竹内洋インタビュー後記・書評 「我々は言葉を持ち合わせていない」(2009.09.16)

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竹内氏へのインタビュー後、改めて著書「教養主義の没落」を読み返した。

本書で書かれるところの「教養」は、主に帝国大学の時代に台頭したエリート学生文化を中心に論じられている。日本的教養主義は、華族が持つ西欧的ブルジョア志向と武士的・農民的な修養主義が相俟って、人格の涵養及び身分的上昇志向のための文化装置として世間を席巻してきた。これには帝大文学士のバックグラウンドには農村出身者が少なくなかった背景もある。ここがフランスの教養発信源であったノルマリアン(高等師範学校卒業生)がブルジョア文化と連続性を有していた点とは本質的に異なる。教養主義全盛だった時代は過ぎ去り、やがて教養による自己鍛錬など欺瞞であり、ハイカルチャーの模倣、上昇志向のための卑しいスノビズムに過ぎないのではないかという批判が発生する。この嫌悪感を発露したのが石原慎太郎だ。このもやもやした感情が爆発したのが全共闘の時代である。やがて社会から教養は軽んじられていく。入社試験で出身学部による職業種の制限が薄れてくるのはこの頃である。そして現代我々は「教養」不在の中で生きているのだと本書は締めくくっている。

全共闘運動については、今月発売の「中央公論 2009年10月号」に興味深い内容が取り扱われているのでここで紹介したい。「歴史としての『全共闘』」なる特集として竹内氏と作家の小池真理子氏の対談が掲載されている。この対談からは、全共闘運動という切り口から現代の姿がおぼろげながら可視化されてくる。

教師を敵視する姿勢が最終的には反知性主義・反教養主義へと発展してきた全共闘時代であるものの、反アカデミズムの潮流の中にして議論という形で言葉が生きていたと小池氏は語る。個人が共同体という枠の中から、離れては近付く行為を繰り返していた世代(コミットメントする世代)でもあった。竹内氏はこれを「言語化という作業が存在した最後の世代」と語る。

翻って「今の若者」についてスポットを当ててみると、他人と距離をとりすぎて傷つくことを恐れ議論が成立しない構図が浮かび上がってくる。まさに「ガラスのような自我(竹内氏談)」である。コミットメントすることはなく、何もかも個人の問題に回収されてしまうのだ。読書会や勉強会という場が大学から薄れてきたのも、この表れと言えるのかもしれない。

インタビューの中で、竹内氏は人間という存在を「言葉と意味の動物」と表象した。もし「言葉」が存在した最後の時代が全共闘の時代なのだとしたら、それ以降の大学における「学び」の本質はどこに見出せるのか。私自身は平成生まれであるから学生運動というフェーズなど知る由もない。だが、自分自身の属する「言葉を持ち合わせていない世代」に伍することなく現代を捉え直すための「教養」を獲得する必要はあっていい。懐古主義でもエリート意識でもない、全身を用いた自己教育の産物としての言葉というツールを用いて人類知の存在可能性を論ずる行為は、必ずしも間違いではないはずだ。(如)

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