〈編集員の視点〉 裁判制度全体からの俯瞰 ―「司法手続きの正常化」がもたらす罪刑法定主義の徹底―(2009.05.16)

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「刑事手続の中の死刑」 春秋講義で語る(2009.05.16)より続く

今回の春秋講義を聴いて、私は裁判員制度についての印象を改めざるをえなかった。裁判員制度においてしばしば語られる視点は、「エリート裁判官の融通の利かない刑事裁判手続きに一般人の社会常識を反映させる」「国民の司法に対する理解・支持を求める」というものであり、今回の講義のレジュメにも記載されているのはこの2点であった。しかし、制度の本質というものは、制度を製作する側からは語りえないものであることを考えたとき、裁判員制度の本質を考える上で必要なのは裁判制度全体からの俯瞰であったはずだ。

実際に全体を眺めまわしてからわかるのは、裁判員制度で最も重要な変革は「司法手続きの正常化」なのである。つまり、被告人と検察官が弁論を戦わせ、それについて多様な視点から保護されるべき法益を検討し裁判官が判断を下す、というのが本来の刑事手続きの姿である。この制度の上で、有罪が毎年97%であり続けるのはおかしい。裁判員制度を介して、その是正が図られるのだ。

制度に対する評価は安易にしてはならない。裁判員制度「以後」、何がもたらされるか、何をもたらそうとしているのか、きちんと予測を立てる必要がある。まず、刑事手続の「正常化」がもたらすのは、「罪刑法定主義」の徹底だろう。罪刑法定主義とは、刑罰は国家による重大な人権の侵害であるという想定の下、「疑わしきは被告人の利益に」という原則に基づいて慎重な裁判を行うことを意味する。精密捜査が排される以上、より人格から行為に基づいた判断に移行することは必定であり、その意味では、より公正な判決が期待できるのかもしれない。しかし、それは逆に全てを裁判の場で決定するということを意味しており、半ば当然の流れとして起訴が行われることになる。つまり、犯罪者の数自体はどう推移するのか未定なのだ。

よく「裁判員制度の導入は結局、裁判員が職業裁判官の言いなりになって終わるだろう」という意見が聞かれるが、今年3月の名古屋OL監禁殺害事件で、裁判員予定者が「過去の判例に照らして、今回の判決(2人死刑、1人無期懲役)は重すぎる」というコメントを発していることが興味深い。裁判員制度に消極的な国民は8割に達するというが、その理由の多数は「責任が重い」ということにあり、逆に受け取れば、裁判員を受けるのが絶対の環境において、最善を尽くして判断をする責任を感じているということも言えるのだ。「司法教育」という目的はある程度果たされると見ても、不当な予測には当たらない。もし問題があるとすれば、有罪無罪の判定自体が高度な推理能力を要する専門的な営為であり、これは「一般常識」の介在する分野にないと考えられることだろう。アメリカの陪審員制度が人種差別などが介在することで歪曲された判断に至ることはよく指摘される。

しかし、裁判員制度の本質は、そのような技術的な部分ではなく、やはり国家機構の在り方にある。ヨーロッパ諸国の司法に対する市民参加制度の導入は19世紀の国民国家形成に端を発する。だから逆に、官製の維新を遂げた日本の歴史と職権主義裁判は不可分なのだ。国家が自己を市民社会と規定する上では、避けて通れない過程として、市民の司法参加は位置づけられている。「司法制度の正常化」という変革も、罪刑法定主義という近代的個人の活動範囲を最大限に広げる原理の通底に由来する。その意味で、これは近時民事法規の大改正と同じ根を有すると見てよい。そういう、21世紀日本の自己イメージの大幅な変革がこの制度の背景にはあり、それは20世紀の間から脈々と計画されていた変革というところに注意が必要である。ここまで考えた上で、我々は裁判員制度を含む大きな社会変革にどう対応するか判断を迫られるだろう。(麒)

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