文化

〈特集〉 臓器移植法改正を考える 家族の脳死を受け入れられるか?

2009.08.12

死―それは私たちがいつかは必ず経験するものである。しかし、この死の定義が変わってしまうことをいったいどれだけの人間が知っているのだろうか。

7月14日、「臓器の移植に関する法律」の改正案(A案)が参議院で可決・成立した。この改正によって原則的に「脳死は人の死」とされ、本人の生前の意思が明確で無い場合であっても、家族の承諾があれば臓器を摘出できる。15歳未満の子どもについても、家族の同意で臓器提供が出来るとした。また書面によって親族に優先的に臓器を提供できるようにしたのも特徴的だ。

日本では従来心肺の停止をもって人の死と定義してきた。しかし医学の進歩によって、脳幹機能が停止しても人工呼吸器等で呼吸を継続し、心臓機能を維持できる状態が可能になった。この状態を脳死という(※1)。

1997年「臓器の移植に関する法律」が成立し、臓器移植の意思を生前に示しており、かつ遺族に拒まれない場合に限って「脳死した者の身体」を「死体」と扱うものとし、脳死からの臓器摘出を法的に認めた。ただし15歳未満の子どもについては、意思能力の問題から認められなかった。

脳死を人の死として認めるかどうかは、人の死の定義という非常に倫理的な問題に触れることになり、これに反対する主張は今も根強い。それでも脳死からの臓器移植が認められた背景には、ドナーが圧倒的に不足していた状況があった(※2)。法制定により患者が助かる可能性が増えると期待されたのだ。

しかし脳死を一律に人の死として扱う諸外国に比べて日本の基準は厳格であり、脳死からの臓器移植の件数は法律が施行されてから現在までの10年間でわずか82件に留まっている。海外に渡航し移植手術を受ける患者も後を立たず、特に国内で移植手術を受けるのが不可能な15歳未満の子どもの患者は、海外渡航しか道が無い状況だった。 

患者団体からの基準緩和を求める声と、世界保健機関(WHO)が今年に入って原則的に海外に渡航しての移植医療を禁止するガイドラインを検討し始めたことが影響し、制度見直しの機運が高まったのである。

明確に脳死を人の死とした今回の法改正。患者団体からは歓迎の声も上がる一方で、死の定義という重大な問題に関して十分な議論が行なわれたのかを疑問視する声もある。

編集部では生命倫理に造詣の深い、法学研究科の位田隆一教授に今回の法改正についてお話を伺った。 (麒・魚)



※1 脳死の判定の仕方:深い昏睡にあり、回復の見込みが無い場合で、かつ2人以上の医師による6時間おきの判定で以下の4つの基準①深いこん睡状態にある。②瞳孔が両側4ミリ以上に固定されている。③脳幹反射が消失している。④脳波が平坦である。が全て満たされ、更に自発呼吸が消失している、とされて初めて脳死と判定される。

※2 社団法人日本臓器移植ネットワークによると、国内では臓器移植を必要とする患者1万2000人に対し移植手術の件数は心停止・脳死あわせて年間約200件と低迷している。

位田隆一・法学研究科教授

臓器移植には、本来「脳死は死か」という問題と、「そもそも死体から臓器を取り出して移植してもよいのか」という問題がある。臓器移植法をめぐる議論では前者ばかりが強調される傾向にあるが、後者もまた臓器移植に関する本質的な議論だ。臓器移植は、患者の生命を救うという崇高な目的により許容されるが、それには、やはり死の定義や臓器提供について国全体の議論と合意の過程が必要であり、これが不十分であれば、国民からの理解が得られにくく、うまく行かない。臓器移植自体を禁じている国は殆どないが、とくに日本人は、生や死に関して固有といえる考え方を持っており、「五体満足でないと成仏できない」等の見方は、「body」と「soul」を分ける西洋の考え方とかなり異なる。たとえば、日本では司法解剖に対してもよい感情がもたれない。脳死・心臓死を含めて死体からの臓器移植が少ないのはこの点にも理由があろう。

「脳死は人の死か」という問題に関しては、法律が定めたからと言ってすぐに全国民に意識として定着するものではない。これは、国民的な議論の中からコンセンサスを生み出していかなければならない問題だ。日本人の倫理観に合わせた法制を策定するためにこそ、臓器移植にあたって脳死を死の基準と考えるコンセンサスを作っていかねばならなかったはずだ。これは、実際に臓器提供が大幅に増えるか、という問題として切実だ。とくに15歳未満からの臓器提供については、遺族の同意のみで可能になった。小さい年齢の子どもの命を救う可能性が大きく広がり、歓迎すべきだ。ただし、逆に親が子の脳死を前にして、その子を傷つけて臓器を提供するのをためらうことが予想される。移植を求める強い希望の前で、提供を拒否して批判を浴びる恐れもあることには注意すべきだ。

尊厳死を主張する人たちは、今回の改正で一律に脳死を死とする基準が確定したと理解して、尊厳死の容認への突破口と捉えている。しかし、脳死を死とするのは臓器移植法においての規定であり、一足飛びにはいかないだろう。確かに、この改正によって脳死が一般的な死の定義に押し広げられてしまう可能性はあるが、それでは臓器移植という例外的な場合以外には脳死を死と認めない少数派を否定してしまうことにつながる。実際に家族が脳死状態になったとき、それを死として受け止められるか、という問題は非常に個人的で極限的な問いであって、短絡的に答えの出るものではない。国民が全体として考える機会を作る努力が必要だ。

死後に自分の臓器を提供して他人に移植することを認めるかは本来、哲学的で個々人の極限的な自己決定を迫るものだ。脳死を人の死と認めるオランダでは、成人になる時に国から自分が死んだ時の臓器提供の可否を問う手紙が届き、これにNOと意思表示しない限り自分の臓器摘出を受け入れたものとして扱われる。しかし返事を躊躇する者も中にはあり、自己決定の難しさを示している。これはOpt-out(除外を選択する)方式といい、死後の臓器提供を良しとする国民一般の合意があり、それに与しない者はその意思を尊重されて除外されるやり方だ。

日本は、これまで生前に死後の臓器提供に同意した者のみ臓器を摘出するOpt-In(参加を選択する)方式をとってきており、本人の自己決定権を絶対的に重視していた。今回の改正では、生前に本人がYesではなくてもNoと言っていなければ、遺族の同意だけで臓器提供ができる。これを自己決定権の否定として批判する向きもあるが、従来も本人の同意と同時に遺族の同意も必要だったし、今回も本人が拒否していれば摘出できないから、自己決定権の否定とまでは言えない。

他方で、15歳未満からの臓器提供については、未成年者の意思決定能力の有無や自己決定権という点からも考える必要がある。これまでは、15歳未満では死後の臓器提供について十分に理解できず、自己決定ができないから、提供の範囲外として扱われてきた。改正では親の同意によって提供の可否が決められる。これには親の権限が過大ではないか、との危惧があり、また被虐待児について親が代償的に虐待死した子の臓器提供に同意するという状況も考えられる。しかし、親の代諾が適切な形で行われれば、子どもの臓器移植問題全体に敷衍される難点ではなく、大局的には解決されていくべき問題だ。子どもに「死の教育」を施すことで、移植への認識を深め、自己決定の能力を高めようとする見解もある。臓器移植は「生」のための医療でもあり、同時に「生の教育」も必要ではないかと思う。

こうして死の定義が変わりつつある一方で、「生」の分野においても見過ごせない問題がある。パーキンソン病の治療のために、ドーパミン生成細胞を脳に移植する研究がなされているが、この考え方をつき進めれば、脳そのものを移植する、という思考実験も可能だ。さらにiPS細胞によって開かれた展望では、一人の体細胞からヒトを生成できるところまで考えることができる。こうした空前の生命科学技術の可能性に対して人間がどのように接していくのか。そこでは「生命倫理」の要素が欠かせない。

ここで生じるのは「目の前に使える科学技術があるのに、なぜそれを使ってはいけないのか」という普遍的な問題だ。「倫理」という理由で制限されるのはなぜか。それは「人の生命」という社会の基本的価値にかかわるからだ。これは、生と死に規定される人間の範囲を考える点で、「人間とは何か」という根源的な問題でもある。
こういった問いに正解はない。国民が様々な生と死の可能性に直面し、それに備えていく議論を進めていく中で一定の合意が形成されるのであり、それが法に結実する。人の死は国会で議論しにくいテーマではあるが、合意形成の努力を怠った法律は妥当な結果をもたらさない。

97年に妥協の結果としてできた臓器移植法は、当時の議論の状況を反映して、対立意見を巧妙に取り込んだものであった。それから10年がたち、臓器移植の可能性を広げるた今回の改正は、法律としては以前より一貫性のあるものになったが、それに伴う国民の認識は十分には醸成されていない。この改正を機としてさらに国民の理解と合意を形成していく努力こそ最も必要なものだ。



※E案:今回の国会審議ではAからEまで5つの改正案が提出されていた。成立したのはA案。E案は、臓器移植法をすぐに改正するのではなく、取りあえず内閣府に臨時調査会を設置し、子どもの脳死判定基準などを1年かけてじっくり検討してみよう、とするもの。



《本紙に写真掲載》

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