文化

鬼教員と仏教員—大学の教養教育を考える

2009.01.16

単位認定の厳しさを喩えたジョークで、「阪大は大阪湾に潜らないと取れない、神戸大は木に登らないと取れない、京大は地面に落ちている(または空から降ってくる)」というのはご存知だろうか。一般に京大の単位認定は易しいと言われる。アメフト部員が答案にフォーメーションを書いたら単位がもらえた話や、レポートにカレーの作り方を記してもこれまた通ったなどと、受け継がれた武勇伝(?)を並べると枚挙に暇がない。巷では楽な講義の情報を指南する「逆通信簿」なる冊子が出回り、履修登録に際し一部の学生には重宝しているようだ。

だが、ちょっと考え直してほしい。学生から見た快楽本位で履修登録を決定するのはあまりにも早計である。人づてで聞いた話程度で大学生活を終えるのは少し寂しい。そもそも易しいと言われる講義とは本当に易しいのか?鬼だの仏だの名付けるのは勝手だが、どのみち単位を取る必要があるのならもう一歩踏み込んで実りの伴う単位を目指すべきではなかろうか。

今回は、専門もタイプも全く異なる二人の教員に話を伺うことで、学生にとってあるべき学問との付き合い方に留まらず学生と教員から見た高等教育の在り方を再評価してみた。この特集が来年度の履修登録の一助になると幸いである。(如)




当記事の本文は、Webサイト上では掲載・配信を行っておりません。
内容をご覧になりたい場合は、京都大学新聞社まで直接お問い合わせください。