企画

読書の秋 ふれて選ぶ、古書の魅力

2021.10.16

オンライン書店を経営するAmazonが、取次業者を介さず、出版社と直接に書籍の取引を始めた。これまで本に求めてきた情報がインターネット上に転がっていることもあるなかで、書籍の今後の在り方が問われている。

本をインターネットで注文することができる今日、本屋に行って雑多な本棚から本を探す、という行為を忘れてしまっていないだろうか。新しい情報に目がいって、遠い過去からの語りかけに耳を塞いではいないか。

古本屋に行って、あてもなく本を探し、本を買う。読書の秋、そんな本との付き合い方の魅力を再発見すべく、編集員に京都の古本屋をめぐってもらい、その場で出会った書籍の紹介をしてもらった。この企画が少しでも、書籍と私たちの関係性を見つめ直すきっかけになることを望む。(編集部)

目次

    浄土寺 古書善行堂
    東山二条 中井書房
    吉田山 朋友書店
    一乗寺 萩書房Ⅱ
    御所南 レティシア書房
    浄土寺 ホホホ座
    一乗寺 マヤルカ古書店
    一乗寺 紫陽書院
    浄土寺 竹岡書店
    御所南  京都まちなか古本市
    おわりに

浄土寺 古書善行堂

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【木製のワゴンと引き戸があたたかく客を迎える】



古書善行堂は、白川通今出川の交差点から西へ、今出川通を3分ほど歩いた場所にある。青地に白抜きで書かれた分かりやすい「古書善行堂」の看板と温かみのある木製の引き戸が相まって、硬派な古書店の雰囲気を残しながら入りにくさを感じさせない店構えになっている。

奥に長い形の店内は、木目調の壁や本棚に暖色のライトがあたり、少し雑然とした本の並びがむしろ心を落ち着かせる空間であった。本棚の奥ではレコードが回り、大人っぽいジャズの音が部屋を包んでいる。蔵書に目を向けると、店内にある本の3分の2以上を占めるのではないかというくらい文庫本が豊富であった。国内外の文学作品を除くと昭和から平成初期のエッセイや評論がやや多い印象で、出版社別では岩波文庫の多さに圧倒された。一方ハードカバーの棚には、文学作品、映画や劇に関する書籍、カルチャー雑誌に並んで、茶色く日焼けした厳かな雰囲気の古書たちも揃っている。また、二階へと続く階段が辞書に埋もれ、本棚の一部のように活用されているのもユニークであった。

小さな店内には古本の知的な匂いと店主のこだわりが詰まっていて、魅力が尽きない。考え事ついでにふらっと訪れて背表紙を眺めながら考えを練り上げるもよし、棚と棚の隙間に挟まって飽きるまで未知の本との出会いを探すもよし、大人な雰囲気の店内で渋くて気さくな店主との会話を楽しむもよし。ぜひ店舗を訪れて、自分なりの楽しみ方を見つけてほしい。

善行堂書店では、トルーマン・カポーティの『あるクリスマス』を購入した。1989年発行の単行本で、華やかだがどこかアンニュイな雰囲気の表紙が印象的である。本作は、アメリカ南部の田舎町アラバマに住む少年バディーが、ニュー・オーリンズに滞在する父の元を尋ねてクリスマスの一夜を過ごす物語だ。しかし、それは決して幸せなクリスマスではない。神の御心を信じサンタの実在を信じ、裸足でアラバマの自然の中を駆け回っていた無垢な少年が、街の大人たちの共有する虚しい現実を知ってしまう経験である。そして、現実を知ったバディーは、過去の無知で幸福だった自分には戻ることができない。カポーティ最後の作品である本作は、現実を知り社会に適応して生きていくことの悲哀を感じさせる名作である。(桃)

善行堂書店
京都市左京区浄土寺西田町82の2
『あるクリスマス』
1989年 文藝春秋 トルーマン・カポーティ

東山二条 中井書房

nakai.JPG【気軽に立ち寄れる中井書房】

中井書房は、東山二条・岡崎公園口の停留所から徒歩5分程度の場所にある。京大から歩いて行くことも出来る距離である。

店内は本が所狭しと並べられているが、通路は広く、ゆっくりと本を探すことができる。和本・古文書・美術書から一般書まで取り揃えており、ほかではあまり見ることのない貴重な本で溢れている。語学の勉強本や辞書など学生に嬉しいラインナップも多く、目当ての本を決めて来店するのもよいが、ひとたび足を踏み入れた途端に面白そうな本の数々に興味を引かれ、当初の目的を忘れてしまうかもしれない。

たくさんの魅力的な本の中でようやく選んだ一冊は、武者小路実篤の『畫をかく喜び』だ。『友情』などで有名な武者小路実篤が絵を描くことについて述べた本で、彼が描いた絵画作品が写真と共にたくさん紹介されている。表紙には彼の描いた花の絵が載せてあり、題名も活字ではなく彼の書いた字をそのまま印刷したものである。メモ書きのような原稿を除いて、文豪の手蹟を見る機会はそうそうないだろう。

さて、これは実篤がまだ存命の1957年に発行された本で、実篤は本の最後で「この本を一段階として、もっと前進したい」と述べており、彼が生きているという感覚がありありと残っているのがあまりにも魅力的である。

この本で紹介されている実篤の絵は、小説にも見られる彼らしさが存分に表れている。絵画作品を残したという点が共通する芥川龍之介は、小説『河童』などに見られる鬱々とした雰囲気が絵にも表れており、我々が文豪と聞いて思い浮かべるのはこういった鬱々とした魅力であることが多いだろう。しかし実篤はそのイメージとは真反対で、人間肯定に溢れる彼の作品の明るい魅力は絵にも表れている。彼の言葉と絵は非常に心地よい。

「貝は死んでも貝殻を残す見る人美しと言ふ也」。実篤が残した言葉である。この言葉通り、今は亡き実篤が残した作品の数々が現代の我々の心を動かしている。(滝)

中井書房
京都市左京区二条川端東入新車屋163
『畫をかく喜び』
1957年 創元社 武者小路実篤

吉田山 朋友書店

百万遍から東にしばらく自転車を漕ぎ、吉田山に入る若干の坂道を登ったところに朋友書店はある。店舗は一軒家程度で広さはないが、代わりに高さ3㍍はあろうかという書棚にとにかく本が詰め込まれていた。脚立に上らなければ届かない高さまで本が詰まっているのを見たのは久しぶりで、思わず興奮して予定より長く滞在してしまった。途中で納品のトラックがやってきて、店員と話しているのが耳に入ってきた。どこかの大学の教科書も販売しているらしく、「授業」とか「準備」とかいった言葉が聞こえてきた。私の地元で本屋といえば大規模なチェーン店しかなかったから、こうして業務上の連絡まで客に聞こえるような店の雰囲気は新鮮だった。

扱う本のジャンルは東アジア。中でも古代から現代までの中国に関連する書籍がメインで、中国語で書かれた古めかしい書籍が棚の半分ほどを占めていた。日本語の商品では、中国の他にモンゴル、朝鮮半島、日本の歴史研究書や、それぞれの文化・経済に関する一般書、言語学習用参考書などがあった。

ところで、現代中国といえば、上海や北京のような、平地の大都市で光景を思い浮かべる人は多いのではないだろうか。しかし中国は広い。人も多い。世界3位の面積を構成するのは平野よりも山地の方が多く、国民の1割とされる少数民族も数にすれば合計1億を超える。彼らは近代国家という仕組みの中では後景に押しやられていても、独自の歴史を持ち、確かに存在している。私は以前からそうした少数民族の社会や生活に興味があり、今回は「チベット」という文字が目について『闘うチベット文学黒狐の谷』を購入した。この本は現代チベット文学を代表する作家、ツェラン・トンドゥプ氏の翻訳作品集である。チベット文学を読むのは初めてだったが、収録されている短編・中編は単純に物語として面白いばかりではなく、所々で社会風刺や、異文化の意外でリアルな描写があり読んでいて飽きが来ない。日本であまり紹介されていないだけで、優れた文学は国内や欧米のみならず、世界の至る所にあることを思い知らされる読書体験だった。(艇)

朋友書店
京都市左京区吉田神楽岡町8
『闘うチベット文学 黒狐の谷』
2017年 勉誠出版 ツェラン・トンドゥプ

一乗寺 萩書房Ⅱ

秋の夕暮れに、一乗寺を歩いていた。時刻は6時、ラーメンの濃厚な香りがマスク越しに「私を食べて!」と訴えかけてくるが、お目当ては萩書房Ⅱ。古本屋だ。

店内に入るとまず目にするのが、ずらりと並んだ100円均一の文庫本の棚。90年代の音楽雑誌や映画雑誌、漫画も取り揃えてあった。今は亡き手塚治虫や藤子・F・不二雄の漫画が掲載されている雑誌を目にすると、時代の流れをひしひしと感じる。また当時は300円もせずに購入できた雑誌が、プレミアがついた結果3千円ほどで売り買いされている光景はなんとも愉快だ。ちなみにこの萩書房Ⅱ、鞍馬口にある同名の古書店とは親子店の関係にあるそうで、なるほど置かれている雑誌の種類が共通しているようにも見えた。

購入したのは、『新聞記者斎藤信也』。1990年に発刊された書籍で、朝日新聞で戦前は従軍記者として、戦後には夕刊に掲載される短評欄「素粒子」の主な執筆者として名を馳せた斎藤氏の遺稿追悼集だ。この本を選んだのは、大学新聞の記者として、先人から一つでも多くのことを学ぼうという一心からだった。彼の同僚や、生前の彼と親交のあった各界の著名人による追悼文はどれも名文ばかりで、見ず知らずの私にも、在りし日の斎藤氏の姿が目に浮かぶ。頑固で、酒飲みで、でも娘が可愛くてしょうがない斎藤氏。憎めない性格を活かし、朝日新聞の記者としてさまざまな場所で記事のネタをもぎ取ってくる斎藤氏。友人らが故人をしのんだ座談会も収録しており、そこからは斎藤氏が周囲の人をかき回す嵐のような人だったこともわかる。

この書籍が30年前に発行したことを考えれば、本書に寄稿文を寄せている斎藤氏の友人たちも今は亡い人が多いだろう。それでも私は時を越え空間を越え、彼らと、そして斎藤氏と対話することができた。これもまた古本の魅力ではなかろうか。(航)

萩書房
京都市左京区一乗寺里ノ西町91の3
『新聞記者 斎藤信也』
1990年 素朴社 斉藤信也遺稿追悼集編集委員会

御所南 レティシア書房

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【住宅街にやわらかくたたずむ】



京都御所を南に下った閑静な住宅街の中にあるレティシア書房は、親子連れでも楽しめそうな、柔らかな雰囲気の店構えだ。大型の新刊書店に勤務していた店主が、こだわりを持って集めた本が並ぶ。そのジャンルは日本や海外の文学作品、絵本やコミックなど幅広く、新刊と古本が入り混じる書棚はいくら眺めていても飽きることはない。さらに特徴的なのは、さまざまなリトルプレスを取り扱っている点だ。これは個人や団体が制作から流通までをてがけた少部数発行の出版物のことで、一般的な書店ではなかなか出会えない本ばかりである。店内にはギャラリースペースもあり、かわいらしい版画を眺めながら、店主と常連客らしき人々が話に花を咲かせていた。ここでしか出会えない本が必ずある。ぜひ一度訪ねていただきたい。

コミック関係の書棚を眺めていると、『怪感旅行』の4文字が目に飛び込んできた。その奇抜さに惹かれて手に取れば、どうやら水木しげるのエッセイ集らしい。子どものころ読んだ『ゲゲゲの鬼太郎』を思い出して懐かしくなり、レジへと向かった。

文庫本で10ページ弱の、短いエッセイが22編つづられている。鬼太郎にも登場した「ぬらりひょん」「さざえ鬼」など、個別の妖怪の話もあれば、「死者の招き」「霊魂の世界」といった、ある種抽象的な「怪」の話までさまざまだ。一貫して魅力的なのは、水木しげるの紡ぐ文の筆致である。ざしきわらしの出る部屋で感じた胸騒ぎ、ある神社で感じた充足感。多種多様な「怪」が、驚くほど豊かな情感を持って胸に迫ってくる。かと思えば、「妖怪なんて一生に一度会えるかどうかというシロモノなんだ」と言い切ってしまう小気味よさもある。どこか冷めた目を持ちつつも、彼はやはり全身で、「怪しい」ものたちの存在を感じ取っていたのだろう。日に焼けたページに現れる彼の挿絵の迫力は、水木しげるその人の感受性の鋭さを、はっきりと物語っていた。(凡)

レティシア書房
京都市中京区瓦町551
『怪感旅行』 
2001年 中央公論新社 水木しげる

浄土寺 ホホホ座

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【あたたかな照明が惹きつける】



白川通から小さな路地に入ると、鮮やかな青い壁の小さな古本屋が目に留まる。ここがホホホ座の浄土寺センターで、1階は古書店、2階は宿という一風変わった取り合わせの店舗だ。

ホホホ座とは、かつて北白川で名物書店として評判を得ていた「ガケ書房」が、店舗名を新たに浄土寺に移転した書店である。浄土寺センターの斜め前にある浄土寺店は「やたら本の多いお土産屋」をうたい、新刊を取り扱っている。京都を取り上げた多種多様な雑誌に絵本や文芸書、独特の雑貨がずらりと並ぶ店内はえもいわれぬ魅力がある。そして浄土寺センターは落ち着いた雰囲気が漂っており、小説や新書はもちろん、料理やアートなど幅広いジャンルの古本がそろっている。規模や店構えも含めて親しみやすく、古書店など敷居が高いと思っている人にこそ、すすめたい店だ。

『短編小説礼賛』、この字面で蘇ったのは受験勉強の記憶である。2015年の京大入試に出題されており、ルナールの短編集『にんじん』についてつづられた過去問には悩まされた。予備校の現代文講師の前でかいた冷や汗が懐かしく、これも縁かと棚から引っ張り出す。こんな名著が200円で買えるのだから古書店はすごい。

7章立てで、それぞれひとりかふたりほどの作家に焦点を当てている。まずはルナールについての章を読み返そうと目次を開くと、国木田独歩の名を見つけて驚いた。私が最も敬愛する作家だ。『春の鳥』という短編を取り上げ、舞台となった大分県佐伯市に足を運んだ経験を語っている。「われわれが自然の景色をちゃんと見ているのは、自分の足で歩くときだけである」。以前、同じく独歩に魅せられて佐伯を訪れた私の身に、この言葉が深く染み込んできた。受験勉強ではてこずらされたが、短編小説への愛を細やかに、そして熱く語ったこの一冊は、もうすっかり私の友人だ。独歩について話してくれる友人はめったにいない。これからも大切にしたいものである。(凡)

ホホホ座
京都市左京区浄土寺馬場町71
『短編小説礼賛』
1986年 岩波書店 阿部昭

一乗寺 マヤルカ古書店

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【思わず足を止めたくなる可愛らしい店構え】



叡山電鉄一乗寺駅から4分ほど、金木犀が香る秋の住宅街を進んでいくと、小さなカフェに並んでこれまた小さな古本屋が立っている。マヤルカ古書店である。古書店と言ってもいわゆる古風な「古本屋」のイメージとは全く異なり、山吹色の壁面に赤茶のタイルとブルーグリーンの扉がかわいらしい、少しだけおとぎ話の世界のような外観をしている。

入店してまず、民俗調でカラフルな店内の装飾に目が留まった。天井や壁や棚、様々なスペースにポストカードや木製の小物が並び、赤や茶の暖かな配色が居心地のいい空間を作っている。本棚に目を移すと、他の古書店であまり見かけないジャンルである絵本や児童書が豊富に取り扱われていて驚いた。端から背表紙を眺めるうちに『スーホの白い馬』や『ねぼすけスーザのおかいもの』といった懐かしのタイトルが目に入って、胸がときめいてしまう。児童書以外に、詩集、写真集、デザイン書や料理本なども揃っていた。また、文庫本を始めとする一般書のコーナーには、文芸作品、実用書、専門書、コミック雑誌まで多種の本が揃っている。文芸作品が豊富なのはもちろんのこと、民俗学や芸術学、近代各国の女性論に関する専門書がスペースを割いて置かれていたのが印象的であった。

全体として、店内の装飾だけでなく本の並びも彩り豊かで生活感があり、テンポのはやい日常に疲れていた心が解きほぐされるような空間である。後期の授業が始まり、やってもやっても終わらない授業や課題に気分が落ち込む時には、ぜひこの古書店を訪れてほしい。一冊一冊の本と向き合う心の中に、見失っていた自分を見つけることができるだろう。

今回私がマヤルカ古書店で購入した本は、まど・みちおの詩集『うちゅうの目』だ。まど・みちおは、平明な言葉と優しい世界観で知られる作詞家・詩人であり、代表作に童謡「一年生になったら」などがある。作者の晩年である2010年に発行されたこの詩集には、『チョウチョウ』ほか24篇の詩が、風景や生活の一部を切り取った美しい写真とともに載せられている。本作には、まど・みちおの描く童謡の世界とはまた違った、自然に対する深い洞察と生きることの切なさを思わせる詩がいくつも収められている。例として、『どうしてだろうと』を挙げたい。タイトルの通り、この詩は問う。「何万何億年、こんなに透き通る光や空気の中に生きていて、どうして私たちのすることは、透き通ってこないのだろう」。自然の美しさとそれに対比される人間の不完全さを痛切に感じ、大変心を打たれる詩集であった。(桃)

マヤルカ古書店
京都市左京区一乗寺大原田町23の12
『うちゅうの目』
2010年 フォイル まど・みちお

一乗寺 紫陽書院

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【店先にまで本が並ぶ紫陽書院】



叡山電鉄茶山駅から徒歩一分の場所に、紫陽書院はある。店の外にも本が並べられていて、通りがかりについつい足を止めて見入ってしまったというお客さんもいた。

このお店は日本文学、中国文学、芸術本をはじめとして多くの本を取り揃えており、文字通り本に囲まれることのできる、本好きにはたまらない空間である。レジ横では『ハンニバル・レクターのすべて』という、アカデミー賞受賞作「羊たちの沈黙」のメインキャラクターを特集した本が存在感を発していた。これは映画の続編が公開された2001年に出版された本であるが、当時は話題作に関連する書籍として多くの書店に並べられていたのだろう。生まれてすらいない時代の世相でさえ本を通じて垣間見ることができるのも、古本屋の魅力である。

さて、そんなたくさんの本の中で選んだ一冊は、宮沢賢治の『イーハトーボ農学校の春』である。イーハトーボとは彼の作品に登場する理想郷のことで、その名は彼の出身地である「岩手」に由来するとも考えられている。宮沢賢治といえば法華経を熱心に信奉し、それが作品にも表れているというイメージが強いが、彼の作風が初めからそうだったわけではない。この本に収められている作品はほとんどが教師時代に著したもので、当時の彼はまだ若々しさの残る青年だった。賢治の教師時代の出来事や、彼自身が学生だった頃の思い出に直に触れることができる。

紫陽書院でたまたま見つけたこの本との出会いによって、何となく知っている気になっていた宮沢賢治の新たな一面を知ることが出来た。古本屋での本との出会いは、思いのほか偶然と運命に溢れている。ここにある本はみな、素敵な中身の書籍というだけでなく、印刷された一つの本としても魅力的なものばかりである。どうか、一冊の本との偶然の出会いを求めて訪れてみてほしい。(滝)

紫陽書院
京都市左京区一乗寺西水干町15の2
『イーハトーボ農学校の春』
1996年 角川書店 宮沢賢治

浄土寺 竹岡書店

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【今出川通に面している】



京大から竹岡書店までの道は簡単だ。本部構内を北に出て、右に曲がったあとはずっと直進するだけ。京大と銀閣寺とのちょうど中間くらいに、竹岡書店はある。ホームページによると商品は約3万点あるが、ほぼ全てが店舗とは別の倉庫に保管されていて、店頭で手にとってみることができるのはごく一部だそうだ。

店内には所せましと本が並べられ、値札のないまま足元に積まれた山もあった。私自身整理整頓ができないタイプだから、何となく既視感を覚えた。店の棚は文学、自然科学、趣味、小説、京都・滋賀と大雑把にジャンル分けされていて、書籍以外にも、中古絵筆や日本画が置いてあった。この雑然とした感じは、小規模書店ならではの味というものだろう。

私が買ったのは、岩波現代文庫『空からの民俗学』だ。著者の宮本常一氏は柳田國男と並ぶ民俗学のパイオニアで、「日本国内で行っていない場所はない」と言われるほどに旅を重ねた人物である。前期で取った民俗学の授業で彼の名前を聞き、一度著作を読んでみたいと思っていたのだ。「空からの」というタイトルは、1枚の航空写真を提示し、その地域がどうしてその見た目になったのか、これからどうなるのかということについて著者が考えを綴る形式の章に由来する。何気ない1枚の写真から多くの情報を読み取って話を広げていく語り口は、些細なものにも歴史があり、村や町の風景に理由なく存在するものはひとつとしてないということを思い出させてくれる。彼のようなことを考えながら町歩きができればさぞかし楽しいだろう。(艇)

竹岡書店
京都市左京区浄土寺西田町81の4
『空からの民俗学』
2001年 岩波書店 宮本常一

御所南  京都まちなか古本市

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【年配の人に混ざって学生らしき姿も見られる】

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【赤レンガづくりの和洋折衷な外観】



今月8日から10日にかけての3日間、地下鉄丸太町駅から南東に徒歩5分の京都古書会館で「京都まちなか古本市」という毎年恒例イベントが開催された。普段は古本市や古書店に馴染みのない私だが、この古本屋企画を好機にとすこし背伸びをするような心持ちで足を運んだ。

晴れた日の朝、3階建ての赤レンガの建物の入り口横に自転車を停め、開場にあわせて中に入ると、役所の会議室のような1階の大部屋に本という本が所狭しと並んでいる。人文書や実用書が中心でその中のジャンルは幅広い。CDやレコードはないが、映画ポスター、懐かしのブリキ製玩具、古文書などのお宝的な珍しいものもみられる。初めて目にする種類の本も多く、例えば『少国民年鑑』という辞書大の本は、目次から察するに戦前の小学生用の教科書らしく、皇族の系譜や勅語全文、軍の将校の官位早見表などからはじまり、漢字や比例の計算、動植物の知識なども現代の教科書さながらに記載されていて、パラパラとめくってみているだけでも面白い。

会計机の裏からは出品している主人同士で話す嗄れ声が聞こえ、彼らの付き合いの長さを想像させた。要領を得ない場所に馴染むのに、出だしやや心細さはあったが、楽しみ方がわかってくると帰り際には一人で来ている人の多さに納得できた。外とは違って、古本に囲まれた中では昼夜の感覚を超えた穏やかな時間と懐かしいにおいに包まれ、繁華街の大手書店とは趣向の異なる感覚を味わえたように思う。

ここからはそのとき私が買った本を軽く紹介したい。

医療を取り上げたものは全体の中でも珍しく、今回みつけた新村拓の『死と病と看護の社会史』は自分が医学部の学生であることもあって読んでみることにした。

本を読んでわかったことだが、著者である新村拓の背景は興味深い。医療史学者として日本の医療の歴史を研究する彼は妻とともにクリスチャンであり、キリスト教的死生観を自身では持ちながら仏教的死生観を持つ日本の人々を考察する視点は、宗教を扱う部分にも歴史学者としての冷静さを担保しているように感じた。遠い先祖の価値観や社会行動を現代と比較しながら客観的に編集しているひとつの読みものとして、偏りや強い主張なく病気や死について考えるきっかけになる点で誰にでも薦められる本だ。

改めて学部のカリキュラムを見直すと、人体や薬、器具や治療法の医療知識中心で、医療の歴史、まして日本のとなると全く記載がないのは、勿体ないことだと思う。教育側にも未来の研究者に前だけ向いて科学を進めてもらいたいという方針があり、直接今後の科学研究に結びつかない歴史のような学問は後回しにされがちなのかと想像すると、妙に腑に落ちて残念な気持ちになるが、必修科目になると却って手を抜いていたかもしれない自分を思うと、個人的には古本として出会うことができてよかったと思った。

古本の中には「古本を楽しむための古本」というのもあるようで、山下武の『古書の誘惑』はまさにそのような本だった。古書や古書界隈に対する思いの丈をはじめ、読書論、本の選び方、文庫・図書目録の利用法、蔵書の整理術など、広く本と関わる上で折々に感じたものを綴ったエッセイである。

大正の末年から平成までを生き、古本に関する著述活動で有名だった本作の著者、山下武は文芸評論家、演出家としての顔を持つ一方、工学院大学を経て芝浦工業大学で指導する研究者としての一面も持ち合わせる多才な人物だったようだ。

この本では、中古品という意味においてだけではない古本の良さが楽しめる。「いまだ世人の記憶に新しい」という言葉を枕に、私にとって初耳の当時の大ニュースが引用されていたり、自分が生まれるずっと前の文化を記述した部分があったりと、内容面でのジェネレーションギャップを感じるところが随所にある。一方で、戦前の作家に多く見られる硬質な文学表現や学者のエピソードを次々に用いて何気ない思索を文章にしているのを読むと、自分の教養の浅さや知識不足に気づかされ背筋が伸びる。活字離れというのはなにもここ十数年に限った傾向ではないようで、78年に彼がこれに触れた文章でいうには、実用書しか読まない、まして本を読まない人が増えてきている中、書物随筆が戦前より増えているのは、小粒ぞろいになってきたとはいえ喜ばしいとのこと。私が書くこの「書物随筆の書物随筆」なるものがまずは小粒の中に数えられるようにありたいと、ひとり小さな反抗心を募らせもしたところである。(怜)

京都古書会館
京都市中京区福屋町723
『死と病と看護の社会史』
1989年 法政大学出版局 新村拓
『古書の誘惑』
1991年 青弓社 山下武


おわりに

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【下鴨神社で掲げられたのぼり。10月30日から秋の古本まつりが始まる】



「客が店を訪れて本を探すというのは減っている。Amazonなどオンライン書店の手軽さには敵わないからだ」。京都古書研究会の代表を務める津田周一氏(71)は語る。そんな中、古書店の経営は古本まつりに代表される古本即売会での収入によるところが大きくなっているという。古書店の経営形態について「これからの時代は古本まつりかインターネット販売かということになっていく。京都古書研究会では、古本まつりに力を入れていこうと思う」と話す。

京都古書研究会は、古本まつりを主催する団体で、現在18の古書店が参加している。主催するイベントには、京都三大古本まつりと呼ばれる、「春の古書大即売会@みやこめっせ」「下鴨納涼古本まつり@下鴨神社」「秋の古本まつり@知恩寺」などがある。それぞれ5月、8月、10月末に開催されている。本紙でも、2017年5月16日号など過去に何度か取材している。

新型コロナ感染拡大の影響で、昨年は春と夏のイベントが開催できず、今年の春も緊急事態宣言で中止に追い込まれた。夏の古本まつりの実施は叶ったが、大雨が続いて完全な開催とはならなかったという。ここ2年で見れば開催できたのは半数以下だ。「コロナ禍で店舗への来店者も減り、どの古書店も収入減に苦しんでいる」と津田氏は話す。実際に今回の取材でも、事前にリストアップした古書店の中に、コロナ禍でしばらくの休業を決めた書店や、自らの蔵書を保管する倉庫として店舗を使用するようになった書店を何店か確認している。

10月30日からは、知恩寺で「秋の古本まつり」が開かれる。今回の開催に関しては、「期待している」と述べた上で、「一応最近はコロナの流行が収まって来ているが、油断はできない。マスク着用やソーシャルディスタンスの確保など、感染予防対策を施してお客の皆様をお迎えしたい」と話した。(航)