文化

〈日々の暮らし方〉 第7回 正しい合格発表の待ち方 〜正しい大学生活、その第一歩〜

2009.02.08

我々は人生において様々なことを待たなくてはならない。胎児の間は子宮から出るのを待ち、死の床に際しては死の瞬間を待つことになる。しかし待つという行為は非常に奇妙なものだ。考えてほしい、胎児は別に待たなくてもそのうち子宮から出ることになるし、我々のだれもが待つどころかできる限り避けたとしてもいつかは死ななくてはならないのだ。待つという行為は行為であって行為でない、「非行為(注1)」なのである。そもそも「待」という字は歩行を意味するギョウニンベンと、止まることを意味する寺からなっており、歩行を止めてとどまるという意味である。そもそも字源からして非行為といえる。

そうなると待つことが無意味なものと思え、いっそ待つことなどやめて、何か別のことをして過ごしたほうがよいように思えてしまう。ではなぜ人は待つのだろうか。この問いに対する一つの答えとして、人は待たなければ忘れてしまうからだというものがある。少しも待つことをしなければ、発表があること自体を忘れてしまうだろう。親兄弟が教えてくれるという反論もあるかもしれないが、その場合は親兄弟が待っていたのである。

しかしながら、完全に忘れてしまうという事例は極めて少ない。大概少しぐらいは待つものである。しかし待ち方が足りないのもいけない。十分に待っていなければ、いざその時が来たときの対応を誤ってしまう。へその緒を首に巻きつけて生まれてくるのも、死んでなおこの世を彷徨うのも待ち方が足りなかったのだと考えられる。合格発表の場合なら、寝坊する、他学部の発表を見てぬか喜びする、喜んでいるところで宗教サークルの勧誘(注2)に引っかかるなどの事態が考えられる。

ここまでくると話は簡単である。合格発表に対しては、発表のその時に対応を誤らぬよう、十分に待てばよいのだ。そしてここがポイントなのだが、この文脈の中から待つという非行為の中に隠された行為があらわれてくる。お分かりかと思うが、待っていたその時が来たときの対応について思いを巡らす行為がまさに待つという非行為の裏側にあることなのだ。このことを忘れている場合は、到底正しく待っているとは言えない。ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』はEstragonとVladimirが他愛もない会話ばかりして、肝心のゴドーが来てどうなるか、どうするかについて真剣に考えていないことから、現代人がこの正しい待つ姿勢を失っていることを批判した作品である。

しかしながら試験の出来を考え、合否はどうか、受かった場合にまず誰に喜びを知らせるか、落ちた場合に次年度どうするかを考えているだけでは足りない。なぜなら試験が終わってから合格発表までは10日以上の期間があるからだ。この日数を考える限り、到底その程度の考えでは足りない。合格していた際に一体なぜ自分は喜ぶのか、何か過剰な期待を自分はこの大学に対して抱いているのではないか、そしてそもそもこの大学を受験したこと自体が人生の間違いではなかったかというところまで真剣に検討するべきである。そうすれば発表当日には、合格なら喜び、不合格なら悲しむなどという単純な反応をするわけにはいかなくなるだろう。合格した者が肩を落とし、不合格のものが安堵するということも決して不自然なこととは言い切れないのだ。

京都大学日々の暮らし方研究会・編


注1: 非行少年などの非行が、実はこの非行為を語源としていると主張する研究者が京都大学文学研究科にいるが、非行少年は決して何もせずに何かを待っているわけではなく、むしろ積極的に煙草を吸ったり盗んだバイクで走りだしたりしているのだから、そうではないだろうと一般には考えられている。

注2: すべてのサークルは少なからず宗教的な側面を持っているが、普通のサークルがいつからか宗教性を帯びてくるのと違い、ここでいう宗教サークルは宗教が先にありサークルを作る。大学の公認を受けているものも含めその数は決して少なくない。

※※編集部注:本コラムは「京都大学日々の暮らしを考える会」の編集によるものであり、真偽のほどは保証できません。