佐々木博光 国際高等教育院、総合人間学部・人間環境学研究科非常勤講師「役立て!大学教育」(2020.11.16)

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わたしは文学部・西洋史学の出身で、本学では現在全共科目の西洋史Iを担当しています。大学で教育を受けたこと、研究に携わったことが、社会に出てからどんな役に立つのかについて、私見を述べます。

現在大学で営まれている学問研究の直接のルーツは、17世紀のヨーロッパに登場した経験科学にあります。経験科学の登場によって、それ以前の経験的基礎づけを欠く、つまりデータに基づかない議論は、学問の場では認められなくなります。現在大学には様々な学問分野がありますが、データを扱わない分野はないはずです。データを集積し、それに基づいた議論を進める。すべての学問分野に共通する点です。

わたしが携わる歴史学のデータを史料と言います。誰も見たことのない初見史料には、一際高い価値が置かれます。その発見は発見者の重要な功績となります。西洋史研究の場合、初見史料は現地の文書館と呼ばれる施設が所蔵しているのがほとんどで、研究者は海外渡航の折に文書館を渡り歩き、それを探します。そこには不文律の仕事の流儀もあります。先刻データを扱わない分野はないと申しました。どの分野も、実験装置が完備していて観測データが自前で調達できるとは限りません。学外の研究機関を訪ね、データをもらわねばならないことも多々あります。そこには西洋史研究者と同じ仕事の流儀があるはずです。

ヨーロッパの文書館で、いきなりやってきた日本人研究者が、係員に自分の素性を告げ、史料を請求している姿をよく見かけます。これははっきり言ってNGです。文書館は初見史料を探す場所です。探すといっても、部外者が書庫に入れるわけではありません。しかも初見史料の多くはカタログ化されていません。その所在を知っているのは、文書館の職員だけです。彼らがそれを出してくれるかどうかが鍵です。彼らの多くは、文書を守り整理整頓し次代に伝えるという使命感をもったドキュメンタリストです。つまりコンサバな、頑固な、史料の扱いに一際神経を使っている人たちです。初対面の若造が自己紹介をした後に、いきなり研究者風を吹かせて史料提供を申し出るのは、彼らが最も嫌うシチュエーションです。お宝の番人の機嫌を損ねた件の日本人氏の前に、もはや初見史料が出されることはありません。彼の状況を一言で言うなら、始まる前に終わったというところでしょうか。

ここからヨーロッパに伝わる文書館の利用法について紹介します。文書館で最初にすることは、何かお役に立てることはございませんかと尋ねること、要は御用聞きです。そして仕事がもらえるまで日参を重ねます。口実の定番は窓拭きです。暗い部屋で細かい字を読んでいる皆さんが目を傷めることのないように、窓を拭きたいと言うのです。そして最初は顔を、つぎに名前を覚えてもらい、最後に仕事、つまり史料をもらう段取りです。とはいえ、初対面の人に大切な初見史料が出されることはありません。小手調べにさほど重要ではない史料が出されるはずです。またこちらのテーマを伝えていないので、まったく関係のない史料が出てきます。しかし文句を言わず取り組みます。手稿の判読は難解です。わからないところは職員に何度も尋ねることです。単語を一つ尋ねれば、その単語が載っているページの全体を読んでくれるはずです。そうなったら、写す機械に徹します。彼らにとってそれは自分の培ってきた技術を継承する晴れがましい場面です。遠慮は無用、何度でもそんな場面を作るべきです。こうして互いの距離を縮め、良好な関係が築けたら、次回来るときは必ずお宝を用意して待っていてくれるはずです。

ヨーロッパでは最初の文書館訪問は捨てと表現されます。捨てるのは何か、それは仕事です。仕事を捨てて取るのは何か、それは信用です。文書館の職員はとっつきにくい人が多いと申しました。しかし気持ちで働くタイプが多い世界でもあります。気に入った人にはとことん奉仕する。そんな人たちの信用を得て、以後の仕事を円滑に進めるのが最初の訪問の狙いです。学外の研究機関を利用する作法において、理文の違いはないはずです。あるのは理文の違いではなく、本物とそれ以外の違いだけです。そしてここに大学教育の目的もあります。大学を出た人の多くが、キャリアはないが自分にはない技術のある人たちの力を借りなければならない役職につきます。彼らを腐らせずその力を十全に引き出すために、学生時代に経験する文書館訪問は、よき実習の場となるはずです。

もちろん他分野の学外研究機関訪問も同じような機能を果たすはずです。京大生の自分が、気持ちで働く人たちの世界でまともに相手にされるのか。最初は誰でも不安です。しかし臆することはありません。ただ一つ、出かける前に日頃忘れてしまっていることを思い出してください。われわれだって、もとはと言えば、そういった人間の端くれだったはずです。

さあ、出かけましょう。



佐々木博光(ささき・ひろみつ 国際高等教育院、総合人間学部・人間環境学研究科非常勤講師。専門は西洋史)

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