〈講演録〉京大収蔵の奄美人遺骨返還を求めて(2019.11.16)

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10月5日、「知と骨―京都帝大の奄美『人骨』調査と植民地主義」と題した公開シンポジウムが、文学部第三講義室で開かれた。奄美人遺骨の返還運動に取り組む大津幸夫氏と原井一郎氏が登壇し、奄美人遺骨の収奪や保管といった京大が抱える問題、返還に向けた取り組みの現状と課題について語った。シンポジウムの概要については本紙10月16日号で報じた。今号では、2人の講演録を掲載する。(編集部)

京大奄美人遺骨問題の取り組み

大津幸夫氏

本日は公私ともご多忙な中おいでくださいまして、ありがとうございます。皆さんのご協力ご理解で、こうした場で発表させていただく機会を与えて頂き、心から感謝を申し上げます。
さてなぜ奄美の遺骨がこれほど大量に持ち去られたか。俄か勉強ですが調べていくうちに幾分分かってきたことがあります。戦前、京都帝大医学部病理学教室の清野謙次教授が同じく配下の金関丈夫助教授や三宅宗悦講師に指示をして組織的に全国各地から遺骨を集めています。「清野コレクション」と呼ばれ現在も総合博物館に保管されているようですが、京大が公式に認めないので文献などから推定しますと、約1500例以上があるようです。この中の267例が奄美人の遺骨とされています。

主宰の清野教授は、所属は医学部ですが、人類学研究にも精力的に取り組んでいます。戦時体制下に入り、日本人とは何かというルーツ探求に異常な関心を示し、人骨を各地から集めていまして、1924年には樺太でもアイヌ民族の墓から人骨を持ち出すなどしています。この年に、当時学会の主流だった「日本人とアイヌ同源説」を退け、本州の旧石器時代人が「日本原人」だという学説を唱え一躍脚光を浴びています。
ところが清野教授は、1938年、古刹から経典類を大量に盗み出して逮捕されます。京大清野事件です。清野教授自身のみならず仲の良かった濱田耕作総長(文学部考古学教室出身)も辞めざるを得なくなりました。清野さんはその後、東京で太平洋協会の嘱託として活動して「大東亜共栄圏」運動や731部隊に協力していきます。一方、金関さんは、京大から台湾大学に移り、原住民の遺骨を収奪したりしています。三宅さんはやがて1945年にレイテ島沖海戦で軍医として従軍し戦死しました。

奄美から持ち出された経緯

奄美人の遺骨は、奄美大島、喜界島、徳之島、そして沖縄の那覇から持ち出されています。三宅さんは、1933年の12月から1935年の1月にかけて3度奄美に足を運んでいます。2度目の訪問では、遺骨は持って帰らずに島民の手掌紋を集めています。

奄美大島では、北部大島、奄美空港近くの隆起珊瑚の一帯で砂浜が発達してるところですが、その貝塚が多い地域から80例の遺骨が持ち出されました。写真は、笠利町万屋字城間・トフル墓群という9つの横穴墓がある場所です。奥の方にトタン葺きで隠されていますが、昔は遺骨がのぞいていました。この中に遺体を入れて風葬をさせて、風化するとその骨を洗う洗骨という儀式を行って、奥の方に納めています。今でも、集落の方がたまに見回りに来られていて、手前に花が手向けてありました。ここの遺骨を持ち出そうと三宅さんは区長と交渉したようですが、「祟りを恐れてか、どれもまだ拝んでゐると逃げられた」(三宅「南島の旅 第五回」、1934年)と住民に反対されます。続いて、1935年に、喜界島から三宅さんが93例を、徳之島からも三宅さんと学生の中山英司さんが92例を持ち出しています。奄美大島や喜界島ではトフル墓と呼ばれる風葬地から骨が集められているのですが、徳之島では、1カ所の遺跡から集中的に遺骨を持ち出しています。

さらに、那覇のアカチラバル墓地からは、奄美人のいわゆる行路病人、これは死後ほどなくの遺体なのですが、旅の途中で行き倒れた人の遺骨を2例、金関助教授が1929年に持ち出しています。金関さん自身が「琉球の旅」(1929年)で、「アカパルというところに行路病人を埋葬した墓地があった。ちょうどいい、この骨を下さいと那覇署に願い出た。警察はびっくり、先例がないと断られた」と書いています。しかし結局、この後に「警察署長が大変物わかりの良い人で納得した」というようなくだりがこの文の後に出てきます。私はこれが許可になると言えるのか、大変疑問に思っています。さらに「これ以上の発掘は許されそうもない」とも書いており、このような発掘を正常でないと金関さん自身も自覚していたと考えられます。現に、当時の刑法第265条は墳墓発掘を禁じており、違法行為です。こうした盗掘行為を京都帝大の研究者は率先して行っていたのです。

なぜ大量に持ち出したのか

なぜ、京都帝大の研究者は、奄美から遺骨を大量に蒐集したのでしょうか。これを調べていくと、当時の清野研究室が抱えていた課題が見えてきます。当時、清野研究室で集めた人骨は959例で足踏みしていて、さらなる獲得を企図していました。また、コレクションには、アイヌ遺骨が多く、「南方の材料が不足だった」(三宅「奄美大島の人類学的興味」、1934年)とあり、偏在が課題だったようです。そのため、北部大島の笠利町で千件を達成し、赤木名小学校の校庭で荷造り作業をしながら、感極まった様子を記しています。そして荷造りを終えた後に、その感激を京都大の清野に打電しています。奄美には古墓と呼ばれる風葬地があって、そこにはたくさん遺骨が集約されているため蒐集がたやすく、しかも無縁墓なため墳墓発掘罪にも抵触しないと彼らは判断したようです。さらに、用意周到に事前準備を進めており、地元研究家の茂野幽考氏の『奄美大島民族誌』を読み予備知識を得ていたほか、既に沖縄での調査実績のある金関助教授のアドバイスを得て、地元有力者に「渡りをつける」戦術をとり、医学部長名で鹿児島県知事に事前に紹介状を送っています。当時の鹿児島県知事は京都出身で清野さんの叔父と昵懇だったという人間関係をも利用していて、知事官房からさらに奄美の行政長や警察署長に紹介状を書いてもらい、現地に持参しています。

収奪の背景

次に、なぜ奄美側が簡単に蒐集を許したのか、時代背景を考えてみました。奄美は、琉球王国に、ついで薩摩藩領になり、維新から遅れ1877年の西南戦争後にようやく近代に出会うことになります。富裕層の子弟は東京に遊学し、その一握りは名を遂げます。一方、貧困層は、サトウキビ農業に見切りをつけ、本土に転出。関西への移住が多いのですが、言葉の壁や風習の違いもあり、差別を受けています。ある工場の職工募集の張り紙に「朝鮮人大島人お断り」と書かれていたこともあったそうです。辺境の、夢をもって、大都会に出た人にとっては、本土側の偏見と排斥によって、ずいぶん肩身の狭い思いをしたようです。

こうした離島民の置かれた厳しい状況、マイノリティ差別が、奇妙にも「奄美人のルーツを明らかにする」とした清野らの研究の受け入れと人骨蒐集を進展させたのでした。明治時代初期、お雇い外国人が奄美人の体毛、血液などを調査していますが、それが「アイヌ民族と奄美人は同じルーツ」と誤った解釈で流布されてしまいます。さらに戦時色の強まりの中で、ナチス・ドイツばりの「大和民族の純潔」といった優生思想が跋扈、さらにマイノリティの奄美人への差別が強まりました。こうした本土における差別は奄美の島民の意識にも影響を及ぼし、三宅が来島時に島民の一人が「夜などふと目覚めて、確かに我々は毛深く、容貌も異なっている。鹿児島の人々が言うが如くアイヌの子孫じゃあなかろうか、と寂しく思う」とカミングアウトしたそうです。これはアイヌの人々には本当に申し訳ない、詫びなければならないことですが、当時の島民には大変深刻な問題だったのです。ですから島の知識人たちも苦悶し、ロシア文学者の昇曙夢は、1927年の昭和天皇の来島を「民族的栄誉」だとして「自覚と国家協力」を訴えています。それは天皇来訪を勿怪の幸いに劣等意識を払しょくしようという呼びかけに他なりません。こういう風に見てきますと、奄美人には強烈な「日本人になりたいコンプレックス」が疼いていたことになります。こうした状況を巧みに利用しながら、三宅は、1936年奄美大島で講演会に臨み、「君達は立派な日本人だ。しかも純粋度の高い体質の所有者達だ」などともっともらしく熱弁をふるっています。そして、その足で遺骨蒐集を加速させているのです。奄美人の日本人になりたいという切ない願望と清野らの研究の欲望とが、ここでかみ合って遺骨収集の背景になっているのではないかと思います。

したがいまして、南島の人々が遺骨持ち出しに真に同意したかというと、有無を言わさぬ、極めて強権的な収奪であったと私は考えます。そして、これが、島民の死生観、その精神的破壊につながったのではと私は思うのです。

奄美における死者の弔い

奄美では、長い間、古代的な観念が受け継がれてきています。作家の島尾敏雄は『名瀬だより』(2005年)に、「そのときの私には奄美大島は上古の霧に閉ざされていた。仏教も儒教もこの島を覆うことができなかったと考えられた。転勤行李のそこに私は岩波文庫版『古事記』を持っていたが、島の中でそれを読み返すとそれが古代の書物であることを忘れた」と記しています。これは島尾が1944年に魚雷艇震洋特攻隊の隊長として奄美に派遣された時の文章です。それは奄美の持つ原初性を嗅ぎ取った作家らしい感受ですが、このほかにもノロという祭祀をつかさどる巫女が海神を送迎する儀式が1950年代まで行われていました。南島の人々の死後世界について説明しますと、生と死の接点の一つは渚になっていて、生者は死者を渚から、海の彼方の楽園「ネリヤ・カナヤ」に旅立たせるのです。そうした楽土信仰の共有の上に年に1度の、祖先神である海神を迎え入れるカミムケという儀式が成り立っているのです。

次に、島民の死生観に関連して南島の墓制についても話してみます。奄美では、風葬が古代だけでなく明治まで続いていました。まず、フール墓と呼ばれる、遺体を集落近郊の藪や海浜に安置するのが原始的な形態で、次に、ムヤと呼ばれる、遺体を屋形に載せて死者を送り出し、風化させた遺骨を改葬し骨壺に納めて拝むという形態が次の時代に登場し、改葬文化が発達していったようです。改葬とは、本土では墓を移すという意味ですが、南島では、遺体を3年から7年経ったものを掘り起こして女性たちが洗い清めて再度埋葬するという儀式のことを言います。それは神様になる道行だと言い伝えられています。その後、風葬を禁ずる明治政府の号令により、土葬、火葬に移っていくのですが、この時に、南島の人々は大変混乱しただろうと思われます。政府は1878年、沖永良部島に諭達を出しますが、島民は風葬を改めなかったため、警察官を派遣して崖葬墓を破壊します。同じようなことが与論島でも起こっています。それでも権力に抗して風葬を続けようとしたのは、死生観にまで国家が介入することへの無言の抗議の側面があったのだろうと私は思います。

三宅らは、フール墓について古代の南島人の骨の捨て場のように言うのですが、これは誤りです。私の解釈では、「フール」は「放る」が本来ではなく「送る」、「葬る」の意味です。

京大の対応への怒り

こうした経緯を顧みれば、京大の一連の対応は極めてずさんです。彼らは戦後、研究らしい研究をしているわけでもなく、ただ保管してきたにすぎません。我々は、2018年3月から返還に向けて京大に質問状を送るなどしてきました。2018年12月には、喜界島の遺骨収蔵箱の蓋が放置されているのが発見されたため、説明を求めました。京大はここに至って初めて遺骨の保管を認めました。我々は、約20項目の質問をしたのですが、京大は、3行ほどの回答を返しただけでした。つい最近、遺骨の数や管理情報の視認、返還に向けた総長との面会を要求したのですが、そこでの回答は、「2024年をめどに調査をしている」という誠に人を食ったもので、保管数の開示や視認、話し合いは拒否されました。我々は祭祀継承者に連なるものとして、返還を求めており、遺骨の管理状況を確認する権利があると考えています。琉球遺骨返還請求訴訟では、原告の当事者適格性、つまり、原告が本当に祭祀継承者なのかが論点になっていると聞きますが、これは日本の法律がおかしいと思います。むしろ問われるべきは、被告京大による管理の適性の是非ではないでしょうか。奪われた側にあれやこれや証明を求めるように法律はなっており、盗んだ側、研究者側が非常に有利になっています。遺骨はすべからく、郷土に還して埋葬するのが人間の精神・文化にとって重要なことは申し上げるまでもないことで、速やかに返還が遂げられなければなりません。

思い描く「死後」の未来と返還運動

京都大に返還を突き付けている奄美が、地元としてまとまりを欠いていることは正直申し上げておかねばなりません。なかなか地元でこの問題の理解が得られずに我々も苦労しているところです。しかしやはり、祖先の供養という考え方は継承されていますし、正月になると必ず一族が集まって墓正月というものをやる習慣もあります。一方で、発掘調査された遺跡において遺骨の放置が見られます。私はここに死生観の混乱があるのではないかと思っています。その原因は、風葬の禁止や火葬への移行、また先の戦争の影響もあるでしょう。戦争は死を日常化します。例えば米軍の空襲から逃れるためにムヤ、遺骨を納めている中洞窟に逃げ込んで、遺骨が邪魔になるということで外に放り出したりしていたようです。戦後になると今度は、民法で家督相続が廃止され、核家族化が進み、従来の風習は弱まっていき、最近では、管理者のいない墓も増えています。それは、慰霊という人間の生死観にも著しく影を落としていると私は思っています。

では、どうすれば良いのでしょうか。奄美大島の宇検村というところで成功した共同納骨堂の例を紹介します。村も都会へ人口が流出し、著しい過疎化に直面していますが、その中で墓の守り手がおらず、共同納骨堂の建設に踏み切った集落がいくつかあります。これは参考になるのではないかと我々は考えています。遺骨の返還や都会での孤独死の遺骨の受け入れなどを考えると、このような共同納骨堂の建設が喫緊の課題ではないかと考えております。

長く風葬が続き、いわゆる「平成」の時代になってようやく火葬に移行した与論島では、それだけ葬法が独特です。地元の人が新聞に書いたエッセーによりますと、死者は霊屋に乗せて担がれ、葬列の後ろから「じんぷーどぅ、よーよーどう」と声がかかります。「じんぷー」とは順風、「よーよー」とはヨーソローの意だそうです。そこでは死出が航海に擬せられ、まるで宇宙に旅立つ古代エジプト王のようです。死は無意味・無価値なものでは決してなく、我々の第一章の終幕にすぎないかもしれません。このように葬送や遺骨信仰が独自な南島では、それ自体が文化です。守り伝えてこそ人類の未来はより豊かになりうると考えます。

最後に、琉球遺骨返還訴訟の原告団を率いる松島泰勝氏の言葉を紹介させていただきます。「琉球人遺骨返還運動は琉球人の過去・歴史・記憶を取り戻す運動でもある」。我々も奄美の遺骨返還運動の結束に向け、この言葉を胸に刻んで参る所存です。

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原井一郎(はらい・いちろう)
「京都大収蔵の遺骨返還を求める奄美三島連絡協議会」事務局長、フリーライター

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