企画

今振り返る11月祭の歴史 50周年特別企画

2008.11.17

京都大学11月祭は今年で50回目をむかえる。その節目にあたり、今年のNF特集号では過去の資料などをもとに、これまでの11月祭の軌跡を振り返る。(編集部)

■ 11月祭前史

11月祭のルーツは戦後間もなくの1947年にさかのぼる。この年の10月下旬、京大創立50周年記念祭が行われ、一週間にわたって全学で講演会、演劇、映画上映会、運動会が繰り広げられた。また、理・医・工学部では標本や実験器具などが一般公開された。学生の祭りというよりは、大学と市民の交流の場としての意味合いが強かったようだ。

48年には「京大学生祭」となり、翌年には春・秋の2回にわたり文化祭が開催された。主催は全学自治会同学会で、以降数年間、京大には年2回の文化祭が存在していた。当時は演劇コンクールや講演会、クラシックコンサートなどの催しのほか、美術・写真・社会科学研究会などの展示があった。運動部は不参加で、学生・市民の交流もあまりなかったようである。

51年、文化祭の一環として、当時の丸物百貨店で原爆展が開かれた。朝鮮戦争の最中、平和を市民に訴えようと学生が先頭に立って開催したもので、多くの来場者を迎えた。この頃から、文化祭を通じて社会に働きかけていこうとする学生と、学生の政治化を危惧する大学との間で齟齬が目立つようになっていった。

■ 11月祭の夜明け

54年からはそれまで別個に行なわれていた春季文化祭と大学主催の創立記念式典(6月18日)を学生のための創立記念祭とし、文化祭を「11月祭」と名付けて秋に一本化することになった。「11月祭」という名称は、東京大学の5月祭を意識したものであり、貧弱な京大文化祭を5月祭並の規模に引き上げたいという願いを込めて全学自治会同学会が提案したものである。

しかし、あくまで「高等な文化の祭典」としたい大学側は名称変更に難色を示し、学生の間にも「11月祭」はあまり浸透しなかったようだ。この54年秋の文化祭では、市民や他大学の学生も交えて前夜祭・フォークダンスなどが初めて計画され、大学側は中止を求めたが、これを強行。数年ぶりの盛り上がりをみせた。

■ 学生側と大学側の対立

だが翌55年の創立記念祭について、「厳粛に学内関係だけで行なう」とする滝川京大総長(当時)と、開放的な祭にしてフォークダンスを行なおうとする同学会が対立。6月3日、総長と学生の会見時にトラブルが生じ、学生に暴行を受けたとして総長は警官を学内に導入、学生2人が逮捕され同学会は解散に追い込まれた(京大記念祭事件:戦後の滝川事件)。

当時、滝川総長は学園新聞(現「京都大学新聞」)のインタビューに対し、次のように答えている。「私は何故(文化祭で)”歌と踊り”をやらなければならないのか理解できない。少なくとも”歌と踊り”は学生にとって第一義のものでない。やらなければならないことが他にもあるはずだ………」。

56年、創立記念祭、春季文化祭は禁止された。文化祭主催団体である同学会はなくなったが、京大文化祭準備会が結成された。

■ 同学会再建、「11月祭」の始まり

59年、同学会が再建される。名称も正式に「11月祭」となり第1回が行なわれた。60年からは、応援団が前夜祭、同学会が本祭をそれぞれ運営するようになった。積極的に参加する学生も増え、11月祭の名が浸透していくのもこの頃である。

11月祭として正式に発足して以来、政治的意見を異にする参加団体との軋轢があり、全学的な参加の道を確保するのには困難が伴った。72年から74年の間は、現同学会系と民青系同学会の2つの同学会が並立し、11月祭の主催をめぐって争っていた。この問題は民青系が「同学会」の名称をやめ、「文化サークル連合会(文連)」として参加することで決着がついた。その経験から全国的にも珍しい、決定機関と実務を分担した文化祭運営システムが確立された。

現在、11月祭の主催は11月祭全学実行委員会。この委員会は各学部中間実行委員会、同学会中間実行委員会などからなる、全学一致を原則とした組織である。実行委員会のもとで実際の事務を担当しているのが11月祭事務局である。11月祭事務局は11月祭開催のためだけに存在するサークルで、その性格上、独立と不偏不党を謳っている。

■ 時代を反映する11月祭

11月祭の企画内容には、その時代を見ることができる。

79年、経済学部文化部のガラパゴスプロダクションが画期的な企画・「アンドロギュノスの饗宴」を実施。ゲイの東郷健氏、伊藤文学氏を講演に招き、大いに注目された。

83年は、ニューアカデミズムの爆発した年で、経済学部同好会による糸井重里氏と浅田彰氏、中沢新一氏の講演会では、法経1番教室が1000人の満員となった。それだけでなく、ゴダールの上映会、複雑系経済学の塩沢由典氏の講演など時代を象徴する内容だった。

86年は、今につながる企画が開催されている。高月紘氏による「ごみから見た私たちの生活・第三世界を考える」。東北大学元学長の西澤潤一氏による「独創技術に求められるもの」、チェルノブイリ直後を反映した広瀬隆氏の「原子力とは何か」などがあった。

90年代半ばには、環境問題への意識の高まりから、11月祭環境委員会が結成された。当初は発泡プラスチックの容器を使用しない運動であったが、現在では「洗い皿」を用いることによって、使い捨て容器を使用しない模擬店が増えている。

■ 50年を経てこれから

最近のNFを取り巻く事件として、ミスコン問題・学生部援助の減額問題・統一テーマ問題が挙げられる。

2004年の「ミスター&ミス京大コンテスト」騒動では、企業協賛が1つの論点になった。反対派は容姿による差別・序列化を助長すると指摘し、全学的な話題に。結局はミスコン主催者側に企業スポンサーがついていたことが11月祭の理念である商業目的の禁止に触れるとして中止された。また、議論に応じなかったミスコン企画側の姿勢も非難された。

05年には、構成をほぼ同じくする団体が「京大雅コンテスト2005年」を開催。特に話題を呼ぶことなく、翌年には開催されなかった。

04年には、法人化に伴う経営改革の一環として、京大は事務局への学生部援助減額を持ちかけた。全学実行委員会の下で立ち上げられた学生部援助減額問題対策部会では、事前協議のない一方的な通告であるとして撤回を主張。大学は減額を暫定的に凍結した。

昨年の統一テーマ問題では、投票で1位をとった統一テーマ「超意欲的ニート」が、「ニート」概念の誤用・濫用に基づくものだと指摘された。全学実行委員会では、テーマ決定過程について釈明し、次点の「満喫!モラトリアム。」が新たなテーマとして決定された。

元応援団員・岡本幸治氏が語る11月祭 前史の前史 応援団の結成

私が入学したのは昭和30年(1955年)の事なんですけれども、その年の暮れに野球の東大戦が吉田グラウンドでありましてね、東大の方は応援団があって盛大な応援。でも京大はそんなのが無くてただ、皆ジーっと見ているだけ、そしたら同じ法学部の長って奴が「こんな事じゃあかん」と体育教室に行って笛を取ってきてね、吹きながら「お前ら応援せんかー!!」っていきなり1人でやったのが応援団の始まりなんですよ。

で、その後「こんな状況で良いと思うか?大学として一つにまとまるようなものが必要なんじゃないか?」と応援団を作ろうと長に言われてね、その頃は貧乏でアルバイトもしなきゃいけないし、応援団なんぞやる暇なんか無いな、と思って私は始め断ったんですよ。でも奴は1度断っても2度3度頼みに来てね、私は丁度その頃三国志が愛読書だったんですけど、三願の礼とダブってね。それで入ることにしたんです。

応援団といってもスポーツの応援をするだけじゃなく、京大を一つにする機会を作ろうと、5人程あつまったのですが、やっぱり何が一番困ったかって兎に角金がないんです。大学からもらえる筈もないし、活動費は全額自己負担なんてことになったら、それこそボンボンしか出来なくなってしまう。アルバイトもたかが知れているしさて、どうやって資金を集めるか。

丁度その頃社交ダンスが広がり始めていたんです。そうだ、ダンスパーティーでもすればそこに人が集まるだろう、(そして参加費を取れば収益が取れる!)と思ったんですね。でも大きな問題がありました。女子学生が京大には居なかったんです。せいぜい文学部に2割も居たかなあ… 私の法学部にはたったの1人でしたからね、まだそういう時代だったんですよ。

それで女子大生を呼ばなくては、という事でその頃は東山七条に京都女子大の寮があったんですけど、そこの前に張り込んで門限間際に大挙して帰宅する女学生に向かって勧誘してね、寮母さんに「何してるんだい」って捕まっちゃったんだけど、事情を説明したら「それじゃあ、あたしが学生に周知しておくわ!」って言ってくれたのは嬉しかったなあ。そしたらパーテイ当日には女の方が多くなっちゃってね!相手が居ないじゃないかって女学生から散々言われて…このやり方はあかんな、となったんです。

旧制三高で応援団をやってたOBの人たちが教養部で教官をやってて昼休みとかには学生に「三高の精神を継いでくれ」などと言って寮歌や応援歌などを教えていたんですよ。それで卒業生の方々に「是非とも一高VS三高の再現を」と訴えればイケるか、と思いまして、OB名簿を手にして三高出身者を訪ねて回り個人献金をしてもらうことにしたんです。
関西はもちろんですが、高校は三高でもその後東京帝大に進学された方も多く居ましたから、東京にも1ヵ月半くらい滞在して歩き回りましたね。単位はギリギリ大丈夫と思ってたら実は落としていた、というのがあって留年しちゃったんですけど(笑)もう20万円集めるまでは京都に帰らん!と決意してね。

金を集めるのに高いところに泊まる訳にいかないでしょう、その頃上野なんかには東北とか色んな所から家出少年がやって来ていて、厚生省の外郭団体が補導された少年を親が引き取りに来るまでの一時預かり所を設けていたんですね。丁度応援団の中に高校時代東京に家出してそこに居た事の有る奴がいて「顔が利くから」と、そこに泊まったんですよ。1泊100円だったかなあ、ただノミ・シラミとか害虫がひどい時代でしたから、出入りするときにDDTを吹きかけられたり、部屋にもその匂いが充満したりで、長も「とてもじゃないけどこんな所で飯なんか食えん」って言ってたなあ。

楽器も一部は学校から現物支給があったけど、それではとても足りないでしょう。三高の伝統として吉田神社の太鼓を使う、っていうのがあってまあ、それを踏襲して借りたりしましたねえ。

個人献金も、訪ねても居ないことが往々にしてあって非効率だなあ、とそれで最終的には毎年応援団の会報「団誌」を発行してそこに企業の広告を載せてスポンサー料を取ろう、という事になったんです。まあ、あの頃は今と違って経済も兎に角上向きだったし、のんびりした時代でしたから。「まあ、別に我が社の広告を載せても宣伝価値があるとは思わないけれども、まああ、つきあいですし…」って感じで結構出向してくれましたよ。

「今年東大戦の応援をやります!」と言った以上。何としても応援を成功させる責任がある。お金は集まったので「東大戦の応援に行く者には往復交通費の半額補助!」と銘打って大々的に宣伝をしました。国鉄に掛け合って夜行列車の2両を丸々貸し切ってね。中には応援よりも「安く東京見物に行けるから」というフトドキ者もいたから車中で学歌・応援歌の練習ですよ。それが3回生の夏だったかな。

次の年、4回生の時ですね。京大生が一つになれる機会を作る為、我々が初めて前夜祭に取り組んだのは。その頃は西部講堂の前に小さな池があってその上に舞台を組んで応援団が演舞を披露したりね。今の応援歌もその時学内から募集をして作ったんですよ。京大の応援歌は学生が作ったものなんです。あと、各クラブから出店を出させたり。

最初は応援団の創設そのものにも「卑しくも旧帝国大学にそんなものを…」と大学からの風当たりは物凄くあってねえ、アカデミックと言うか、何というか「じゃあ、東大は大学ではないのですか?」って言ったら黙りましたけれども。

でも、我々がささやかながら始めたことが今でも11月祭の冒頭を飾るイベントとして続いている、というのは嬉しく感慨深くありますよね。まあ、大学にも人生にもああいう盛り上がれる場は年に1度くらいはあっても良いですよね(笑)

《本紙に写真掲載》


おかもと・こうじ氏は京都大学応援団創設メンバー(昭和35年法学部卒・大阪国際大学名誉教授)

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