河合良一郎 名誉教授 「星の友情」(2008.09.16)

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これは京大に勤めていた時に、いろいろな人からよく質問された事ですが「先生は何故京大へ来て数学を勉強しようと思われたのですか」とよく聞かれました。

それに対して、私は大体次の2つの事を答えました。

(1)京都大学の数学教室には、数学を全然勉強しなくてもいくらでも数学の分かる先生が居られるという事を聞いていたので、一度その先生がどんな話をされるのか聴いて見たいと思っていたこと。

それと、当時は「時間」というものをどの様に捉えればよいかという思いが強く、

(2)京都大学の数学科へ行けば、この様なことを教えて下さる偉い先生が居られるのではないかとおもっていたこと。

この(2)については家にアインシュタインの相対性原理の論文の別刷が2冊あり、これは父が持っていましたが、高等学校に入学できた時、これが分かる位に勉強しないと不可いといって父から貰ったものです。これはもともとは祖父がアインシュタインから直接貰ったものでしたが、父は祖父から直接貰ったものだと言っていました。

このアインシュタインの原論文は大変難しく、特に一般相対性原理の論文の方は前半の部分に時間のことが書いてあって、その部分は高等生などにはとても分かるものではなく、そのために(2)の様な問題が後々までずっと持ち越されたものです。

こんなことで入学した京大の数学科でしたが、実際に来て見ると、数学とは言っても枝葉末節の計算技術の如きものを教える演習の時間が大変多くウンザリでした。

(1)の先生は数論の講義を担当して居られましたが、数論は2回生にならないと聴けないので、姿を見たことはありませんでした。

数学教室はこんな状態でしたが、一人だけ例外の先生が居られました。それは微分積分学の講座を担当して居られた岡村博先生で、この(1)(2)の答に対して、「ウーン、私は今までそんな事は考えたことがなかったなあ。これからよく考えて見ることにするから」と言われ、(1)(2)あるいはもう少し広くこれに関連する話を折りに触れてして下さる様になりました。この様な話は、大学の研究室でされた事もありましたが、「家まで来い」と言われて、お宅の書斎でなされたこともあります。

この岡村博先生というのは当時は実変数函数論が専門と聞いて居りましたが、私は「これから整数論の研究をやろうと思っている。君、一足先にそれをやっておいて呉れんか」と言って、卒業の少し前に私を母校の数学のピンチヒッターとして推薦して下さいました。その後、ずっと京都大学にいる様になったのは実はこの様ないきさつによります。

さて、この岡村博先生の言われた新しい整数論研究の準備ですが、これは先生からこの話を聞いた後すぐに始めましたが、これは大変なことでした。それは先生からこの話を聞いたのは昭和19年のことでしたが、教室に来ている文献はすでに昭和16年頃から全面的にストップして居り、戦争中の世界の情勢は全く分からなかったからです。紹介して貰って東京大学にも行きましたが、いろいろ聞いて見ると、ここも大体同じ様なことで、整数論の研究では、昭和13年に出たドイツのジーゲルという先生の書かれた論文がもっとも新しい論文という事で、セミナーでは、この論文を読み乍ら将来の方向を検討しているといった話でした。

このジーゲル先生の論文は京都大学にもあったので、それを書き写し乍ら、それについて考えて見ることにしましたが、これは大論文で、その内容ももう一つよく分からなかったです。そうしている中に昭和20年になり、戦争も終わりました。それと悪いことに、岡村博先生も戦争中の栄養失調が祟って翌昭和21年の夏に亡くなって終いました。

しかし、この整数論研究の方向を見出すという仕事は止めるわけには行かないので、思い切ってジーゲル先生に手紙を書き、この大論文の続きの論文があれば、別刷を一部送って欲しいと頼むことにいたしました。当時、ジーゲル先生はアメリカのプリンストン大学に居られましたので、手紙はそこへ出しました。これは、ジーゲル先生という方がどんな方かも全く分からないし、賭けの様なものでした。しかし、ジーゲル先生は、考えていたよりはずっと親切な先生でした。私の手紙に対して論文の別刷を送って下さっただけでなく、非常に丁寧な手紙がついていて、整数論研究の将来に関して「現在は虚数乗法論の解析的研究という分野が一番遅れているので、そこをやって貰うと大変有難い」と書かれて居り、そこをやるために必要な論文もいくつか挙げられていました。

これは全く予期していなかった事ですが、このジーゲル先生の論文の別刷と、オリエンテーションの手紙は大変有難く、この方向で考えて行けば戦争中の空白は埋まると考えられるに至りました。

さて、最初に挙げた問題(1)(2)に戻ることにいたしますが、これも全く偶然の事情によって解決し、問題はなくなりました。
 
これは昭和27年から昭和29年にかけての事ですが、京大の建築学科の大学院にハインリッヒ・エンゲルさんという方が居り、ドイツ語会話のレッスンをやっているというニュースを聞きましたので、それにも参加することにいたしました。何せ私は戦争中の学生ですからドイツ語のクラスではあったもののドイツ語の学力がもう一つという所があって、この機会にドイツ語をもう一度やり直して戦争中の学力不足を取り戻しておきたいと考えたからです。ところがこのドイツ語会話のレッスンには、短い時間ではあるのですが、ドイツ語である纏った考えを述べなければならないという課題があって、このための勉強は別にしなければなりませんでした。そのための資料をと思って、ある日丸善に行き、書棚を探して居りますと、偶然、3冊本のニーチェ全集が目に止まったので早速買って帰りました。これならば何とか読めるだろうと思って買ったものです。当時、組みし易いと見た「悦ばしき知識」「善悪の彼岸」「道徳の系譜」などを拾い読みして、これらは確かにドイツ語会話のレッスンに役立ちました。

この事とは別に、ここに挙げたニーチェの著作は、その後何回も繰り返して読みましたがこれは何と言っても哲学の書であり、我々が物事を考えて行く場合に何処に全体重をかけて考えて行けばよいかが非常に明快な調子で書かれて居りました。こんな事で(2)に述べた時間をどの様に考えて行けばよいかとういう問題もこのニーチェの導きによって確信を以て理解できる様になり、アインシュタインの一般相対性理論の論文に書かれている事も問題なく分かる様になり大変有難かったです。

昭和29年に入ると間もなく、エンゲルさんは研究のためにアメリカへ行くことになってドイツ語のレッスンはなくなりましたが、これと入れ代りに理学部で岡潔先生のセミナーを聞く話がもち上り、暇そうにしているからという理由で、その雑用係をやって呉れんかと頼まれました。今さら多変数函数論の研究などやる気はなかったのですが、何回も呼び出されて頼まれたので、雑用係だけという条件で引き受けました。

岡潔先生にはそれまで会った事はなかったのですが、そのセミナーの打ち合わせの時、先生はまず「君は何故、この京都大学で数学を勉強しようと思うようになりましたか」と質問されました。私の答は、(1)(2)と決まっていたのですが、(2)の様にアインシュタインの論文のことを言うと先生は感情を害される恐れがあったので、もう少し無難な

(‘2)「私は時間というものに大変興味があり、時間のことをそこはかとなく考えるのが好きで、京都大学ならばこれについて教えて呉れる先生が居られるのではないかという淡い期待があったからです」

と答えました。

これに対して、先生は暫く考えて居られましたが、「君は怠け者やなあ。何もしないでいて数学がいくらでも分かるという様なことはないと思うよ」と言ってハハハ…と笑われました。(‘2)の時間については、期待していたのですが、何も言われませんでした。

さて、この岡潔先生のセミナーが始まって間もなくの頃のことですが、ジーゲル先生が日本にやって来られました。理学部の教授室でお会いしましたが、そこでの話の最後に奈良の岡潔先生に是非会いたいと思っているので案内して欲しいと思っているので案内して欲しいと頼まれました。それで急遽、東京大学の弥永先生と一緒に奈良まで案内することになりました。会見は奈良ホテルで行はれることになり、翌日、我々は先生と一緒に車で奈良まで行きました。

この奈良での会見の前後には時間があり、ジーゲル先生とも直接に今までの虚数乗法論の研究の経過などをお話しすることが出来ました。インドへの留学が実現したのは、この時にジーゲル先生に話した事が縁になってのことです。今話した様な内容の話を今度インドで開かれる学会でも話して欲しいと頼まれました。実際にこの学会が開かれるのは昭和35年1月でしたが、その頃日本はまだ戦後の状態で、1ドル360円の固定レートで100ドル以上の外貨は一般には使えない事になっていましたので、これは誰かがその費用を全部出して呉れるのでなければ実現できないことでした。これは私にはどうにもならないことでしたので、総べては京都大学に委す外はない事でした。この時、どの様な交渉がなされたか、私には全く分かりませんでしたが、私の渡航費・滞在費などの費用は総べてタタ研究所が負担し、その代わりに私が2ヶ月間研究所の所員として働いたことにして、その給料の中から費用を払うという事で話が纏った模様でした。

こんな事で、航空券も送られて来たので、決められた日に羽田から飛行機に乗って出発し、ともかくもボンベイまで行きました。

実際に来て見て、インドの情景は総べてが日本とは余りにも違って驚きでした。太陽の光は金色を帯びていて、日本で日本で見る太陽の光とは全く違いました。その金色の太陽の光を浴びて輝く街の姿、道行く人々の姿に別世界を感じました。それと大変暑い国でした。そのために大抵の人々の活動の時間帯が夕方の4時頃から夜中の3時頃までということになっていました。ホテルの様な所はインドの中では例外的な所で、ヨーロッパ時間で運営されているのですが、これはその外で使はれているインドの時間と合わないという事がありました。そのために朝食後、午前中は何もすることがないので、街を写生したり、郊外へ出てそのあたりの写生などをしました。また夕食後は海岸へ出て涼むという事になりました。しかし、ここで見たインドの夜空は日本で見る夜空とは大変違い、じかに宇宙空間を見通しているといった感じがいたしました。海岸で、インドの夜空を眺めていると、その時タタ研究所の所長をして居られたバーバー先生からお聞きした古代インドの天文学や数学の話もここでは極く自然な考え方である様に思えましたし、また私に時間について色々教えて呉れたニーチェやヘーゲルもあそこにいるなあといった感じもいたしました。また京都大学についても、あそこは寛容な奥の深い、いい大学であったなあという事もその遠くに感じました。そうして、こんな感じは今も全く変わっていません。

(かわい・りょういちろう 京都大学名誉教授)

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