〈寄稿〉 岡真理『人文学の死―イスラエルによるガザ攻撃に寄せて―』(2009.02.16)

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ナチスの政策を批判して逮捕され、即決裁判で死刑に処せられた女子大生ゾフィー・ショルを描いたドイツ映画『白バラの祈り』を観て、根源的な問いを突きつけられたように感じた。

「ゾフィーの勇気に世界が涙した」というのが映画のキャッチ・コピーだ。たしかに、ナチスに対して批判的な考えを持ちながら、保身のために口を閉ざしていた者たちもいただろう。だが、作品が描いていたのは、むしろ当時のドイツ社会の圧倒的多数の市民にとって、ナチスの政策は(ユダヤ人に対する差別政策も含めて)絶対的に正しかった」ということだ。学内で逮捕されたゾフィーを見つめる学生たちの表情は、彼女の勇気を心ひそかに賞賛したり、自分の勇気のなさを恥じたりするものではない。それは、善良な市民が、破壊活動を行うテロリストに向ける嫌悪と侮蔑の表情に似ている。

だとすれば、ゾフィーの勇気を讃える前に、私たちが考えなければならないのは、社会の圧倒的多数が「正しい」と信じていることを、なぜ、ゾフィーは「決定的に間違っている」と知りえたのかということだ。作品は、両親の教育が彼女の普遍的なヒューマニズムを育んだのだと示唆している。だが、当時、子どもが反ナチスの親を当局に密告するという例もあったことを思えば、子どもが必ずしも両親の価値観に倣うとは限らない。

社会の支配的価値観に抗して、なぜ、ゾフィーは……? 映画を観て以来、その問いが頭から離れない。依然、確たる答えは見つけられていない。だが、少なくとも、今の私に言えることは、大学で「教養科目」というときの「教養」とは、たとえばナチスの時代にあってゾフィー自身の価値観を育んだ知の力の源にあるもののことではないのか、ということだ。

私たちは、なぜ、教養科目として人文学を学ぶのか。それは、ひとつには、社会の圧倒的多数が、自分たちの傍らで隣人たるユダヤ人が差別され、迫害されていることに無関心であるときに、それが人道に対する罪にほかならないと看破する知の力を養うためではないのだろうか。

昨年12月の27日から三週間にわたってイスラエルによるガザ攻撃が続いた。出口の閉ざされた、逃げ場のない空間に、150万もの人間を「袋の鼠」状態にして、そこにミサイル、砲弾、そして白燐弾が浴びせられたのだった。死傷者の数は毎日100人単位で増えていった。

日本のマスメディアが出来事をあくまでも「暴力の連鎖」「憎悪の応酬」といったお決まりの言葉に還元し、「中東情勢」という枠組みのなかでしか論じないなかで、ガザからは日々インターネットを通じて、今まさにそこで起きていることが、「人道(ヒューマニティ)に対する罪」にほかならないことを伝えるメールや写真が送られてきた。年末年始もなく、私は空襲下のガザから発信される情報をひたすら日本語に翻訳し、メーリングリストに流し続けた。世界じゅうが新年を祝いあっているそのとき、ガザでは、檻のなかに閉じ込められた人々の頭上にミサイルが降り注いでいたのだった。「これが私たちのハッピー・ニューイヤーなのだ」というメールの一節が胸に突き刺さった。

世界注視のなかで公然と三週間という長きにわたって続いた攻撃に対し、世界の各地で抗議デモが行われた。日本でも各地でさまざまな抗議の集会が持たれ、会場に入りきらないほどの人々が参加した。これまでにない関心の高まりがあった一方で、社会全体から考えればそれは、この社会のほんのひとつまみの者たちでしかなかったのも事実だ。この社会、この世界の圧倒的多数は、ガザで起きていることに無関心だった。

150万の人間を封鎖された空間に閉じ込めて一方的に殺すという事態が起きているときに、アメリカの次期大統領が年始休暇にハワイでゴルフを楽しんでみせることは遂行的に、パレスチナ人の人間性など一顧だにする必要がないというメッセージを発信しているのと同じことだ。同様に、事態に対する世界の「無関心」もまた、パレスチナ人がどうなろうと、所詮、彼らの生死など自分たちには関係ないということの遂行的な表明である。イスラエルが公然かつ長期にわたってガザに対し一方的な攻撃をなしえたのも、アメリカによる容認だけではない、世界のこの「無関心」があったればこそだ。

ユダヤ人を収容所に閉じ込めてガス室で殺すことがレイシズムであり人道に対する罪ならば、パレスチナ人をガザに閉じ込めて一方的に殺戮することもまた、レイシズムであり人道に対する罪であり、そのことが認識されないでいること自体がアラブ人やイスラームに対する根深いレイシズムなのだと思う。

私がそのようなことを考えざるをえないのは、私がアラブ文学研究者だからなのではなく、文学研究者であるからだ。今回、ガザで起きたこと、それは、文学が、そして人文学それ自体が、不可避的かつ本質的にかかわる問題であると思う。それが、アラブ研究者や中東研究者のみに関わることだと、もし、私たちが考えるのだとしたら、それは人文学に対する死刑宣告であるだろう。いや、それとも、人文学など、とうの昔に脳死状態になって、とっくに死亡宣告されているのに、私がそれを認めたくないだけなのだろうか。とどめを刺されて単に全学の共通科目でしかないものをなお「教養」などと呼ぼうとするアナクロニズムと同じように。

一方で、ガザで起きたことを人文学の課題と考えるのは、私がアラブ研究者であることと無縁ではない。なぜなら、かつてルワンダで100万人もの住民が虐殺されるという出来事があったとき、私自身それをアフリカ研究者の問題と考えていた節があるからだ。だが、ヨーロッパでヨーロッパ人のキリスト教徒がヨーロッパ人のユダヤ教徒を数百万殺すことが人類にとって普遍的な思想課題となる一方で、ルワンダのツチ人とフツ人のあいだで100万もの人間が殺し殺されるという出来事がアフリカの問題としか見なされないとしたら、それ自体がアフリカに対するレイシズムであるだろう。アラブ研究者であるがゆえに、ガザで起きていることを「イスラーム原理主義」とユダヤ人のあいだの宗教紛争であるかのごとく報道するマスメディアの還元主義は敏感に看破しえても、アフリカに関しては、私自身、問題を「ツチ族」「フツ族」の「部族抗争」に還元するマスメディアの言説にからめとられていたということだ。オリエンタリズムはかくも根深い。

社会の圧倒的多数が無関心でいる中で、今回、教養科目としてアラビア語を学んでいる学生たち、そして旧教養部である総合人間学部でパレスチナ問題を学んでいる学生たちが自主的かつ主体的にイスラエルのガザ攻撃に対するアクションを起こした。ほんの1年でもアラビア語を学ぶことで、学生たちにとってガザのパレスチナ人はいつしか、中東の「アラブ人」ではなく、自分たちと同じ人間、その不条理な死を見過ごすことのできない存在になっていたのだろうか。

このガザについての知が、ガザで完結することなく、ルワンダへと開かれていくこと、それが「教養」が目指すものなのかもしれない。だとすれば、「教養」とは、とてもシンプルなものだ。私たちの身に起きてはならないことは、ガザのパレスチナ難民の身にも、アフリカ人の身にも起きてはならないということ。それがもし、起きてしまったとしたら、それは、イスラーム原理主義の問題でも、アフリカの部族の問題でもなく、ヒューマニズムの問題であり、そして、私たち自身の問題であるのだということだ。

(おか・まり氏は京都大学人間・環境学研究科准教授)

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