今なお揺れる写真とその人生(2008.10.16)

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1978年10月15日、一人の写真家が亡くなった。
彼の名はユージン・スミス。
客観を排し、主観によって真実を追求した写真家として知られた彼の実像とは一体どのようなものだったのか―。

8月5日~9月7日、国立近代美術館(岡崎公園)で「没後30年 W・ユージン・スミス展」が開かれた。これは国立近代美術館が写真集『水俣』の共同制作者、アイリーン・美緒子・スミスさんが厳選して保管しておいたコレクションを買い取って行われた展示である。コレクションの購入は1993年から始まり、現在ではその半数を買い取った。今年の10月15日に迎える没後30年を期に、今回、約280点を展示することとなった。

◇スミスの人生◇


ユージン・スミスは、1918年、カンザス州生まれ。1936年、写真家を志し、ニューヨークへ。1943年に戦争通信員として航空母艦に乗り込み、太平洋地域に派遣される。サイパン、グアム、レイテなどをめぐり、『ライフ』誌上に掲載された。ここから報道写真家として勇名をはせることとなる。

1936年に創刊したグラフ雑誌『ライフ』は、写真と添えられた短文(キャプション)によって一つの物語を作るフォトエッセイという形式を使い、テレビ時代までのアメリカのジャーナリズムをけん引した。この『ライフ』の黄金期がすなわち、スミスが活躍した時代だった。第二次世界大戦を経たスミスは、「私はカメラの向こう側にいたかもしれない」との直観のもと、より人々の生活に密着しながら写真を撮り、《スペインの村》《カントリードクター》《助産婦》などの作品を誌上で発表する。

しかし、《慈悲の人シュヴァイツァー》の掲載内容について編集部と対立。『ライフ』誌から手を引くこととなる。事前に物語を作り、それに沿った写真を配置する『ライフ』側とスミスの間で対立があったためと見られる。

その後、詩的な作品《ピッツバーグ》や《私の窓から時々見ると…》を発表し、1960年代の終わりにはこれまでの仕事を纏めた写真展「Let’s Truth be Prejudice(邦題:真実こそわが友)」を開いた。1971年、写真展に携わった日本人から水俣病の話を聞き、パートナーのアイリーンとともに水俣市月浦に移住して写真を撮った。それらをまとめた《水俣》が、彼の最後の仕事となった。

◇揺れ動く評価◇


ユージン・スミスの写真、そしてその人物の評価は、未だに揺れ動いている。それはスミスが名声を博した時期のひとつ後、1960年代に、相異なる二つの写真観からスミスの写真が語られたためであった。その二つとは、「事実を伝える手段としての写真」と、「自己表現としての写真」という写真観だ。

前者は、ロバート・フランクらが中心となった「ニュージャーナリズム」の流れである。彼らは、より客観的な視点にこだわり、スナップ・ショットで撮影することを信条とした。絵画のように完成した構成を目指したスミスの写真は、彼らにとって時代遅れのものとして写った。また、トリミングや重焼を駆使する手法は、事実を捉える報道写真として反しているとされた。そのような批判に対し、彼自身が写真展のテーマにした「Let’s Truth be Prejudice(邦題:真実こそわが友)」からは、客観的な事実を求めるのではなく、偏見であっても主観的に「真実」に近づきたいという姿勢が伝わってくる。

同じころ、ニューヨーク近代美術館を中心に、写真を自己表現の一つとして審美的に見る流れが始まった。これは、絵画のように完結したものとして写真を見る。フォト・エッセイを基調とする『ライフ』誌のようなグラフ写真は、たんなる「消費のための写真」だと切り捨てるが、その中でもスミスの写真は例外的に優れた作品として評価された。

このような2つの流れをへて、スミスの写真は、「時代遅れ」か「例外」として評価されるようになっていく。60年代に報道写真家として名声を博し、神のように扱われたスミスが、80年代には顧みられなくなってしまった。

◇解釈される人生と写真◇


スミスの写真は、その制作姿勢を形作った彼自身の人生とセットで語られることが、当然ながら多い。例えば、破産して父が死んだ時に新聞に滅茶苦茶を書かれたからジャーナリズムを志したり、第2次世界大戦で「私はカメラの向こう側にいたかも知れない」と思い、客観性を排した写真を撮るようになったり。彼自身が語るそれらのエピソードは、ジャーナリズムの客観・中立報道を批判する目的で現在でもよく引かれる。しかしそれはもはや慣用句と化している。

いっぽう、弱者に寄り添うスミスの姿を、「父」という視点から見てみる。すると、真実を求め続けた写真家、ユージン・スミスとは違った顔が見えてくる。若くして父を失ったスミスは、一家の中で父となることが求められた。彼が被写体とした弱者との関係において、保護するものとしての「父」を自身の裡に見出したとしたら・・・。そんな推測もできる。

スミスの人生は、写真と同様に、私たちの想像をかき立て解釈されるものとしてある。Let’s Truth be Prejudiceという呼びかけは、茶目っ気あふれる彼の、冗談めいた謎かけのようにも思える。

(取材協力:京都国立近代美術館)

見よう見まねで教わった『写真』 写真集『水俣』共同制作者 アイリーン・M・スミスさんに聞く


 彼はどのように被写体と接し、写真を撮っていたのか。写真集『水俣』共同制作者、アイリーン・美緒子・スミスさんに話を聞いた。

―水俣に行く以前からカメラを撮っていたのですか。

(写真展に関わるまで)写真の知識はゼロでした。『水俣』は私にとっては最初の作品だったし、ユージンにとっては最後の作品だった。そんなコンビだったのね。彼に写真を教えてもらったという記憶はない。でも、今から考えると技術論ではなくて、何を言いたいのかとかどういう思いで撮るのか、ということを教わった。

最初にやったことは写真展用の焼き。それも、彼が焼くのをずっと見ていて、ここを焼きこむとか、ここは覆うとか。彼をまねてそのままやって。生まれて初めて焼いた写真が美術館に飾られたから、すごくうれしかったけどね。

大事なのは、おまえは初心者だからとか、今までこの経験しかなければこれしかやってはいけないとか、そんな定義は決してないということだと思う。

―「徹底的に取材をして、関係ができてから撮る」ということを聞いていますが、どのタイミングで撮り始めるのですか。

初めから撮ってた。撮る被写体とのコミュニケーションは「撮っていい」という気持ちを相手が持っているのが大前提だから。それが自然にできていって、できたときに撮るから、タイミングは写真によって違う。。

水俣の写真を撮った写真家はたくさんいたけど、私たちが撮れたのは恵まれていたから。カメラマンの塩田武史さんが住みこんでいて、現地を案内してくれたの。工場や、排水管を回って、知っている患者さんを紹介してくれた。私たちは、患者さんの家族の離れを借りて住んでいて、そこは患者さんが一番多い地区だったから、生活を自然と一緒にするようになった。

最初は3ヶ月滞在する予定だった。彼としては、どこからかエッセイを出そう、という気だったんだと思う。幸い、NYのロフトを畳んできたから、水俣から早く帰らなきゃっていうのはなかった。ちょうどそのころ水俣では、見舞金契約を乗り越える裁判をしていた。座り込みも始まっていたから、これは離れてはいけないし、追っていかなきゃならないと思って残ることになった。

―初めの3ヶ月で撮った写真と、3年かけて撮った写真はどう違うものだと思いますか。

最初の3ヶ月は基本的な、エッセンスとなる写真を撮りました。入浴を撮った写真も、水俣に行ってから4ヶ月目くらいに撮った写真です。

以降は裁判などの出来事を追っていった写真だから、全体像を描くことが重要になった。写真集で伝えたかったことは、何年に何が起きたということではなくて、この水俣という出来事が持つ重み、それをトータルに経験してもらえるように作ったつもり。

―お風呂の写真は2、3年経ってから、だと思っていました。

私たちは上村家の近くに住んでいて、日常生活のつきあいもあった。今から考えると、戦争を経て50歳以上にも見える、日本語も話せないアメリカ人と、20いくつの若い妻。水俣病も分からないし、結婚したてでやってきた。見守ってあげなきゃという気持ちだったんじゃないかな。ユージンは飛んで跳ねていつも遊んでいた人だったし、最後まで日本語話せなかった。おじさんおばさんもけらけら笑って、一緒に踊りましょうっていう人だったから。コミュニティが私たちの過程を見守ってくれたと思います。

3年目には、水俣が生活の基盤になって、水俣で写真展を準備して各地に行きました。ほとんど水俣に住んでる人になってたけど、(ラリー・シラーから写真集の話があって)ロスで仕上げることに。

水俣から離れられなくなっていたけど、私たちの役割は「生活者」ではないし、残るべきではないと思った。水俣の中の人たちは、一生水俣病を抱えなくてはならない。それは休みがないということ。いくら一緒だと思っていてもその経験がない自分たちには永遠に理解することができない。そういう人間が何をできるのか。プロとしての仕事をするために、離れなきゃいけなかったんだと思う。
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あいりーん・みおこ・すみす NGO「グリーン・アクション」代表

《本紙に写真掲載》

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