【連載第四回】吉田寮百年物語(2019.11.01)

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連載にあたって


京大が吉田寮現棟の明け渡しを求め、寮生20名を相手取って起こした裁判の第2回口頭弁論が、10月7日15時から京都地裁で行われた。こうした状況を受け本紙では、7月16日号より「吉田寮百年物語」の連載を開始した。吉田寮の歴史を振り返り、今後のありかたを考える視点を共有することを目的とし、連載にあたり吉田寮百年物語編集委員会(※)を立ち上げた。第三回では、第二次大戦後の混乱を振り返り、吉田寮の「自治」を考察した。今回は、1960年代の増寮運動などを振り返り、元寮生による寄稿から当時の生活に迫る。

※吉田寮百年物語編集委員会
メンバーは「21世紀の京都大学吉田寮を考える実行委員会」や「21世紀に吉田寮を活かす元寮生の会理事会」の会員と趣旨に賛同する個人で、京都大学新聞社が編集に協力している。

《通史》増寮運動 (1959年~1967年)


寮の名称と「寄宿舎規程」改正運動

1959年2月、大学は「寄宿舎規程」を制定し、その中で初めて正式に「京都大学学生寄宿舎吉田寮」という名称を付与した。1952年、宇治分校に1回生向けの寄宿舎が完成すると、それを「宇治寮」と命名し区別したが、この時点では吉田寮は従来の「京都大学学生寄宿舎」という名称のままだった。1960年、寮生の自治会規約「自治憲章」の改正で初めて「吉田寮」を採用した。以降、本稿では「吉田寮」と表記し、また「舎生」を「寮生」、「入舎選考」を「入寮選考」と表す。

1962年5月、寄宿舎規程改正運動が開始された。寮生の要求内容は、入寮選考を寮生のみによって行うこと、退寮処分を寮生大会で寮生が決定することだった。背景には、松浦玲さんの退寮処分を機に入退寮権を寮自治会が完全に持ちたいという志向があった。改正前の規程では「学生部長が選考を行う」とあり、運用実態は、学生部職員と寮生の二者が出席する面接選考方式が慣行として踏襲されていた。

1963年2月、寄宿舎規程が改正された。寮生の要求の一部が認められ、「寮生活の運営は、寮生の責任ある自治による」と寮自治の存在が規程に盛り込まれるとともに、「退舎させる場合は、寮生代表および当該寮生の意見を聴取する」「入寮選考は、寮生代表の意見をきいて、学生部長が行なう」となった。しかし、これは規程の内容を運用実態に近づけただけで、寮生のめざす入退寮権の獲得には至らなかった。

増寮運動の展開〈2千人寮プラン〉

京大の新入学生数は、戦後間もない頃は、約1300人である。ところが工学部の拡充に伴い新入学生数は急増した。1960年は1728人、1964年は2264人、1968年には2504人となった。

入学生数の増加に比して、寮の定員増はわずかだった。他大学と比較してみよう。1963年の調査では寮の定員数の全学生比は次のとおりである(カッコ内は自宅外通学者比)。東大は15%(31%)、阪大は8%(23%)、北大は13%(21%)と軒並み自宅外通学者の2割以上を寮に収容できていた。一方で京大は、8200名の学生数(うち自宅外通学者は5700人)に対して、寮の定員は350人。比率では、4%(6%)と極端に低い数字である。

加えて、1961年に宇治分校が廃止されると、それまで宇治キャンパスで学んでいた1回生が、吉田キャンパスで学ぶようになり、左京区近辺の下宿難は深刻になっていった。

1962年、寮生は同学会厚生部と協同して、増寮運動を開始した。入学者増は寮だけでなく、キャンパス内の食堂などの厚生施設の不足や、学生の居場所が無いという問題を引き起こしていた。増寮運動は教養部学生会館の要求運動と同時に行われた。

増寮計画は当初、吉田西寮(1959年開設、定員76名)と宇治寮(1952年開設、定員80名) の建替の名目で進んだが、次第に「2千人寮プラン」という内容に発展していった。これは、1971年までに定員2千人をめざして増寮を進めるという構想である。2千人寮計画の実現は、大学・寮生双方の合意事項になった。

1965年4月、プランに基づき熊野寮のA棟(200人)及び食堂が開設した。同時に宇治寮は閉鎖。翌年にはB・C棟(220人)が完成した。熊野寮の開設で寮の定員は、全学で670人となったが、これでも全学生の7%、自宅外通学者の10%を収容するにすぎなかった。新寮の設計で寮生は「人格向上」の理念を掲げて、相部屋だけでなく1人部屋も盛り込むよう要求したが却下され、全室が相部屋(4人部屋と2人部屋)になった。同じ1965年10月、大学は吉田寮南庭に「外人寄宿舎」 を着工しようとしたが、吉田寮が新寮用地の確保を主張したため断念した。ところが、1966年3月、その敷地の一部に楽友会館の娯楽場(ビリヤード、麻雀)の工事を開始した。吉田寮は抗議したがそのまま完成。今では営業していないが「国営雀荘」と言われた。

この頃の吉田寮生の生活ぶりを見てみよう。1965年の寮内アンケートでは、仕送りのない寮生は50%、親に逆に仕送りをする寮生は5%存在した。同年の日本育英会奨学金の応募資格が5人家族で年収72万円以下だったのに対して、吉田寮の応募資格は年収52万円以下と厳しかった。

文部省の学寮運営方針の変容

文部省の学寮運営方針が変わった。1962年7月の学徒厚生審議会答申「大学における学寮の管理運営の改善とその整備目標について」で、「学寮は貧困学生の収容施設に終わってはならない」「学寮の有する教育的意義をより効果的ならしめる」との考えを示した。寮生は、この答申を文部省による寮自治への介入であると警戒した。

さらに、1964年2月、文部省通達「学寮における経費の負担区分について」(2・18通達)で、寮の光熱水料の個人負担を指示した。同様に、学生会館や生協へも別の通達を示して、光熱水料の負担を求めた。

学寮は、旧制高校においては国家の求める人材育成という位置付けから、光熱水料は公費でまかなわれていた。戦後も、徐々にいくつかの大学で個人負担が導入されたが、多くの大学では請求は見送られていた。2・18通達は、個人負担の原則を全国の大学で徹底しようとしたものだった。

同年8月、文部省は「○○大学学寮管理運営規則(参考案)」(○管規)を作成。寮の管理運営の徹底と標準化を目指したもので、入退寮の許認可権、光熱水料の徴収権等、学生部長の権限と責任を明確にしたものだった。

これら一連の学寮政策の変更は、一つには高度経済成長期にあって、政府が文教費の効果的な活用を目指し、国の負担を軽減するため国民(寮生)に負担を求めたことによるものである。第二に、1962年に大学管理法案が廃案になった代わりに、文部省が各大学の運営に干渉する方法として、予算執行権への介入を図ったことが背景にあった。

全国で新方針への反発運動

「2・18通達」「○管規」の適用は全国の学寮、学生会館、生協で反発を生んだ。

1965年から1967年には、お茶の水大学、静岡大学、山形大学、佐賀大学、宇都宮大学、長崎大学、九州大学などで寮問題をきっかけに大規模な学生運動が発生した。

一方、京大当局は、文部省に対し、以前からある「京大寄宿舎規程」の存在を示し、他大学のように「○管規」をダイレクトに適用することはなかった。「京大方式」と呼ばれる自主路線を歩み、「大学自治の尊重」の形を保つことで、大きな学内対立を避けた。ただし、既存の寮(吉田寮、熊野寮等)では光熱水料の適用は継続審議扱いとしたが、新寮を建設する場合は負担を適用することとした。

吉田寮は政府の文教政策そのものに寮問題の根元があるとして、「学内共闘から全国共闘へ」「生活防衛闘争から政治権力闘争へ転換」(1965年)を唱え、寮運動のエスカレーションで、京大の自主路線に揺さぶりをかけようとした。

奥田東総長は、寄宿舎誌『去来』12号 (1965年2月発行)に「学寮に寄せる」というメッセージを送ったが、双方の溝は深まっていった。

熊野寮の寄宿料不払い闘争

1965年6月10日、寄宿料の3倍値上げ(1人300円/月)反対をきっかけに、「寄宿料値上げ反対」「炊フ公務員化」「光熱水料の国庫負担」を掲げて、吉田寮と熊野寮は「寄宿料不払い闘争」を宣言した。実際の不払いは寮費が3倍となった熊野寮のみで、吉田寮は熊野寮生の不払い闘争に連帯した。

奥田総長は、寄宿料不払いの不正常状態を理由に、増寮予定の「修学院寮(400人収容予定)」の概算要求を取りやめた。加えて、一旦は寮自治会と合意していた炊フの公務員化も凍結した。

熊野寮生に対して、不払いの切り崩し工作が行われた。1966年1月、大学は熊野寮生全員に寄宿料支払いの督促状を送付。1967年2月には、寄宿料不払いを続ける熊野寮生のうち法学部生に対し、不払いの件で法学部教授が個別に面接する事態もあった。

寄宿料不払い問題は、大学側と寮生側の膠着状態が続く中、1967年12月、熊野寮の寮生大会で「寄宿料不払い解除」が決議され、不払い闘争は、寮生側の敗北に終わった。しかし、むしろこの敗北の経験が、1969年へ向けて寮自治会の方針に影響を与えることになった。

《記録》新寮(熊野寮)建設闘争の記憶


【寄稿】折茂勝巳(1961年~1965年在寮、工学部卒業)


山本駿一(1963年~1967年在寮、農学部卒業)



吉田寮生として1960年代の増寮運動を経験した折茂勝巳氏と山本駿一氏から当時の経緯や体験について寄稿していただいた。第1章と第2章は折茂氏の、第3章・第4章は山本氏の執筆による。

1 入寮事情

群馬から一浪して入学できたのは良いけれど、貧しい小農家で家からの仕送りは期待できず、寮に入れてもらわないと学生生活が成り立たない状況の下で、合格通知を受けて厚生課へ入寮相談に訪れたところ、寮務掛長さんが、入寮できるまで我が家に泊まりなさい、とご親切に言ってくださり、引っ越しなどのアルバイトをしながら、吉田西寮への入寮がかなった。私以外にもう一人一緒にお世話になったが、この掛長さんご夫妻へのご恩は、今も忘れることはありません。

定かではないが、吉田寮入寮希望者倍率は2・6倍位で入学した工業化学科の入試倍率2・3倍よりも厳しい事にびっくりして、気をもみながら結果の掲示を見たような記憶がある。入寮選考(寮生選考委員面接)の合否は貧困度競争で行われた。アジア・太平洋戦争で父親を亡くされた家庭、あるいは外地から引き揚げて苦しい生活を強いられている家庭などの出身者も多く、その収入証明書を入寮申込時に提出し、選考面接ではその内容質疑が中心であった。合格者は全員「吉田西寮」へ入寮した。

吉田西寮では6人で15畳2部屋に入居であった。2食付きで月額3000円ほどで済む寮のお蔭で奨学金とアルバイトで学費納入遅延はありながら、何とかやりくりできた。この有難みを自ら常々感じ、入寮してみてさらにアルバイトをして、実家へ送金している正に赤貧洗うがごとしの寮生がいることも知り、京大の学生寮を増やす必要性を強く感じていた。(折茂勝巳氏)

2 増寮闘争

西寮を合わせた吉田寮の自治運営は南・中・北と第一西(西寮第一棟と第四棟)・第二西(西寮第二棟と第三棟)各寮が各代表として「総務」を選任して、「総務会」を形成し、合議制で行われていた。吉田寮は、この総務会を中心に、新寮建設交渉を行い、2年ほど前から、吉田・宇治・女子寮の3寮連合闘争委員会の名で、2千人若しくは3千人寮実現の団交を開始していた。大学側は、修学院オートメーション研究所跡、上京保険所跡、黒谷の寺院用地、宇治郵政省職員研修所転用などの案を示していたが、実施具体性が見られず、吉田寮総務会は、より強力に進めるため「新寮建設闘争委員会」を設立することを提案し、1963年11月吉田寮全体の決議機関である舎生大会(当時の呼称)で承認された。以後この闘争委員会が中心になり、新寮(結果的には熊野寮)建設闘争を推進した。

すでに南寮総務に指名されていた私は、この新寮建設闘争委員会の委員長にも選任され、他総務4人とともに、大学側との団交の中心役となった。闘争方針は「現状の寮の削減をさせずに、新寮建設を確定させる。」であった。また「運動は生活の場である新寮を造る」ことであり、イデオロギー・セクト活動は不要ということが、暗黙裡に寮生に理解されており、寮内の戦術議論、大学側との団交においての、文字通り一致団結、役割の遂行がなされた。また広報などで協力してくれた同学会も同じ理解であった。委員長に任命された時、自分としては、前記目標を、日本で初めての、学生による、学生の今と将来のための学生寮として、何としても実現させなければいけない、という覚悟であった。そして、所属していたアイスホッケー部もこの時点で退部した。

この頃寮問題の交渉相手である学生部長、厚生課長、さらに総長ら大学側の方々は、新寮建設必要性は十分認識されていると寮生側は見ていて、如何に具体化を図ってもらうかが、重要戦術であった。そのため、大学側の学内及び対文部省交渉経過を確認した上で、早期実現のための要求提案を行う、というやり方が基本であった。12月になって、京大関係要求も入った補正予算審議情報が関係者からあり、12月16日に、新寮を含めた大学側要求が認められた、との情報をもらった。この知らせを受ける1週間程前から「チチキトク」の電報を受けていて、不安な気持ちを抑えつつ予算獲得の情報を得るまでは寮で待つことにしていた。その日の夜行列車で入院している高崎の病院へ急いだが、一時間遅れで死期に間に合わなかった。

その後新年あけに就任間もない奥田総長から年頭所感談話で「新寮建設は土地問題で望み薄」の話があった。またその後の総長団交で新寮予算を政府と交渉中との話があり、そこで2月1日、総長官舎へ夜8時に大挙して緊急団交に及び、総長から学生部長を予算折衝に東京へ派遣する、などの話を頂いたが、この時期は、実際は大学内での調整を行っていたのではないかと考えられる。

そして、3月4日に竹屋町の教育学部校舎を吉田の本部構内へ移し、そこへの「熊野寮建設計画」が発表され漸く具体化された。第1期は200人、全体で400人、2人部屋、4階建、2棟案であった。これにより薬学部が要求している、西寮4棟を返還しても、その分を補完できる新寮建設はほぼ確定できた。さらに学生部長からは、熊野の次に修学院オートメーション研究所跡地に新寮を建設するとの話を得た。

新寮闘争委員会はこの時点から新たな段階に入り、「寮生の設計参加」を要求し、「新寮設計委員会」を建築学科寮生を中心に設置し、寮生意向を集約し、建築学科西山研究室へ設計検討をお願いした。寮生意向集約については、同室人数と寮生活意義の2点を中心に全寮生にアンケートを実施し、次の2案のうち、第二案を採択した。
【第一案】全室8人、セパレーション配慮、集団性・自治・共同性考慮
【第二案】1・2回生は8人室、3・4回生は1人室にして学業環境配慮
西山研究室で検討していただいた結果、1人部屋は、最低6畳必要で、これでは収容人数が大幅減となり、計画達成は不可で、1・2回生は4人、3・4回生は2人の案を頂き、5月29日の舎生大会で議決された。翌30日の総長団交にて、⑴熊野第1期工事は寮生側設計に基づき着工、⑵第2期工事(B、C棟)の文部省予算申請は寮生が認めた内容で申請、⑶申請内容を寮生に明示、⑷申請順位を京大予算申請順位の高順位とする、が確認された。

以上が初代「新寮建設闘争委員会」の増寮運動の経過であった。この後の第1期熊野寮建設の様々な設備と自治活動準備、さらに第2期工事推進交渉などは、「第二次新寮建設闘争委員会」にバトンを託した。その中心メンバーの一人である山本駿一氏にその経緯をこのあとに記していただくことにした。

今振り返って気がかりな点は、修学院のオートメーション研究所跡地に熊野寮の次に学生寮を建設する、と団交時に学生部長が明言されたのをその後強力に追求しなかったことである。さらには、本新寮建設闘争開始前に吉田・宇治・女子寮3寮連合で、2千人又は3千人構想が大学と協議されていたが、本闘争委員会では、此の追求を怠ったことである。このことは、是非今後も追求してもらいたい。

本闘争の個人的な思い出として、熊野第1期工事の地鎮祭で、山岡学生部長と一緒に鍬入れをさせてもらい実現を実感できたこと、また第1期工事が完成し大学への引き渡し直前に工事を請け負った大阪「松村組」のご担当でアイスホッケー部1年先輩の強力ディフェンスT先輩が新築ピカピカの内部をみせてくれ本当に良かったと実感できたことである。また2012年の11月祭の折に、当時の熊野寮委員に案内してもらった際に、3名ほどの熊野寮生から、この寮を建ててもらってありがとうございました、とお礼を言われた。我々が建てたわけではないが、一時期建設運動に情熱を注いだ一員として、報われた気持ちになった。(折茂勝巳氏)

3 熊野寮の建設運動

1964年3月1日、経済学部の山岡亮一教授が学生部長に就任した。この時代に、前任者の芦田譲治教授とこの山岡教授が学生部長であったことが、寮自治会には幸運なことだったと思う。当然立場が異なるので意見の対立点は山程あったが、討論・会話を拒絶するようなことは殆どなかった。

1964年3月4日、大学側は「熊野寮」の建設計画を発表した。

とうとう新寮の建設予算が下りたのだ。土地と予算の確保が決まった途端、寮自治会は以前にも増して忙しくなった。兎に角翌年3月末までに熊野寮を開寮する為には、遅くとも7月迄に寮側が要求する新寮の設計図面を完成しなければならなかった。先ず予算獲得時の寮の設計図面を大至急で検討し、寮生へ説明。寮生からの建設案の収集と、設計委員会での実行可能性の検討と図面の作成等々であった。

当時の寮生が同意できる新寮プランは、吉田寮が個室と2人部屋で運営されていたこともあり、なるべく少人数の部屋を作りたいという意見と、1人でも多くの寮生を収容できる学生寮にしたいという、相反する意見があったが、検討を依頼した工学部建築学科西山夘三研究室での案を受け入れ4人部屋と2人部屋で片廊下という構想(当初510名案)に決着したのだった。

居室の基本プランが決まると、今度はその周囲に集会所・厨房・食堂・談話室・諸会議室等々、どのようなパブリック・スペースを作るかの検討に入った。色々なプランが出され、設計委員会はその素案を作製し、西山研究室に持ち込み、設計上の検討と図面化を依頼した。西山研の協力により8月中旬頃迄には、新熊野寮の設計図が完成した。

次にはそれぞれの場所に設置・収納する備品の、検討・試算の会議が続いた。

この年は、一方で熊野寮の第1期工事を推進しながら前記の通りそこに収納すべき家具・備品類を検討・試算し、来年度以降の熊野寮B・C棟の第2期工事予算の請求と確認をしながら、修学院寮(500人収容)建設の交渉と検討は継続した。また、宇治寮の廃寮化と熊野寮への統合の検討をしながら、熊野寮のC棟が完成するまでは吉田西寮の薬学部への返還は拒否し、吉田寮を廃寮にして跡地に学生会館を建設する計画案が浮上すると、それに対する対応策と反対表明を出し、夏期休暇中は手分けして全国の国立大学の学生寮を訪問して、自治寮及び厚生施設と、寮自治会と大学側の対応等についてのアンケート収集と実態調査を行った。(山本駿一氏)

4 熊野寮開寮と寮費不払い闘争

1965年3月下旬、熊野寮B棟、C棟の建設予算が下り、吉田西寮の第三棟のみを薬学部に明け渡すことに合意をした。

同年4月5日熊野寮はA棟だけで完成し、168名が入居した。宇治寮生は全員熊野寮に移転し、宇治寮は明け渡した。熊野寮自治会は吉田寮からの転居者で暫定委員会を構成し、新入寮生の受け入れとオリエンテーションを行なった。

同年4月、大学院生の寮として室町寮が開寮した。昭和初期建造の木造建物を転用した寮だった。 (上京区竹園町:大学院生寮、約20名)。

同年4月22日吉田寮寮生大会。「京都大学学生寄宿舎・自治憲章」を改正。寮自治会を総務制から委員会制へ改組した。その後に熊野寮では委員長選挙を行ない、私が初代熊野寮委員長に選ばれ、正式な寮委員会へと移行した。

同年5月、学内問題対策協議会(学対協)の吉田寮全体を移転して跡地に教養部学生会館を建設する第二案に反対決議。教育学部教授会に熊野寮敷地内に残る校舎を本学内に移転する事を確認し、熊野寮B・C棟の用地として確保した。

同年6月9日吉田寮寮生大会。負担区分反対、寄宿舎規程8条(入舎者の寄宿料及び光熱水費の納付義務)撤回、熊野寮寮費値上反対を決議。

同年6月10日熊野寮寮生大会。「寄宿料、光熱水費の不払い闘争宣言」を可決。

同年6月、熊野寮C棟の収容人数が予定の168名から86名に変更となっている事が判明。

この頃から吉田寮・熊野寮・女子寮は大学に対しては3寮で連合して対応するようになる。3寮の委員会は「寮費と水光熱費の不払い闘争」を続けながら、大学側に必要な事項の要求を続けた。熊野寮食堂は、空間だけは出来上がっていたが炊事の設備は第2期工事だったため機能せず、熊野寮生も吉田寮食堂を利用することになったため、吉田寮の炊夫さんの増員を要求し、更には公務員化を要求した。「2千人寮の実現」を目標とする熊野寮以降の修学院寮(500人規模)を要求し、2・18通達(受益者負担原則)に反対する寮費・水光熱費の不払い闘争を継続した。同年12月、熊野寮の冬の暖房費で大学側と団交。不払闘争中にも拘わらず、大学側が寮1室当たり石油ストーブ2台と石油代は支給する事で決着した。

1966年、私は4回生となり、寮委員会から離れ、熊野寮から吉田寮南寮に移った。熊野寮開寮当初は吉田寮と熊野寮との間で、在寮者の相互移動が行われていた。

このように、寮委員会は大学側と、細かく具体的な交渉を続ける中で、必ずしも成功例ばかりではなかったが少しずつ成果を積み重ね、学生寮の生活実態を確保・改善し支持を獲得していった。寮委員会の、この具体的で緻密な要求行動スタイルが、後に1969年1月の全共闘の荒波の中で、京都大学では寮委員会が、学生運動の重要な局面で、運動の方向を反転させるほどの機能を果たしていくことになった。(山本駿一氏)

自炊の安全と調理場の大改修を達成した吉田寮の自治


【寄稿】冨岡勝(近畿大学教職教育部教授、元寮生)


奈倉道隆(医師、東海学園大学名誉教授、元寮生)



寮自治の一つの柱である自炊制度は、食の安全・健康の保持が大切な目標であった。しかし残念なことに1958年6月、多数の寮生に発熱下痢症状が発生した。直ちに自治機能の一つである衛生部(医学部寮生)が懸命に努力し鎮圧した。「原因は調理場であろう」と推測され、直ちに総務部・炊事部・衛生部が協議し、再発防止対策に乗り出した。

吉田寮には『総務日誌』があり、南・中・北寮の総務が、当番を決めて毎日その日の出来事を書く習わしがあった。幸い当時の日誌が京都大学大学文書館で保存・公開されているので、執筆者の冨岡勝が関係する記事を見つけて書き起こした。また奈倉道隆は、当時の衛生部の一員として総務部・炊事部と共に活動した当事者であった。この史料を活用しながら、一連の経過を紹介し、当時の寮生がいかに自治の機能を発揮したかを紹介したい。以下、引用箇所はすべて『総務日誌』より。

下痢患者の発生と緊急対応

6月27日(金)記事より
「寮内に下痢発熱を伴う患者が相当数発生せり。」

6月29日(日)記事より
「相変わらず天候が悪く、その上温度が高くて気分がうっとうしい。いろいろな悪条件が重なったためか寮内では下痢発熱患者が急速に増加した。これに対して各寮衛生部はその治療と予防に力を尽している。〔略〕食堂の調理場がかなり不衛生であることは、早急に改善を要する。これについては衛生部が調査することになった。なお下痢患者に対しては、カユをつくり、一般寮生に対しても、それを未然に防ぐ意味からも、米の質を上げ(内地米九:外米一)、ネーベン〔副食のこと〕も極力消化が良く、腐敗し易いものを避けている。」

7月1日(火)記事より
「ここ数日間多数発生していた下痢発熱患者も殆ど快方に向い、今日ではおおかたなくなったのは喜ばしい。」

寮自治会衛生部が大腸菌調査

その後の経過を要約して述べる。衛生部のメンバーが公衆衛生学の実習を兼ねて調理場の汚染度を測定しその測定値を生協西部食堂や楽友会館の調理場の測定値と比較したところ、場所によっては数十倍も汚染度が高い事実を客観的データで示した。特に食器の洗い場の不備、流しの下水の水はけの悪さなど施設の問題が判明。これを受けて7月14日、総務部は炊事部・衛生部のメンバーを加えて会議を開き、翌15日には、総務部、炊事部、衛生部、炊夫3人が、宿直室に集って改善方策を現場の意見を聞いて検討した。

7月17日には児玉寮務掛長が来寮し、事務室で懇談。大腸菌調査の報告書を手渡して説明し、寮生がまとめた炊事場改善案(炊事場排水設備の改善、流し等の改修、食器洗い場の三槽化、野菜洗い場・網戸・紫外線殺菌灯・泥ぬぐいマットなどの設置)を伝え、工事を夏休み中に実施するよう要望した。児玉掛長は、「安うけ合いしても、出来なくなると困るから、課長、技術課とも十分相談して意にそうようにしたい」旨を答えた。18日には、児玉掛長が再び来寮して調理場を視察し、「大学の技術課は1年間の予算計画があって大きな工事はすぐにはやってくれないが排水設備と流しは何とかしたい」と述べた。

医学部公衆衛生学教室の協力

7月19日(土)記事より
「衛生部奈倉君が公衆衛生学の西尾教授にお会いして調査結果をお見せしたところ、『緊急に設備改善が必要な問題だから私が厚生課長にお会いして相談する』と話され、二五日に厚生課に行かれるようだと報告があり、これをきっかけに設備の改善が早く実現することを望む。」

調査は公衆衛生学の村上助手の指導を受けながら行っており、村上先生は意見書もお書きになったようである。総務日誌には書かれてないが、厚生課長の方から西尾教授に会見を求めて懇談が行われ、事態が急速に進展した。

炊事場改修の早期実現

日誌にその後の経過が記されている。7月28日(月)、例年通り食堂は8月20日まで休止。8月5日(火)、炊事場ガス工事開始。8月6日(水)、「明日から炊事場改造工事始まる」。8月20日(水)、「炊事場改修工事はガス工事をのぞいてすべて完了」。8月22日(金)、「本日より食堂を開く」。

9月9日(火)記事より
「午前十一時過ぎ総務部一同厚生課におもむき(衛生部奈倉君同行)、児玉掛長、角南課長に挨拶、課長より、あの様に科学的なデータを出されると、ことが生命に関するものだけに放っておけず会計課も了承してくれてうまく行った。自分も比較的早くやってくれたことについて驚いている旨説明あり。」

9月12日(金)記事より
「公衆衛生学の西尾教授と村上助手に御礼の為、総務部(岡崎・福地)、衛生部(奈倉、小池、馬庭、森田、中川)が揃って挨拶に行った。教授は炊事施設が一応整った上は、食事内容についても一度検討してみる必要があるのではないか、又、炊夫専用の便所が出来なかったから、炊夫の手洗いを厳重にし、逆性石ケンを用いて常時洗うようにした方がよい等述べられた。村上助手は炊事場大腸菌検査の際たびたび来舎されて指導され、又教授から厚生課長への意見書の作成に尽くされるなど、大変お世話になった。」

振り返って、寮自治の立場から見ると、この寮生の活動は、自炊の安全確保のために総務部を中心に寮生が活発に話し合い、炊事部や衛生部が主体的に活動して問題解決に専心した「責任ある自治」の典型例であったといえるだろう。

寮生が専門性を発揮して調査に基づく改善案を立てるなど、学術的な努力を加えながら大学の教職員の理解・協力を得て改修工事の早期実施に成功した、ということも寮自治の特徴の一つを示していると思われる。

また、1958年当時の寮生の取り組みが『総務日誌』に記録され、大学文書館を通して閲覧可能な状態になっているということにも注目したい。寮生の自治は、異なる世代への説明責任の側面でも大学と協力しながら努力してきたといえるだろう。

紙面紹介


2019年11月1日号紙面では、《通史》《記録》のほか、以下の記事を掲載しています。

・史料から見る吉田寮 奥田 東

また、《通史》で紹介した時代の写真や年表も掲載しています。ぜひご覧ください。

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