企画

【連載第十回】吉田寮百年物語

2021.04.01

《連載にあたって》

京大が吉田寮現棟の明け渡しを求めて寮生20名を提訴した問題で、3月4日に第6回口頭弁論が開かれた。こうした中、本紙では2019年7月16日号より「吉田寮百年物語」を連載している。吉田寮の歴史を振り返り、今後のあり方を考える視点を共有することを目的とし、連載にあたり吉田寮百年物語編集委員会(※)を立ち上げた。前回第九回では、2008年からの7年間の動きを振り返り、寮食堂の補修や新棟建設の決定に至る過程について考察した。今回は、2013年からの4年間を振り返り、交渉に携わった教員による寄稿などを通して、2017年12月の退去通告に至る経緯を考察する。

※「21世紀の京都大学吉田寮を考える実行委員会」や「21世紀に吉田寮を活かす元寮生の会理事会」の会員と趣旨に賛同する個人からなる。京都大学新聞社が編集に協力している。

※これまでの連載↓
第一回 第二回 第三回 第四回 第五回 第六回 第七回 第八回 第九回

目次

    《通史》老朽化対策交渉の停滞から退去通告へ
    《論考》学生生活委員として感じたこと
    《史料》京都大学新聞「複眼時評」「寮生との一年間を振り返って」
    《コラム》新棟の特徴について


《通史》老朽化対策交渉の停滞から退去通告へ

2014年~2017年



山極総長体制始まる

2014年10月、松本氏に代わって山極壽一総長が、赤松氏に代わって、杉万俊夫氏が、副学長(学生・図書館担当理事)に就任した。松本前総長は、総長・理事主導で吉田寮現棟の改修方針を決定しようとしていた。寮問題以外でも散見した松本氏の「むき出しのトップダウン」姿勢に学内の教職員が反発し、山極氏が意向調査1位となって総長に選出された。

山極総長は就任すると、総長選考の意向調査で2位の湊長博氏、3位の北野正雄氏、4位の佐藤直樹氏を理事に選任。さらに、文科省と厚労省でキャリアを積んだ2名が加わった。山極総長は、松本前総長のように寮の課題について率先して意見を言うことは少なかったが、一方、杉万氏以外の理事らは、団交と確約に基づく従来の寮問題への対処に異議を強く唱え、「(東大)駒場寮のように潰してしまえ」と語る理事までいたという。その結果、役員会(総長と理事7名)の中で、吉田寮と対話しながら老朽化問題の解決を図る杉万副学長は、孤立することになった。

他理事の意向受け交渉がストップ

2015年2月12日、杉万副学長は、赤松前副学長の確約内容を引き継ぐ確約書にサインした。

2月19日の団交では、杉万副学長は吉田寮現棟の老朽化対策について次のような提案を行った。▼第二期重点事業実施計画の予算期限である2016年3月までに現棟が補修される見通しがないため、6000万円の工事設計費で現棟の改修方法を検討するための調査を行い、第三期中期計画で予算を確保する。▼現棟(北、中、南)のうち2棟を調査のために空き家とし、新棟及び、現棟のうちの1棟の欠員の範囲内で入寮募集をしてほしい。これらに対して吉田寮は、現棟を空けるのは補修案を議論し具体的な調査方法を決めてからにすべきと反論し、杉万副学長は提案を撤回した。

3月9日の団交で、杉万副学長は、吉田寮の主張する「京都市歴史的建築物の保存及び活用に関する条例」を適用した補修案に一人の理事として賛同すると述べた。ただ、吉田寮の敷地を狭くして土地を有効活用したいと反対している理事がおり、「説得が必要」とも語った。また、吉田寮に対して、調査方法や寮生の棟移動について考えを問うたが、吉田寮は寮内での検討が不十分として具体案の提示は保留した。次回の団交は3月19日に設定された。

ところが、改修の終わった吉田寮食堂と新棟地下シャワー室が開錠された翌日の3月10日、食堂および新棟に「落書き」があったことを職員が発見した。3月18日、杉万副学長名の文書で、「落書き」について吉田寮に経過説明を求めた。吉田寮は3月30日に「遺憾である」と回答。さらに京大は吉田寮に原因究明と再発防止を要求した。他の理事は杉万副学長に対し、新棟の鍵を吉田寮に引き渡さないよう圧力をかけた。しかし、杉万副学長は、「吉田寮新棟の運営は吉田寮自治会が行う」との確約に基づき、4月1日、鍵を吉田寮に引き渡した。

杉万副学長以外の理事は、「落書き」の問題化にこだわり、杉万副学長と吉田寮との現棟の老朽化対策交渉をストップさせた。吉田寮は、8月まで「落書き」について何度か回答を行ったが、理事らはその回答に納得しなかった。ある理事は8月1日に吉田寮に対して、「自治会に管理能力が無いから補修する必要が無い」「自治会は大学の要求に応えておらず、話し合う気がない」と発言。こうした姿勢の理事達によって杉万副学長は、緊急性が高いと考えていた現棟老朽化対策の話し合いを前に進められなくなった。

入寮募集停止の要請

7月28日、吉田寮への入寮募集停止の要請が、臨時部局長会議で承認された。内容は、吉田寮に対し、2015年度秋期より新規入寮者の募集を行わないことと、欠員補充を行わないことの2点を要請するものだった。要請の理由は、現棟の耐震性に問題があり、居住者数を減らす必要があるため、とされた。7月29日、山極総長名で京大公式サイトに掲載された。

吉田寮は7月29日、杉万副学長との団交を行った。団交は日をまたぎ、7月30日、杉万副学長は吉田寮と以下の三点を確約した。①入寮募集停止の要請は確約違反であり撤回すべきであること、②臨時理事・副学長会議(※)で撤回に向けて尽力し会議後に結果を団体交渉で報告すること、③山極総長を含む団体交渉を設定すること。確約に基づき、7月30日、臨時理事・副学長会議が開かれたが、入寮募集停止の要請は撤回されなかった。その一方で、「理事・副学長会議の協議の結果」が杉万副学長の名前で京大公式サイト上に掲載された。内容は、「要請は、新棟が完成したこの機会に、寮生の生命の安全を最優先に考えたものであり、廃寮を前提とするものではない。今後の現棟のありかたについては、調査を実施し、その結果を踏まえて、寮自治会とも慎重に検討していく」というものだった。

臨時会議後、7月30日、杉万副学長と、この日二度目の団交が行われた。吉田寮は、杉万副学長が説得できないなら反対する理事や総長を団交の場につれてくるべきと主張した。対して、杉万副学長は理事・副学長会議で、吉田寮との確約に基づき通知の撤回を主張したが、他の理事に反対され、撤回できなかったと説明。吉田寮は、その理事が誰なのか尋ねたが、杉万副学長は回答を渋った。団交の途中で、杉万副学長が体調不良を訴え、話し合いが終了。杉万副学長は募集停止要請について「あくまで理事・副学長会議としての提案にすぎず、決定ではない。提案は撤回することが可能である。今後文書の撤回に向けた吉田寮自治会との団体交渉を行う」と確約し、京大公式サイトにも確約は掲載された。次回交渉は、8月19日と20日が候補日とされていたが、杉万副学長の体調を理由に延期された。入寮募集停止要請が撤回されないままであったが、吉田寮は現棟の調査は募集停止をせずとも可能であること、福利厚生施設としての機能をなるべく縮減させるべきでないことを説明し、秋期入寮募集を実施した。

(※)正式には「理事・副学長会議」という会議は無い。総長及び理事7名の役員会に、理事ではない副学長をオブザーバーに含めた会議の通称名である。

山極総長に公開質問状

吉田寮は8月4日、山極総長宛に公開質問状と抗議声明文を出した。8月17日、杉万副学長名義で回答があった。回答で杉万副学長は、入寮募集停止を要請した理由として、現棟の耐震化を検討するために、まず現棟を居住者のいない状態にして、部分解体を含む詳細な調査を行い、京都市条例の適用可能性も含め、どのような耐震化が可能かなどを精査する必要があると説明。現棟の耐震化のための調査については、「なるべく早期に自治会との間で話し合いを行いたい」と述べた。また、新たに、学生側・大学側双方5人程度による円卓会議を提案した。

9月10日、吉田寮は杉万副学長の回答に反論。現棟補修に向けた追加調査や工事の必要性を認めつつも、寮の福利厚生機能を損なわない方法を検討すべきこと、あらゆる当事者が参加できる公開の場で議論は行われるべきであり、円卓会議ではなく早期の団体交渉が着実で早い解決手段であることを主張した。

杉万副学長の辞任、川添氏の就任

9月15日、京大は杉万副学長の9月30日付け辞任を発表。「健康上の理由で業務に差し障りがあるため」とされた。後任者は未定だった。10月15日、京大は、川添信介・文学部長が11月1日付けで副学長(学生・図書館担当理事)に就任すると発表した。

2016年1月22日、第三小委員会と吉田寮が確約引き継ぎの予備折衝を行った。第三小委員会は、これまで約2年間吉田寮との交渉窓口としての役割を果たしていなかったことを謝罪し、以前と同様に第三小委員会が予備折衝を行うことを表明した。予備折衝を欠席した川添副学長は、第三小委員会を通じて、団体交渉という話し合いの形態には応じないことを表明。少人数の寮生代表者としか会わない姿勢を明らかにした。

情報公開連絡会の中止 学生との対話の場の消失

2016年1月21日の情報公開連絡会で、川添副学長は、情報公開連絡会の廃止を検討していることを明らかにした。吉田寮自治会や文学部学生自治会などがこれに抗議声明を出した。

情報公開連絡会とは、大学内の決定以前の情報を学生に公開するため、1998年3月からほぼ毎月1回のペースで開催されていた副学長と学生の対話の場だった。1997年の総長団交で井村総長(当時)が情報公開の必要性を認め、1998年3月の宮崎学生部長(当時)と吉田寮自治会との団交で結ばれた確約に基づいて設置された経緯があった。

2月18日に開催された連絡会では、翌3月の開催を発言していたが、3月以降「諸般の事情のため」という理由で、開催の中止が京大公式サイトで発表され続けた。廃止の正式決定が無いまま、なしくずしに情報公開連絡会は「廃止」されることになった。京大は、3月から、広報誌「Campus Life News」を発行。このほか、京大公式サイトに記名式で学生からの意見・要望を受け付ける「学生意見箱」が同月、設置された。しかし、これらの媒体には部局長会議などの議事は掲載されず、決定プロセスの「透明性」や「学生と対話」を一定担保してきた従来のあり方は変容していった。

二度目の入寮募集停止の要請

入学試験中の2月25日、26日、学内で入寮募集要項を配布していた吉田寮生が職員によって妨害を受けた。

2月29日、京大は吉田寮に対し、2016年度春期の入寮募集停止要請を川添副学長がメールで通知した。理由は「寮生の安全確保」とあり、要請では「廃寮を前提とするものではありません」と謳いながら、2015年8月17日の杉万前副学長の説明にあった条例適用のための調査や円卓会議といった解決への糸口にすら触れなくなっていた。

3月1日、山極総長の名で京大公式サイト上に入寮募集停止の要請が掲載された。さらに京大は、公式サイトの学生寄宿舎に関するページを改変し、吉田寮の入寮募集の項目が削除。「現棟が耐震性を著しく欠くことが判明しており、寮自治会に対して現棟・新棟ともに入寮募集の停止を要請しています」という特記事項も追加された。 

川添氏 職員に取り次ぎ拒否を指示

3月2日、吉田寮は厚生課に抗議、川添副学長との団体交渉を申し入れた。厚生課の職員は、「学生が面会を要求してきても取り次がないよう川添副学長から指示されている」として拒否。従来の団体交渉とは異なる、少人数の寮生代表者との話し合いにしか応じないと答えた。さらに職員は、今回の通知とサイトの改変は、数名の理事と総長が2月29日の非公式会議で決めたことだと説明。吉田寮は、「執行部の独走である」と批判した。

3月7日に、川添副学長名で「吉田寮自治会との話し合いのあり方等について」が吉田寮に提示された。その内容は、①話し合いは代表者10名、2時間に限定する、②新しい確約は代表者10名との話し合いで合意するというものだった。

副学長との交渉方法を議論する場として、吉田寮と第三小委員会(寮小委)の2者で、参加限定しない形での話し合いを約2カ月に1度のペースで開くことになり、3月17日、5月19日に行われたが、川添副学長は3月の提案から一歩も譲れないとの意向を第三小委員会に伝えており、妥結点がないまま平行線を歩んだ。

6月20日、第三小委員会の委員10名が、川添副学長宛てに「学寮問題における第三小委員会の役割などについて」を提出。川添副学長の3月7日付け「吉田寮自治会との話し合いのあり方等について」の趣旨への支持を表明しつつ、同時に、「吉田寮老朽化問題について、執行部より具体的なグランドデザインあるいはロードマップを示して」ほしいと要望した。総長・理事主導で、展望をみせないまま施策を進めるありかたに、交渉窓口として不満を表すものだった。

吉田寮の歴史的・文化的価値の再発掘

吉田寮を明治・大正時代の歴史的建築資産と評価する声が建築専門家たちの中でも大きく広がっていった。2015年5月、日本建築学会近畿支部は山極総長宛に「京都大学吉田寮の保存活用に関する要望書」を提出。同年11月、建築史学会が山極総長宛に「京都大学学生寄宿舎吉田寮の保存活用に関する要望書」を提出した。

また、現役及び元吉田寮生の有志団体「21世紀の京都大学吉田寮を考える」実行委員会が、2016年9月20日から、2018年6月9日まで、計5回の連続セミナーを開催し、市民らと一緒に吉田寮の価値の深掘りを進めた。

続く入寮募集停止の要請

2016年7月20日、第三小委員会と吉田寮との話し合いの場で、委員が秋期新規入寮者募集を行わないことを求めた。対して吉田寮は、補修に向けた協議を優先すべきだとして強く反発。第三小委員会との団交は次回も予定されたが、この日が最後となった。

吉田寮は、7月26日に抗議声明を発表。声明では、「具体的な老朽化対策を行わないまま大学の福利厚生機能を縮減させようとしている」と批判。そのうえで、山極総長・川添副学長宛てに公開質問状を提出し、吉田寮が主張する補修案、及び日本建築学会近畿支部及び建築史学会が2015年に山極総長宛てに提出した保存要望書について大学としての見解を示すよう求めた。

8月10日、入寮募集の停止を要請する通知が、厚生課より吉田寮にメールで送付された。吉田寮は厚生課に抗議を行うとともに、川添副学長に質問状を提出。厚生課は、募集停止については吉田寮から撤回の要求があったことを川添副学長に伝えるとともに、質問状にも回答すると応じた。9月5日、川添副学長は吉田寮にメールで質問状に回答。内容は「老朽化対策の緊急の必要性を認めつつ、自治会側の提案も含めて、検討を進めていく」とした上で、「このメールをもって回答とし、さらなる回答は行わない」というものだった。2017年2月6日、京大は吉田寮に対して2017年度春期の入寮募集停止を要請する通知を出した(4度目)。8月10日、京大は秋期の入寮募集停止を要請する通知を出した(5度目)。吉田寮は「入寮募集停止は寮を切実に必要とする人間を困窮させる上、歴史的に自治寮潰しの常套手段として用いられた手法である」とし、募集を続行した。

寮生への退去通告

2017年12月19日、「吉田寮生の安全確保についての基本方針」が役員会で決定された。寮生個人へメールされるとともに京大公式サイトで公表。基本方針の概要は、①入寮募集を停止すること、②現居住者は2018年9月末までに退去すること。この「基本方針」策定は、川添副学長が主導した。

「基本方針」は、耐震性に欠く現棟に住む寮生の安全確保を理由に挙げる一方で、耐震性に問題がない新棟からも寮生を追い出す、ちぐはぐさを孕んでいた。それは自治寮としての吉田寮の実質的な廃寮を意味していた。また、寮生への退去通告である「基本方針」決定と同じ12月19日に、京大学内外の「立て看板」規制(2018年5月1日に規程施行)が決定された。

吉田寮は「基本方針」による退去期限を、1982年の廃寮決定をなぞって「第2次在寮期限」と表現した。

「基本方針」は、「部局長会議」に報告され、同日の「役員会」で正式決定された。「教育研究評議会」には諮られなかった。学生寮に関する事項を扱う第三小委員会のメンバーは、京大の公式サイトで初めて知った。

目次へ戻る


《論考》学生生活委員として感じたこと

伊勢田哲治 文学研究科准教授



わたしは2017年度と18年度に文学研究科選出の学生生活委員をつとめた。学生生活委員の中では、第三小委員会(寮担当)に配属された。わたしが学生生活委員をつとめていた時期は、2017年12月に「吉田寮生の安全確保についての基本方針」(以下「基本方針」)が発表されてから2019年4月の提訴にいたるプロセスのかなりの部分と重なっており、月一回の定例の会合では、繰り返し川添学生担当理事(当時)や他の委員と寮問題について意見を交換する機会があった。当然ながら議論の細部を公表するわけにはいかないものの、教授会等でも報告しているレベルで、議論の雰囲気など大まかなことを伝えることは許されるだろう。

決定権のない委員会

学生生活委員となってまず驚いたのは、現在の学生生活委員会は学生に関する重要な方針を決める立場にないということだった。たとえば、寮に関する意思決定や方針はすべて審議事項ではなく報告事項として議題に上がる。報告事項に対して個別の委員は意見を言うことはできるものの、京都大学執行部や学生担当理事が決めた方針がそれで変わるわけではない。今回は吉田寮問題に話を限るので詳しくは触れないが、わたしが委員をやっていた時期にもうひとつ持ち上がったのが、京大の外壁の学生による立て看板を禁止する、いわゆる「立て看問題」だった。これについて、わたしは、学生生活委員長でもある学生担当理事が学生団体の代表と会うという決議案を提案しようとした。すると、そもそも委員長の行動を拘束するような決議をする権限はこの委員会にはなく、できるのはせいぜい要望程度であるという見解が事務方から出され、決議そのものが立ち消えとなってしまった。

寮問題に話を戻す。わたしが委員になった2017年当初、第三小委員会としては吉田寮問題のここ数年の経緯について事務方からレクチャーを受け、委員会としての方針について話し合った。しかし、学生生活委員会全体の会議の場ではほとんど話題になることがなかった。その間に理事からの入寮募集停止の要請と寮自治会からの回答という応酬が何度か行われていたはずだが、それは委員会の場で報告すらされなかった。12月までの間、寮生と第三小委員会の間で公式の話し合いが持たれることはなかった(個々の委員との面談はあった)。それ以前も、わたしが知るかぎり、川添理事が団交を拒否して少人数での話し合いのみを受け入れるという方針(川添方式)を打ち出した2016年3月以降、寮自治会と学生生活委員会との間での話し合いのテーマは話し合いの形式に関することばかりで、老朽化や入寮募集停止については定期的な文書のやりとり以上の折衝はなされていない。

基本方針の決定

そうした中で、われわれ学生生活委員にとっても急に出てきたのが、2017年12月19日の「基本方針」だった。この方針は、学生生活委員会でも第三小委員会でもまったく議題にのぼることなく公表された。このときには12月の定例委員会はすでに終わっていたが、そこでもこうした方針が準備されているという報告すらなく、当然ながら京都大学の方針について議論が行われることもなかった。

「基本方針」公表時には第三小委員長は出張中であったが、吉田寮側からは第三小委員会と話がしたいという強い要望があった。そこでわたしが場所を設定する形で第三小委員有志と吉田寮生の非公式の面談を実施した(12月27日)。しかしわれわれも公表されている方針以上の情報を持っているわけではないので、「基本方針」についての寮生側の見解や訴えを聞いて第三小委員会に持ち帰る場にしかならなかった。

2018年1月11日に第三小委員会が開催され、寮生側が要求する第三小委員会と寮自治会の公式の折衝は行わないことになった。そのかわり、第三小委員会としては「基本方針」に従って寮を出る学生たちのサポートを行う(FAQを充実させるなど)ことを確認した。その後、「基本方針」に反する形で吉田寮が入寮募集を行ったことや寮生からの折衝の申し入れがあったことをうけて、3月にもう一度第三小委員会で議論が行われた。第三小委員会は吉田寮自治会と非公式にも折衝しない、という了解がこのあたりで形成された。個々の委員としてはその後も面談に応じていたが、このころの決定が引き継がれ、第三小委員会と寮自治会の折衝は本稿執筆時点(2021年2月)においてもなお行われていないと認識している。

2018年7月と8月には吉田寮側が「川添方式」を受け入れる形で寮自治会と理事の話し合いが実現したが、9月には打ち切られてしまった。この打ち切りも学生生活委員会は事前に全く知らされていなかった。そのあとの委員会で報告されたときに真意を確認したところ、理事からはあくまで「現状では」話し合えないという意味だという返答があった。このころの学生生活委員会では毎回のように吉田寮生との話し合いのチャネルを維持するようにという意見が出されていたが、結局話し合いは再開されなかった。

話し合いを求める決議案

2018年12月14日の定例委員会で、わたしは学生生活委員会に対して以下の決議案を提出した。「本年7月13日および8月30日に行ったのと同様の方法での吉田寮生との対話を早急に再開し、対話をベースとした吉田寮老朽化問題の解決を最大限追求することを川添理事・学生生活委員長に対して求める。」この決議案は1月の学生生活委員会で審議され、委員からはいろいろな意見があった。ただ、残念ながらこうした案件について議決を行うのはふさわしくないといった声もあり、結局決はとられなかった。

その後、2019年2月12日に「基本方針」を修正して条件付きで新棟に居住を認める方針を京都大学が発表し、それに反応するように2月20日に吉田寮側も条件次第で5月末までに旧棟を明け渡す提案を行った。この新方針についても学生生活委員会では事後報告だった。その際の質疑でも再度話し合いの再開を求める意見が出たが、例によって単なる意見として扱われた。わたしの学生生活委員としての寮問題への関与はここまでで、2019年4月の提訴の際にはすでに学生生活委員ではなかった。

こうして振り返るなら、2017年以降のプロセスで提訴を回避するチャンスはいくらでもあった。吉田寮側は団交という形式にもこだわらず、旧棟の明け渡しの可能性も示唆して、柔軟性を示してきた。学生生活委員からもそうした吉田寮側の態度に答えるべきであるという意見は再三だされていた。当時の京都大学執行部は意図的にそうしたものを無視して提訴への道を進んだ。そうした態度を現執行部が見直し、対話による解決の道がもう一度開かれることを切に願う。
目次へ戻る


《コラム》新棟の特徴について

執筆:Kさん(京大院生、元吉田寮生[2010~2014年])



2012年4月に起こった「食堂取り壊し騒動」がひと段落して以降、2年近くにもわたる交渉の結果として合意に至った吉田寮新棟には、いくつかの特徴的な部分がある。ここではそのあらましをお伝えしたい。

まず一番大きな特徴は、その構造にある。大学当局は何よりもまず定員を増加させるために、鉄筋コンクリート造と木造風の装いで大規模な新棟を建てることを望んでいた。他方で吉田寮自治会は、木造の本棟との連続性を保つこと、木造建築は腐朽したパーツを一つ一つ取り替えていけば半永久的に使い続けられ、結果的に管理費を節約できることなどを挙げ、新棟を木造で建築するよう大学当局に要求した。

ところが震災の多い日本において、大規模な木造建築の新築は建築基準法によって大幅に制限されているため、吉田寮自治会が当初考えたように木造だけで新棟を建設した場合、収容人数や建ぺい面積がかなり小さくなってしまう。こうした難点や対立点を解消しようとする中で考え出されたのが、「木造と鉄筋コンクリートの混構造」案である。これは二棟の木造建築の間と地下に鉄筋コンクリート造の建物を挿入・設置することで、木造を基調としながらも最大限に寮生の居住スペースや共有スペースを確保したものであった。自治会と大学当局とが交渉を行う一方で、京都市と大学当局との間でも法律的に問題がないか交渉を行いながら、日本では珍しい木造三階建ての建築を含んだ学生寮が新築されることとなった。

以下、具体的な建物の使い方を木造部分と鉄筋コンクリート部分に分けて見ていきたい。

木造部分 主に寮生の居住部屋が充てられる。新棟も現棟と同じように相部屋制度を敷いている。現行の建築基準法に準じて作られたため、部屋は現棟に比べると密閉度が高い。もともとは靴を脱いで上がることを想定して作られた現棟の部屋には玄関がなく、部屋の前の廊下に靴が並べられているが、新棟の部屋には小さな玄関があり、靴箱も用意されている(その代わり、廊下は板敷きではない)。居室は、一部屋あたり6畳、8畳、12畳などといった広さの異なる部屋が複数ある。また、建築基準法で定められる二方向避難に基づいて、現棟では北寮にしかないベランダが新棟では全部屋に設置されている。さらにバリアフリー化を図るため、車椅子使用者でも使いやすい部屋が各階に二つ(一階は一つ)ずつ用意されており、鉄筋コンクリート部分にあるエレベーターからアクセスできる。居室以外には、寮内にインターネットを整備する有志「ネット会」の要望によって「サーバールーム」が設置されている。

鉄筋コンクリート部分 先述したエレベーターの他に、各階にオールジェンダートイレ(別稿参照)と多目的トイレ、および洗面台、給湯室が設けられている。二階の東端には利便性を考えて、渡り廊下が設置されている(図面上は屋根扱い)。地下部にはトイレと洗面台のほか、会議室、シャワー室、洗濯機、共用の台所などが設けられている。地下南側の会議室は半分ほどの面積はパーテーションによって壁を自由に動かせるようになっている。シャワーは10機あり、そのうち一つはバリアフリー仕様である。また、共同台所には食事場も併設され、冷蔵庫や炊飯器、ガスコンロなどが備えられており、大掛かりな調理も可能である。

おわりに -遥か将来を見据える新棟- 新棟建設に携わった当時の寮生はみな、まだ見ぬ新入寮生や寮外生にまで思いを馳せ、彼らにとって、そして自分たちにとってどのような寮が相応しいか、どういう寮に住みたいのかについて真剣に考えた。そうして完成した新棟は、構造面でも、また寮生が主体的積極的に関与したという決定プロセスの面でも、国内で前例のない存在だと思う。これは大学当局との交渉でも発言したことだが、この新棟が今後五十年、百年と使い続けられ、現棟のように歴史的価値や独特の味わいを醸し出し、後世の寮生たちに愛着を持ってもらえるような建物となってほしい。

目次へ戻る


《史料》「寮生との一年間を振り返って」

住友則彦 寮小委委員長(当時)
京都大学新聞1988年9月16日号「複眼時評」



1987年10月1日から1年間、住友氏は、第三小委員会(寮小委)委員長を務めた。1987年10月28日「在寮期限凍結案」を提案し、「紛争」解決の糸口を探ろうとした。「凍結案」は当時の学生部長に受け入れられなかったが、のちの「在寮期限措置の執行完了」の原点となった。対話の姿勢を続け、1988年8月4日の西寮Ⅳ棟撤去合意を実現した。 

京都大学新聞に1988年9月16日号に寄稿した文を転載。

* * * * *


寮小委員長をやむなく引き受けることになったとき、二十年前の大学紛争時の経験が役立つか否か不安だった。あのころに較べて、心身共に「老朽化」している事は自他共に認めるところだから、寮生との間に対話が成立するか否か自信がなかった。何しろ、相手は日頃口論が絶えないわが家の息子娘共と変わらぬ年頃の新人類ばかりだからだ。昔の事を知っていてくれる学生部のある職員が、先生の真心ならきっと通じますよとささやいてくれた。つい、うっかりおだてに乗せられ、寮へ何度か行ったり、研究室へ来てもらったりして話し合っている内に、委員長であることも忘れてしまって、つい軽口の一つもたたくようになってしまった。気が付くと、寮生に洗脳されたかなと思うことも少なくなかった。何よりも嬉しく思い、ほっとしたことは、強がりやで、理屈ぽくて、権威には無条件反発、用心深くて、自信家である一方、個人の利害得失を越えた一途な思い込み、喜びや怒りを素直に表すことなどは昔と少しも変わらないことだった。

一般に新人類は利口過ぎて、表情に乏しい嫌いがあるとも言われる。それに較べて、寮生の多くは生身の人間であることを感じさせてくれた。初めは、キャンパス内ですれ違っても、存在は認めつつも、ぶすっと横を向いていたのが、ちょっと眼を動かすようになり、その内に軽く会釈をしてくれ、今では笑顔で挨拶をしてくれる。一年の内でこうも変るものかと驚くと共に教師冥利に尽きる思いがする。一年経っても変らないのは、断固、氏名を名乗らないことだ。最初は不便だった。電話で話すときなどは、あの「のっぽ」かな、あの「セータの男」かな等と自分でかりの名前を付け識別した。慣れてくると、名前を特定する必要もなくなった。とは言え、何故こうも名前を伏せることに固執するのかと微笑ましく思うことさえあった。

ところで、寮は厚生施設か、教育施設かとの議論がある。全くの厚生寮なら大学に置く必要もなかろう。さりとて、教官が「訓導」しうるような教育施設であろう筈もない。しかし、若者たちが寝食を共にし、ある時は酒を酌み交わし、ある時は口角泡を飛ばし、ある時はつかみ合いをし、共に喜びや悲しみをわかちあう、青年の一時期に互いに磨き合う、この様な空間がキャンパス内にあることは、いかなる時代であろうとも必要なことと思う。川喜多二郎氏の「探検大学」の試みもこの様なところにあったと聴くし、独創的発想や「創造の世界」はここから広がるのであろう。

入試方法の問題で学内が揺れた頃、「良い学生を入れたい気持ちは分かりますが、アフターケアーも考えて欲しい。良い講義、良い研究施設も大事でしょうが、課外活動施設、学生会館、寄宿寮などキャンパスライフをエンジョイ出来る施設の充実を考えて欲しい。これなしに、一万人以上の学生を相手に僅か十名余りの学生部委員で何ができるのですか」と学生部長を困らせたこともあった。大学の中に、「大人」たちの口出ししない文字通り若者たちの「自治」の空間があっても良いと思う。寮もその一つであろう。しかし、その空間は一瞬たりとも私物化が許されるものであってはならない。時代を超えて若者たちによって共有され、受け継がれて行くべきものだろう。だとすれば、正々堂々と、内にも外にも名前を明らかにし、何ほどかの寄宿料を寮の維持費として後輩たちのために置いて行くことがどうして出来ないのかと思う(注)。思想信条とは別のものだろう。建物が老朽化すれば建て替え、装いも時代に合った新たなものにすれば良い。これは大学の務めだ。一方、学生自治の空間たる寮の精神は常に健全であって欲しい。反権力志向があってもよし、不条理への鋭い眼差し、告発があってもよし。責任と自覚とそして、潔さが欲しい。

(すみとも・のりひこ氏は教養部教授・地学)



編集部注 連載第5回と連載第6回でも述べられていたように、1971年以来、新入寮生氏名を京都大学新聞紙上で発表し、その新聞発表をもとに学生部が寮生から寄宿寮を徴集するという方式が1979年まで実施されていた。

ところが1980年、翠川修・学生部長は新聞発表方式の寮生名簿は不正確であるとして主張し、以後1989年まで、寮生名簿の方式をめぐる問題は寮生と大学当局の主張が対立することとなり、寄宿寮の徴集方法も暗礁に乗り上げた。また1983年には、会計検査院の来寮阻止行動に起因して吉田寮と熊野寮の寮生8名が逮捕されるという出来事も起きていた。

しかし、住友氏の文章にもあるように、寮生と学生部職員や学生部委員とのコミュニケーションは1980年代中頃より次第にスムーズになっていった。1988年には河合隼雄学生部長から「在寮期限の執行終了」の提案が出され、寮生名簿についても吉田寮と学生部の間で具体的な交渉が進められ、翌1989年には、寮生名簿の一括提出と寄宿料の寮自治会徴集による一括納入について合意に達した。

目次へ戻る

このほか紙面では、《通史》で紹介した時代の写真や年表も掲載しています。ぜひご覧ください。

関連記事