店)

2009.11.08

著者の辺見庸氏は元共同通信記者。1994年に世界各地を「食べる」という行為を軸にルポルタージュした『もの食う人びと』で作家デビュー。以来ラディカルに現代社会を論じるも2004年に脳梗塞で倒れ、2006年より執筆活動を再開するも、その発言は以前より大きな変容を見せている。

本書が出版されたのは今年の3月、前年秋のリーマンショックに端を発する世界金融危機からまだ覚めやらぬ時節であり、資本主義の危機が叫ばれていた。

辺見はこの危機を経済だけの問題に限定せず、重層性を帯びた破局、人間の価値観全体の問題だと言う。作中での論点は多岐に渡るのだが、ここでは「IT時代」「ジャーナリズム」に関連する部分をピックアプする。辺見は情報化社会の進展は生体を端末化させたと言う。即時的な情報の伝達と需要が可能になったことで人間が有機的な反射体であることを要求されるようになり、 個々人の思索や体感といったマチエール(質感)が失われてしまったと説く。そして、そうした社会はありとあらゆる異なった「質」を、貨幣という同質の量に返還するシステムである高度資本主義と非常に融和的ではないかと分析する。このシステムは外在するものであると同時に内在的なもの。心的、毛細血管レベルまで私たちに浸透してしまっていると言うのだ。こうした情報化=高度資本主義化した社会が行き着いた果てがこの破局であり、今や耐えられなくなった人間の生態が悲鳴を上げている。そう辺見は語る。

一方でそうした状況を隠蔽する役割を果たすのがメディアだと辺見は述べる。常に事態を過小評価し、楽天主義をつらぬく、日常を守ろうとするメディアの性質。これを辺見は日常のコーティングと呼ぶ。そして現代を歴史上のどの時期よりもコーティング、上塗りが上手く為される時代、日常をマスコミが操作しその色合いすらきめる時代だと規定する。表層的な事象ばかりが垂れ流され、この事態を生んだ淵源がどこにあるのかが自省されていないと辺見は言うが、この一文はメディアの端くれのような存在であるここ京都大学新聞に在籍する私の心にも突き刺さる。日々発生するニュースを私自身どのように扱ってきた(そしている)のか…。明言こそしていないが、このメディアのコーティング作用が前述した情報化、および資本主義の性質と合体することで、我々の意識をコントロールし、意識と生体の分裂を加速させ、作中で使われる語彙を用いれば「無意識の荒び」をもたらす、そう辺見は告発している気がしてならない。

ただし辺見は、作中で私たちにこの間違った社会を変革する為にこうしろ!とあるべき行動方針を提示するわけではない。現在の社会のあり方が「間違って」いるのかすらもハッキリとは語っていない。だから彼を将来への展望も無いただ現実に絶望した人間と考える者もいるかもしれない。

しかしそうした「ハッキリした」言説が、そのベクトルがどのようなものであれ今やモニター画面の向こうにどれほど溢れていることか。何かニュースがおこるとやれこれは悪、あれは善だと即座に切り捨てる。読み手も脊髄反射的な同意か叩きしか求められない。一方で辺見の文章を読んでいると、常にページを読む目が留まり、そこから自分自身の行動、精神に照らさざるを得ない。このような文章を書く辺見は現代という時代において非常に稀有であり、かつ必要とされている存在であるといえまいか。(魚)

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