複眼時評

藤原辰史 人文科学研究所准教授「苦手な理由」

2021.11.01

苦手なものは何かと問われれば、次の三つが真っ先に頭に浮かぶ。

第一に、空港で荷物チェックをするあの空間である。複数の手荷物、腕時計、携帯電話などをトレイに置く作業だけでげんなりするのに、バッグからパソコンや液体の入った容器を取り出して、場合によってはベルトを外したり靴を脱いだりして、ベルトコンベアに載せなければならない。バッグの中身が透視され、ちょっとでも疑わしいものがあれば、中身を出せと言われる。ゲートを通って機械音がすると、全身を調べられる。私はいつもモタモタする。後ろの人たちの目線も気になる。ベルトを付け直すのに精一杯で財布を忘れたことがあるくらい、私はあの場所から逃げたくてたまらなくなる。

その理由のかなりの部分は私のどんくさい性格によるのかもしれないが、そもそもベルトコンベア式に処理されていくあの感覚に違和感を抱かない人は少ないだろう。ナチスの強制収容所の跡地を見学するたびに心が凍るのは、青酸ガスによる陰惨な虐殺それ自体というよりは、それを平然かつ整然と執り行うシステムの有り様である。

第二に、国語の選択問題である。京都大学に入学できたのは国語の問題に選択肢がなかったからだと今でも信じている。「次の五つの文のうち著者が言いたいことを一つ選びなさい」と言われても、一つに絞ることができない。ほかの選択肢が可哀想に思えてくる。自分の文章の入試問題でさえ、「著者」は自分なのに、選択ができなかったことがたびたびある。最近増えている研究者倫理や情報倫理について試すテストも本当に苦手で、毎回、貴重な研究時間がどんどん失われていくことに耐えられない。「理解すること」と「選択すること」は根源的に異なるはずなのに、いつの間にか混同されている社会は居心地が悪い。

第三に、競争資金を獲得するために自分をアピールする文章の作成である。申請書に自分の欠点を書きたくなる。ここがダメな人間なんです、でももしかしたらここのあたりはちょっと頑張れるかもしれません、という文章のテンションでは通らないことはわかっている。ただ、自分の弱い点や劣っている点に目を向けないで文章を書くことほど、精神を参らせるものはない。「インパクトのある雑誌」に掲載されたことを、さも大将の首をとったかのように書くことが恥ずかしくたまらない。私は、世間でそれほどインパクトのない雑誌に無数の雑文を書き散らしてきた。ホッチキスとめの手作り同人誌に書くエッセイと専門雑誌に書く論文に、私はいつも同じくらいの労力を割いてきた。これと似ているが、過去の負の歴史を度外視して、幸福感に包まれながら、良い点ばかりをアピールする人や団体や国も苦手である。

最近、以上のような私が忌避したくてたまらないことが、京都大学で急増している。

京都大学が空港の出発ゲートのような厳戒態勢になることは、京都大学の知の羽ばたきを抑制しこそすれ、促進してはくれない。京都大学の研究倫理が選択テストで高まると信じているふりをするのは、そもそも倫理的な態度ではないし、京都大学が戦争や植民地経営で果たしてしまった役割を検討するのではなく、フタをしてしまうようなあり方は知的態度とはいえない。

学生や職員や教員が「人財」として処理されず、管理監視体制というベルトコンベアに載せられることなく、「ひとりひとりの構成員の尊厳は守らなければならない」と合意されている大学は、どんなに居心地が良いだろうか。一つの問い、一つの答え、一つの目的に縛られない研究や教育を許容してくれる大学では、どれほど心が自由になるだろうか。競争に追い立てられるのではなく、世界大学ランキングなど学問の本質と何らかかわりがないとはっきり宣言する大学は、他国の少なからぬ研究者にとってどれほど魅力的に映るだろうか。過去の歴史を深く見つめた上で、その過去と対峙できる知性を自己のアピールに変えられる大学は、どれほど知的な場所だろうか。

現在の京都大学は私にとって苦手な大学になりつつあるが、それはおそらく私個人の性格の問題だけではないはずだと信じたい。

(ふじはら・たつし 人文科学研究所准教授。専門は農業史・ドイツ現代史)