教員の薦める一冊(2009.09.16)

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本を開くのはどんな時だろうか。勉強しようと思ったとき、暇なとき、新たな何かに出会いたいとき。

本を開くのはどんな場所だろうか。授業が始まる前の教室で、落ち着く自分の部屋で、電車の中で。

読書はいつでもどこでもできるものだから、今しか読めない本なんてものはない。しかし後から振り返って、「あの時読んでおけばよかった本」というものはある。

この面では京大の教員に、高校時代に読んだ本や読めばいいと思う本を紹介してもらった。新たな出会いのきっかけとして、新たな思い出としてほしい。

(編集部)

羽仁五郎『ミケルアンジェロ』(岩波書店)

~伊藤公雄 文学研究科教授 より~

もう10年以上前のことだ。岩波文庫70周年、岩波新書60周年にあたって、それぞれ「私の薦めるこの3冊」と「この1冊」を選ぶアンケートに次々答えたことがある(半年くらいの期間をおいて1997年に刊行された『図書』の臨時増刊号にそれぞれ掲載されている)。最初の文庫の方は、社会学者として、まずはマックス・ウエーバーのいわゆる「客観性」論文の翻訳をあげた(他は、石川淳の『至福千年』とE・M・フォースターの『フォースター評論集』を選んだ)。社会科学における「客観性」について、自然科学のそれと対比しつつ論じたウエーバーのこの本(論文)は、学生時代に読んでものすごく影響を受けた記憶があったからだ。こんな面白い本、きっと他にもとりあげた人が多数いるのではと想像していた。しかし、意外なことに、ぼくの他にこの本を選んだのは、社会思想史の研究者としてよく知られている水田洋先生(名古屋大学名誉教授)ただ一人だった。

興味深いことが起こったのは、新書の「この一冊」の方だった。いろいろ考えた末、高校時代に古本屋で買って読んだ羽仁五郎の『ミケルアンヂェロ』を選んだのだが、何と、水田先生もこの本を選んでいたのである(この本は、もう一人、江藤文夫成蹊大学名誉教授もとりあげていた)。厳密な水田先生の学風と比べて、かなり浮ついた研究態度ですごしてきたぼくにとって、この「シンクロ」状態は、何だかおもはゆく、複雑な気持ちにさせられたものだった。

先に「高校時代に読んだ」と書いた。ミケランジェロ論というよりも、彼の姿を、活躍した自由都市フィレンツエのダイナミックな歴史と重ね合わせて論じた本なのだが、ちょっとアジテーション調の羽仁の文体の影響もあって、ものすごく壮快な気持ちにさせられたことをよくおぼえている(1939年に出版されたこの本、長く絶版だったが、3人も選んだ人がいたので、98年に復刊されている。古本屋で探せばみつかるはずだ)。

司馬遼太郎『龍馬がゆく』(文藝春秋)

~奈良岡聰智 法学研究科准教授 より~

「龍馬がゆく」を手にしたのは、高校生活も半ばを過ぎた頃だったと記憶している。当時東北地方の片田舎の進学校に通っていた私は、進路に思い悩んでいた。父親が期待する医学部を志望していたものの、医者という仕事にも理科系科目にもどうも関心が向かない。大学では大好きな歴史や政治を勉強したいが、それが果たしてその後の職業生活にどう結びつくのか展望が持てない。さらには、都会の大学に進めば故郷や家族を捨てることになるのではないかという恐怖が、私を苦しめていた。果たしてどうしたものか。鬱々していた頃に出逢ったのが、この本であった。

司馬遼太郎が描く龍馬は、実に魅力的だった。天下国家のため、故郷を出て、私心を捨て、自分を磨きながら、倒幕運動に邁進する龍馬。多くの名士に愛され、友人に慕われながら、己の理想を見つけ、信念を貫いていく龍馬。「世の中の人は何とも言わば言え 我がなすことは我のみぞ知る」。三日三晩夢中に読み進める中で、龍馬が詠んだというこの歌を見つけ、今の自分に欠けているのはこれだと気付かされた。こうして、私は自分と向き合う大きなきっかけをつかみ、やがて京大法学部に志望を定めた。京大に入学した後、真っ先に向かったのは、もちろん京都霊山にある龍馬の墓だった。

その後日本政治史を専攻するようになった私は、明治維新で龍馬が果たした役割については諸説あることを学び、現実の龍馬は、司馬が描いたほどには影響力を持っていなかったはずだということを知っている。また、事実と空想の区別を曖昧にする司馬の手法に対しては、批判的な目を向けている。もはや司馬が書いた小説を読むことはないし、読んでも楽しむことはできないだろう。しかし、若き日に読んだ小説の中の龍馬は、現実とは別個の存在として、いまだに私の心の中で生き続けているような気がする。

若い時にしか読めない本があるという。「龍馬がゆく」は、私にとってそんな一冊だったのだと思う。

岡潔『日本のこころ』(講談社)

~立木秀樹 人間・環境学研究科准教授 より~

「国家の品格」などの著書で有名な数学者、藤原正彦先生の古いエッセイ集に、「数学者の言葉では」(新潮文庫 1984)がある。この本で著者は、研究を志す学生が向きあわなければならない三つの不安について述べている。自分の能力に関する不安、自分がしていることの価値に関する不安、そして、自分の将来に関する不安である。この本を読んだ当時、私は京都大学の数学教室の学部生で、こういった不安感に駆り立てられたように毎日休む暇もなく数学の論理を追い問題を解いていた。あまりに無理な勉強がたたり、心のバランスを崩してしまった私は、徐々に数学に対する興味を失い、卒業後は就職すべく、4年生のゼミを計算機科学に変更してしまった。それなのに、計算機科学の方で大学院に進学し、大学に職を得て、最近では数学的な問題とすらも取り組んでいる。ここまでこれたのは、学部時代に数学の鍛練をしたこと、不安のハードルの低い道を選び、そこで面白い問題に出会えたことが大きかった。それに加えて、最近は、岡潔先生の書物から受けた影響も大きい。

岡潔先生は、多変数解析関数論で輝かしい業績を残し文化勲章を受章した、京都帝国大学出身の大数学者である。数学者であるとともに、人間の情緒や教育を主題としたエッセイを数多く残しており、それらは40年以上経った今でも色あせることはない。岡潔先生によると、数学も情緒の現れであり、情緒を深めることは、研究にも重要だという。昔、意味合いも分からずに論理だけを追っていた数学概念で、今では、しっくりと来ていることはたくさんある。これを数学的能力の向上と言うのであろうが、それは多少なりとも内面の発達とも結びついており、これくらいの時間が必要だったのだと思う。岡潔先生の言う情緒は、効率化ばかりを求める現代社会でこそ大切なものである。復刊された文庫本などもあるので、皆さんにもご一読をお勧めしたい。最後に、藤原正彦先生も最近は情緒の大切さを述べておられることを付言しておく。

上田敏・訳『海潮音』(新潮社)

~大山泰宏 教育学研究科准教授 より~

高校生の頃は,一生の中でもっとも感性と知性が研ぎ澄まされている時代であると言っても過言ではない。もちろんその知性は経験と学習によって錬成されるのを待っている粗鉱ではあるが,その後に使用される知性の基本的な形式は,この時期にほぼ完成されているというのが,知能に関する心理学の知見である。この時代は,記憶力がもっとも優れたときでもある。高校生の頃に読んだ本は,文字通り一生記憶に残り,その後の人生を通して,ものの見方や考え方に計り知れぬ影響を与える。

私が高校時代を過ごしたのは,九州の中でも陸の孤島と呼ばれるきわめて辺鄙な土地で,実用書とマンガが大半を占める書店の棚から,数少ない新書や文庫をまさに「発掘」して,貪るように読んでいた。今やその郷里でも,当時とは比べ物にならないくらい豊富に本が入手できるようになっていて,うらやましい限りである。

そんな中でボロボロになるまで持ち歩き,繰り返し読んでいたのは,新潮文庫版の『海潮音』であった。上田敏の名調子で訳されたこの翻訳詩集には,難解な詩も多かった。しかし,西洋的な自我と情念,感性そして宗教的感覚が,古来のやまとことばや漢文調とに見事に融合したその響きは私を虜にした。多くの詩は,今でもそらんじることができるほどである。詩人たちのまなざしと感性が凝縮された詩を覚えることは,日常生活で出会う事象のとらえ方を徹底的に変えた。秋の日に散る一枚の落葉は,単なる眼前の落葉ではなく,ヴェルレーヌの眼差しと感性を,そして象徴詩の歴史性を背負ったものとなった。また,フランスに渡航して初めてマロニエの落葉に出会ったとき,その体験は,海潮音を愛読していた高校の頃の自分の思い出とつながった。この本を通して私の中に刻まれた詩人たちの言葉が,私のその後の経験と精神とを織りなしたと言っても,過言ではない。

中でも私が好きだったのは,アルトゥロ・グラアフというイタリアの詩人の「解悟」という詩の一節である。「・・・(前略)きしかたの犯しの罪の一つだにも,懲(こらし)の責めをのがれしはなし。そをもふと,胸はひらけぬ。あばらやのあはれの胸も高き望みに。」後悔の多い経験こそが,自分を新しい希望へと開いてくれる。今から思うとこの一節こそが,私を臨床心理学という分野へと導く波の響であったように思える。

片山杜秀『近代日本の右翼思想』(講談社)

~岡田暁生 人文科学研究所准教授 より~

小学生の頃の私は暇さえあれば本を読んでいるような子供だったが、中学から高校にかけてほとんど読書をしなかった。世に数多ある「名著」の多くは、相当に人生体験を積んだ「大人」を対象にしているのであって、「子供」から「大人」への過渡期にある者にとって等身大の良書というのは、なかなか見当たらない。おまけにここに「受験用現代国語」の問題が関わってくる。大人向けの著作の断片だけが「試験問題」として使われ、そこで「分かったようなフリをする」のが得意な連中がいい点を取るという構図になってしまい、それが腹立たしい私はますます読書から遠ざかってしまったのである。

今の私が、「こういう本を高校の頃に読んでいたら人生観が変わったかもしれないなあ」と思える書物の一つが、片山杜秀『近代日本の右翼思想』(講談社選書メチエ)である。「右翼と左翼ってどう定義すればいいわけ?」とか「右翼と保守って同じなの? 違うものなの?」といった素朴な疑問を、これだけ鮮やかに解きほぐしてくれる本はない。それだけではない。ここで扱われているのは戦前、つまり遠い昔の日本であるわけだが、読み進んでいくうちに、それがまるで「今日」を論じているような錯覚を覚え始めるだろう。「歴史は繰り返す」 ― この怖さこそ、若い人に是非とも実感してほしいと、私は思う。

だが本書の最大の魅力は恐らく、その極めて現代的でほとんどポップといってもいいテンポ感、そして驚倒するほかない著者の博覧強記だろう。「はじめに」と「おわりに」だけでも目を通してほしい。世の中には凡人の数百倍の容積と速度と回路を備えたハードディスクのような頭を持っている人間がいる ― このことを知るだけでも、この本はある種の感動を与えてくれるはずだ。ちなみに片山氏には京大の1・2回生対象の授業で1コマだけ講義をしてもらったことがあるが、授業終了後、学生たちから盛大な拍手が沸き起こった。自分自身の学生時代も含め、授業に拍手が送られる光景を見たのは、後にも先にもこの時だけである。

いちむらみさこ『Dearキクチさん』(キョートット出版) 【特別寄稿】

~井上昌哉 くびくびカフェ・路上生活研究家(自称) より~

私が高校生のみなさんにおすすめする一冊は、いちむらみさこ(文・絵)『Dearキクチさん、―ブルーテント村とチョコレート―』(キョートット出版、一二〇〇円)です。いちむらさんは、東京のとある公園に住むアーティストで、この本はそこでの生活や、出会った人びと(特にキクチさんという不思議な女性)について書かれています。

ブルーテント村というのは、いわゆるホームレスの人たちが作るコミュニティです。公園にテントを建てて住み始めたいちむらさんは、「エノアール」という小さなカフェを開き、みんなで絵を描く会をしたり、女性の住人だけを集めてティーパーティーをしたりして、そこに暮らす人たちとだんだんに関係を作っていきます。

もちろん、大ぜいの他人が暮らすのですから、ケンカやトラブルも日常茶飯事です。突発的な暴力におそわれたりもします。私も半年前から、京大時計台前で野宿生活をしているので、こういった場所で暮らすことの大変さは身にしみて分かります。

それでもこの本には、なんとも楽しい出来事や、胸を打たれるエピソードがたくさん出てきます。公園のテント村は、「何も持たない」がゆえの豊かさにあふれています。たとえお金がなくても―あるいはお金がないからこそ―、生活の細部に彩りを与えることで、こんなにもステキに、繊細に、毎日を生きることができる。

アートというのは、ちょっとした仕掛けを工夫することによって、今まで見ていた世界がまったく違ったものに見えるとか、見えていなかったものが見えるようになるとか、そういったことのように思います。その意味で、これはアートの本です。

他者と<ともに>あることの切なさ、もどかしさ。

誰かとともにこの世界に存在し、そのやさしさや、怒りや、苦しみや、そして何よりその孤独に、そっと寄りそって生きる方法について書かれた、すばらしい本です。ぜひ読んでみてください。

《本紙に写真掲載》

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