文化

障害者として、尊厳ある人間として生きる

2008.08.08

皆さんは障害者と日常で接する機会があるだろうか。ここ左京区には重度脳性まひ※1の障害を抱えながらも、京大生を中心とする介護者の支援によって自立した生活を送っている女性がいる。佐々佳子さん(54)の生き方を追った。(魚)




「アサヒ(近所のラーメン屋)に行きたい」取材に来た記者を尻目にそう佐々さんが指示すると、介護者の学生は「あ、ラーメンが食べたいんですね」とごく当たり前の調子で車椅子をUターンさせる。

私はとまどっていた。それまで障害者と言えば弱者の立場であり、 介護者に対して何事も「ありがとうございます」と従うものと考えていたからである。しかし彼女は介護者を自分の1手足の代わりのように使っていく…。

介護は基本的に8時20分~12時、12時~17時、17時~21時、21時~翌朝8時20分の4交代制であり、交代の合間にトイレの時間が入る(これは必ず女性の介護者が行う事になっている)。朝の起床は若干遅め。昼には散歩に出たり、ショッピングに出たり、病院に行ったり。食事は惣菜を買ったり、熊野寮の食堂で済ます事が多いが、この日のように外食や、自ら介護者に指示を出し、食べたいものを作ってもらうこともあるという。

入浴後は直ぐに寝る事が多い。自家漬けの梅酒が好きなのだが、最近は薬との関係から飲むのを控えているそうだ。その代わりケータイの占いサイトチェキが毎日の日課になっているとか。こう書いていると健常者となんら変わりのない生活をしているように見えるが、この活動全てを介護者が支えているのである。娘と息子はいるが、「親が障害者である以上、子供が必ず介護をしなければならない」という風潮はおかしい、子には子の主体性がある、との考えから、一人暮らしを貫いている。

「買い物…」ラーメンと餃子を平らげた佐々さん、時刻は既に夜の10時を回っているが今度は買い物に行きたがる。すぐ近くのファミリーマートに行くもお目当ての品は見つからない様子で「あっち、あっち」と数百メートル離れたショップ99への移動を指示。「シール…」と言うので文房具がほしいのかな?と思っているといきなり衣料品コーナーを指差し、「あっちあっち」と猛烈な指示。どうやらシールとはいってもズボン用のアップリケが欲しかったようで、「このハートのがイイ。ハートだけ欲しい」とサンリオのアップリケを手に取り満足げな表情。(こんな夜ふけにアップリケかい…)と半ば呆れてしまった。

介護者も「いつもはこんなに夜行動する事は無いんですけどね…」。苦笑するも、基本的に介護者が佐々さんの要求を拒む事はない。余りにも自分勝手ではないかとも感じられたが、よくよく考えてみれば私自身、気まぐれで突然夜中にコンビニに行こうと思い立つ事もあるし、そうした突拍子も無い行動はむしろ人間にとって自然な事ではないだろうか。自力で動けないからと言って、それはガマンしろ、介護してやってるだけでも有難いことなのだから自重しなさい、という方がむしろ理不尽なのかもしれない。そう考えているうちに「眠い、帰る!」そう言い残し佐々さんは介護者を引き連れ夜の街に消えていった。

「初めは単なるボランティアのつもりだったけど、次第に福祉というよりもむしろ人間とは、運命とはなんだろうって考えさせられて、むしろこっち(介護者)の方が佐々さんに学ばせてもらうものが多いな」。同じく介護者を務める別の学生は語る。介護者の側も活動を通して感じるものは多いようだ。ただ、現在は介護者の数が不足気味で中には毎日のようにシフトに入っている人も居るといい、「ぜひ介護者になってもらいたい」とのこと。

京都市障害保健福祉課によると、重度の身体障害者手帳交付者は市内に1万6094人いるが、佐々さんのように施設や行政サービスに頼らず、ボランティアの支援のみで自立した生活を送る障害者に関しては「そもそも行政のサービスを一切受けない人の動向を行政が把握する事は難しい」とのことで、その実情はよく分かっていない。

―佐々さんの生い立ちを教えて欲しいのですが。

物心付いたときにはもう脳性まひの状態だった。5歳の時施設に入ったけど、お金もしんどくて9歳の時には出た。その後1年はずっと学校に行けず京都の家の中、(室内で)妹と遊ぶだけ。1年半がたって養護学校に通う事になった。18歳の時までいたけど(普通より)入るのが3年遅かったから中卒の扱い。その後別の養護学校にまた3年通って21歳で高等部を卒業。今は職業訓練がメインらしいけど、あの頃は国数英と普通の勉強が中心だったよ。ただトイレの訓練は徹底的にやらされたね。トイレに行く時間が決まっていたのがしんどかったな。施設の人は押しつげがましいんだ。しかも「あんたは一生施設で過ごすんだ」って言われた。他にも嫌な事はあったけど言いとうないわ。

―障害者運動にも積極的に関わられたそうですが。

養護学校を卒業した後また別の職業訓練施設に通っていた。毎日紙を破って糊で貼り付ける、ちぎり絵作業だけ。ある日「青い芝の会(※2)」から家に手紙が来て、それがきっかけで22歳の12月に施設を止めて青い芝に入った。その時の会合で生まれて初めてお酒を飲んだけど全然美味しくなかったね。青い芝では、他の家に引きこもりがちな障害者の所に行って色々話を聞いたり、一緒に外に出ようって誘ったり、あとは今の障害児教育には問題が多いって話になって、障害者の教師を育てようって運動もやったね…まあ、これは団体の事情で取り止めになったけど。学生ボランティアの自立支援を受けるようになったのもこの頃からだね。

 (そんな事より旦那《故人》との出逢いを話したい、と自分から語り始める)

介護者が必要だから同志社大学の「障害者解放研究会」に頼みに行ったの。その時は「出来ません」って断られたんだけど、2回目に行ったら代表の人が代わってて「団体としては出来ないけど僕が個人として介護するのはいいですよ」と言ってくれたの。その人が今の旦那、他の介護者とはしょっちゅう揉めて辞めていった人も多かったけど、(彼とは)信頼があったというか…結婚式は熊野寮の食堂でやったんだよ。

―障害者の自立、という言葉が良くも悪くも叫ばれています。

ただ、私はこの健常者文明と闘っているつもり。障害の有る無しに関わらず人間が交わって生きていける社会になって欲しい。障害者自立支援法も中身はただの障害者切り捨てで酷いけど、自立すること自体は大事。福祉は恩恵でしかない。(恩恵の)福祉か自立かと聞かれたら自立を選ぶでしょ。介護とは違っても障害者の人と付き合ってみたらいいと思う。重度の人は別として、障害者との関係が介護だけというのはおかしいね。

―今の生活は楽しいですか。

今の生活は楽しくは無い、でも面白いね。自分の考えている事が周りの人に伝わらないのはしょっちゅうでそういう時はすごく苦しいけども、好きな人のことを考えるときはもう最高!
 
―ありがとうございました。

佐々さんの介護活動に興味のある方は西納さん(090・2090・4982)まで




※1脳性まひ
受精から生後4週間までに何らかの原因で起きた脳の損傷によって引き起こされる後天性の運動機能障害。佐々さんはその中でも、知識は特に問題は無いが、身体を自分の意思で自由に動かす事ができないアテトーゼ型。

※2青い芝の会
1957年に結成された脳性まひの障害者団体。障害者自らが権利を求める運動は当時としては珍しく注目を集めた。中心メンバーだった横塚晃一氏(故人)の著作「母よ殺すな」が昨年復刊された。



《本紙に写真掲載》