文化

日々の暮らし方 第3回 正しい金のせびり方 〜金があっての正しい人生〜

2008.11.06

こんなことを言うのは甚だ情けないことなのだけれども、近頃の世間の常識のなさを鑑みると、やっぱりまずこのことを言っておかないといけないのだろう。金をせびるという行為は決して卑しいものではないのだ。昔から立派な人間(注1)ほど金をせびってきたのである。金をせびるってきたからこそ立派だともいえる。金をせびることと人として立派であることは不可分なのだ。

だからといって道ですれ違った人に「ちょー兄ちゃんかねかしてーな」などと言えば、世間的にこれは恐喝とみなされてしまう。なら誰にせびればいいかといえば、我々は学生なのだから、言うまでもなく親にせびればいいのである。

可憐な乙女やイケてる青年なら、知り合いのオトコ、もしくはオンナというのも一つのせびり先かもしれないが、だれしもが可憐だったりイケてたりするわけではないのでこれは普遍的なせびり先とはいえない。第一せびられる、というかおごったり貢いだりする方に悪いではないか。それは例えば可憐な乙女と夕食を共にした後、会計の段になって「いいよいいよ、僕が出しておくから。僕の金は君の金みたいなものじゃないか、愛してるよ」などと気色の悪い笑みを浮かべて金を払っている男を見かけることもあるが、僕の金はあくまで僕の金であって口では気にしないといいつつも、気にならないわけがない。気になる。

では親なら悪くないのかというと、悪くない。というのも君と僕の場合なら二人の所得には大差がない。にもかかわらず僕が諸々の生活費を削って捻出した金で君が贅沢をするというのはなんともやりきれない。くやしい。ちょっとカワイイからって調子乗りやがってクソアマが。でもカワイイんだよな・・・、なんてことになり明らかに僕(注2)が不憫だ。

だが親と子の間は違う。両者の間には大きな所得差がある。加えて進化の過程で人間は親の庇護なしには育たないようになってしまったのだから、親が子に金を渡す(現代においては金が9割型のことを解決する)というのは本質的に正しい生き方なのである。

だからといって、箪笥の中を弄りながら「おやじ~、金くれよ金~。金金金金金丸信って何した人なんだよ。なぁ、おい、おやじ答えろよ」なんて言ってはいけない。たしかに子が親に金をせびっているのだが、この家庭では今後家庭内暴力が深刻化し、家族は崩壊離散、別れた親子が次に顔を合わすのはいずれかの葬儀の場になるだろう。何がいけなかったのか。ひとえに金の受け渡しが含む機微をこの親子は理解していなかったのだ。

まず顔を合わせて金をせびるのは電話の普及以来あまりよくないとされている。そしてあまりにも簡単な結論だがこの電話こそが現代では金をせびる際のベストな選択肢なのだ。手紙やメールがいけないのは、それらが必ず何か明確な要件を持って贈られるものだからである。

そしてここにもう一つの大きなポイントがある。金をせびることを目的としていても、上記の離散親子のようにいきなり本題に入ってはいけないのだ。はじめは何気ない話をしなくてはいけない。そしてある意味でこれは難しいことなのだが、間違っても盛り上がってはいけない。精彩も鷹揚もない話をだらだらと続けなければいけない。そうすると次第に親の方もこちらの意図に感づいて(対面の場合はこの意図が表情などからあまりにも露骨に伝わってしまう)、「ちゃんと飯を食っているのか」とさりげなく金銭の話に誘導してくれるのである(注3)。ここにいたって初めて自らの窮状を話し、金をせびることができるのだ。このように正しい手順を踏むことでもっとも純粋な形の所得の分配が実現するのである。

京都大学日々の暮らし方研究会・編



注1:神に仕える人や政治に携わる人などが代表例。
注2:一応確認しておくが、先に出した例の「僕」である。
注3:この誘導がない場合は、無粋な親を持った己の不幸を嘆くしかない。