複眼時評

塩沢由典 経営管理大学院寄附講座教授 「高学歴ワーキングプア」

2008.12.18

光文社新書から『高学歴ワーキングプア』という本がでている。2007年10月刊の本だが、AМAZОNのカスタマー・レビューでは、2008年11月27日現在、62本という異例の投稿数があり、本書に対する関心の高さを示している。

「ふつうの子が映画女優になれないのは、政府のせいなんですか?」とか、大学院に通うものならだれでも知っていることじゃないかとか、批判的な投稿も少なくない。「2流大学卒・博士課程の学生」が大学教授になりたいと思ってもなれないのは当然と、優越意識丸出しで揶揄したものもある。

しかし、本書を支持するものも多い。「大学院にいくと就職が最悪になるというのは、われわれの勉強意欲のためにも、…社会の教育の対する投資活動へのリターンにもなりません」とまともに社会問題とするものから、「この業界に身をおきながら、あえて内部告発の挙にでた筆者は、職業生命を賭けたはずだ」とあえてこの問題に切り込んだ著者に同情を寄せるものもある。

著者の水月昭道さんが、自身で大学院を経て、現在非常勤講師。自分や周辺の経験・実話を盛り込んでいるため、多くの読者は、自分自身に引き寄せて読んでいるのだろう。しかし、大学ってそんなに狭量だろうか。

大学院の量的拡大は、1991年11月の大学審議会答申「大学院の量的整備について」に基づき、文部科学省や大学が取り組んできた政策である。知識基盤社会の到来を考えれば、量的拡大が必要なことは明らかであるが、問題は、教育内容も変えず、社会の受入れ態勢も整えずに量的拡大に走ったことであろう。しかし、ここでは、ともに学問を創造する立場から考えてみたい。

カスタマー・レビューの中には、著者が国策の失敗を非難するのに反対して、本書に書かれた状況は「文系の博士という足腰の据わっていない立場にいる事が要因」と指摘しているものがあった。文系の学問は、もともと富裕有閑階級の子弟がいくところで、そうでない人間が社会的地位を求めていくこと自体が間違いという趣旨の投稿もあった。

経済学という文系の学問に携わる一員として「文系の学問」に対するこうした評価には考えさせられる。一面を正しく指摘しているからだ。人文科学は高等遊民、社会科学は批判か御用学問で、本当の意味で社会の役に立っていない。社会にも大学にも、こういう評価が雰囲気的にある。この評価に反論しがたいのが現在の問題であろう。

今年は金融危機が世界を襲った年だった。その影響で実体経済までが深刻な不況に陥っている。危機の引き金を引いたのはサブプライム・ローンで、リーマン・フラザーズの倒産が事態を深刻なものにした。両者の背後に金融工学があり、その意味で文系の学問も社会に大きな影響をもちうることが(逆説的に)証明された。類似のものとして、かつてはケインズ政策があった。適切に行なわれれば、経済は不況や失業を最小限に抑えることができると信じられた。しかし、現在では弊害が指摘されている。

両者は対立的な経済思想に基づくものとされているが、共通の根がある。経済という対象を操作可能なものと捉え、安易な「工学思想」で制御できると考えたからである。それを批判することは容易だが、代わりになにが提案できるかとなると、日本の社会科学はきわめて貧しいといわざるをえない。

商学という学問がある。実学の典型だが、日本では「書斎の学問」になってしまっている。これは、経済社会の現在の問題に取り組むことを学問創造の方法として確立させていないためである。たとえていえば、これは病院を持たない医学部のようなものだ。

なぜこのような事態になるのか。社会が多くの社会技術で支えられていることを社会科学自体がよく把握していないからであろう。「社会技術」というと、工学的な技術を社会に適用したものという誤解もあるが、貨幣や商慣習、暦制と度量衡、商法・会社法から最近のベンチャー・キャピタルやTLОまで、これらはすべて社会技術である。日本の社会科学に希薄なのは、こうした社会技術を開発するという思想であろう。

最近、知人から「雑踏警備というテーマで博士論文を書きたい。ついては博士課程に入学したいが、受け入れてくれる教授はいないだろうか」という相談を受けた。雑踏警備は、群集行動から危機管理まで社会技術の束である。紹介状を書いたりしたが、結局、文系では受け入れてもらえず、ある大学の工学研究科に在籍することになった。

専門の経済学からの反省としていえば、経済学は「経国斉民」の学問と「お高く」とまっていたと思う。経済の発展に資する学問としては、もっと等身大に近いところで多くの社会技術の開発に取り組むべきであろう。財務省や経済諮問会議からはお声が掛からないだろうが、財政政策や金融政策では出来ない経済の活性化には貢献できる。

これは基礎研究・理論研究を捨てろという提案ではない。臨床のみでは医学は発展しない。工学の基礎には物理学や化学がある。精度のほどは不明だが、最近の経済系院生は、理論を嫌って、実証に走る傾向があるという。理論が魅力を失ったという面もあろうが、就職難の時代ゆえ、挑戦を避けるのだという。それでは社会技術の開発はできない。社会科学が社会の信頼を得ることもできないだろう。

ノーベル賞100周年を記念した展覧会「創造性の文化:個人と環境」において、個人の創造性を生む条件としてまず挙げられたのは、「勇気」「挑戦」「不屈の意思」だったという。安易に流れる風潮に学問の創造はない。逆風の中だからこそ、勇気と挑戦が必要だ。

(しおざわ・よしのり氏は京都大学経営管理大学院・関西経済経営論寄附講座・教授)