文化

日々の暮らし方 第4回 正しいナンパの待ち方 〜自然体で、生きる〜

2008.11.17

今回論じるのはいわゆる「ナンパ」であって「難破」ではない。今号は11月祭特集号であって、学祭期間中に難破する人よりもナンパするもしくはされる人のほうが圧倒的に多いと思われるからである。難破については、月刊遭難新聞紙上で昨年度7月から12月号にかけて連載された『21世紀の難破~もはや我々は一人では沈むことすらできない~』に詳しいのだが、同紙を発行していた遭難新聞社は、金融危機の煽りを受け、倒産してしまったため、バックナンバーを入手することは困難と思われる。よって簡単な内容をここで少し述べておきたい。

技術が発達する以前は、船に乗る者にとって、難破は容易に触れうる存在で、船乗りたちはある程度、どこに行けば難破ができるかという情報を共有していた。中には経験が浅くその情報を知らないがゆえに不本意な難破をしたものもあったが、当時難破をするものの大半は、生きている実感を失い、生きるか死ぬかの状況を求めたものだった。人々は生きる実感を求めて難破したのだ。有名な例として、仏僧の鑑真は5度難破を試み、最後の一回で、うっかり日本に来てしまったのである。

ところが、現代では船は容易に沈めなくなった。かつて、そこにいけば、と言われた場所に行っても、もはや難破はできないのだ。そうなると他船との衝突や異常な悪天候をもって難破するしかないのだが、古来から「わざとらしいのはよくない」と船乗りたちの間では言われている。遭難新聞は、綿密な取材を基に具体的な事例をあげ、いかに巧妙に難破者たちがそれを仕組み(注1)、あたかも自然なものであるかのようにしたかを、半年にわたって掲載し続けたのだ。

本題であるナンパの待ち方に戻ろう。最近巷に氾濫しているその手の本を見ると、とにもかくにも人の多いひらけたところで暇そうにすること、もしくはゆっくり歩くことと書かれている。最近の指南書は間違ってはいないが、本質的なところに触れていない向きがある。その本質とは「わざとらしいのはよくない」(注2)ということであり、一昔前の指南書では、まずこのことが書かれていたものだった。

なぜなら、ナンパという言葉は一般に良い印象を持たれていないからである。そのためナンパで知り合ったというのは具合が悪く、たとえ明らかにナンパであってもそうでないかのように装う必要があり、たとえナンパであったことが明らかであっても、当人としてはナンパされるなんて思ってみなかったことにする必要があるのである。

だからといって、人気のないところを早足に歩いていたのでは、声をかけてくる人はいない。この矛盾をどう克服するかがポイントなのだが、この答え自体は難しくない。二つのことを満たせばよい。すなわちナンパされることを意識して人気の多い所で暇そうにしつつ、そのことを意識から消し去ればよいのだ。

しかしながら、これを実践するのは容易ではない。だが、安心してほしい。難しいということは、訓練しだいで可能になるということを意味している。(注3)以下にその具体的な訓練法を記そうと思ったのだが、ここで紙数が尽きてしまった。この訓練法は幅広い分野で用いられるものなので、またの機会に解説しようと思う。

京都大学日々の暮らし方研究会・編



注1:たとえば鑑真は「日本に戒律を伝えに行く」ことを口実に難破しに行ったのである。
注2:難破の場合と偶然にも共通していることだが、これを単なる偶然とみなさず、もともとは難破とナンパは同一の言葉であったとする学説も存在している。
注3:人は訓練しだいで盲腸を動かすことさえできる。盲腸の動かし方に関しては別役実氏の著書『日々の暮らし方』に詳しい。