【連載第二回】吉田寮百年物語(2019.08.01)

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連載にあたって


京大が吉田寮現棟の明け渡しを求めて寮生20名を提訴し、7月4日、第1回口頭弁論が行われた。こうした状況を受け、7月16日号より「吉田寮百年物語」の連載を開始した。吉田寮の歴史を振り返り、今後のありかたを考える視点を共有することを目的とし、連載にあたり吉田寮百年物語編集委員会(※)を立ち上げた。第一回では、創立から一時閉舎までを振り返り、初代木下総長の理念を辿った。今回は、寄宿舎の再開から第二次世界大戦終結までの期間を振り返るほか、現棟の建築的価値を考察する。

※吉田寮百年物語編集委員会
メンバーは「21世紀の京都大学吉田寮を考える実行委員会」や「21世紀に吉田寮を活かす元寮生の会理事会」の会員と趣旨に賛同する個人で、京都大学新聞社が編集に協力している。

《通史》寄宿舎移転から終戦まで(1913年~1945年)


新しい寮の歴史が始まる

「東には36峰、北には比叡愛宕の両峰。東雲(しののめ)が薄らぐ朝と、夕陽に映える夕暮の景色は、得も言われないほどの美しさだ」

1913年9月11日、本部を離れて吉田近衛町に2階建の新寄宿舎が復活した。1年3カ月ぶりである。この建物が現在の吉田寮の現棟である。復活の感動を舎生が冒頭のセリフに表した。

2代目の寄宿舎との大きな違いは、南向きの一人一室制を採用したこと。旧寄宿舎も含め旧制高校の寄宿舎が相部屋制だったなかで、群を抜いて豪華だった。その狙いは、京大生の学力向上へむけた環境作りだった。

寄宿舎は、3棟を構え管理棟で連結。附属建物として食堂、浴場、洗面所があった。定員は117人。防火壁を数カ所に設け、防火に注意が払われた。後年、2回の火災が発生したが、いずれともこの防火壁でくい止め、全焼を免れている。

新たな寮運営

最初の入寮選考では、学生監(現在の学生担当理事)による面接が行われた。旧寄宿舎で大学当局に非難された「舎生による面接」は退けられた。それでも、旧寄宿舎の元舎生が入舎し、新しい寄宿舎の自治を作っていった。早速、舎生規約と実行箇条を定めた。規約の冒頭には、1906年の「総長の告示」を掲げ、「舎生は総長の告示に基づき自治生活を営み学生の研学修養を全うせん」と記した。初代木下総長の考えに回帰することは復古主義ではなく、むしろ自治意識の涵養につながると考えた。

自治組織は南寮、中寮、北寮から1名ずつ、総務を選出。3名で構成する総務部が寄宿舎を代表し、事務を執行した。決議機関として代議員による総代会と、全員出席による総会があった。他に衛生部、遠足部などの専門部が設けられた。

大学自治の拡大

1913年、大学で澤柳事件が起こった。これは、就任したばかりの澤柳総長が7人の教授に辞表提出を求めたところ、教授会が反発した事件である。結局、教授の任免は総長と教授会の合意が必要だと文部省が公式に認め、澤柳総長は翌年に退任。教授会自治が確立した画期的な出来事だった。

1915年には、学内の教授から初めて荒木寅三郎が総長に登用された。いわば「プロパー総長」の誕生である。

さらに、1918年、総長を学内選挙で選ぶことが実現。こういった大学自治の確立と拡大は、寄宿舎の自治運営にも好影響をもたらした。同年、入寮選考について舎生総会で舎生の参加を決議したところ、これを荒木総長が認めたのである。その後、学生監と舎生が協同で入寮選考の面接を行うことになった。

大正時代の舎生の生活

大正年間の舎生の生活はどうか。明治期と同様、遠足部主催で毎年、岩倉山に松草狩りに出かけている。この行事は終戦直後まで続いた。庭球部は、テニス大会、卓球大会を催し、三高生や京都一中の猛者をよんで対抗試合を行った。インフルエンザが流行すると、衛生部が薬品を配布した。暖房器具は当初は火鉢で、舎生はチケットで木炭と火種を購入した。1923年からは、電気ヒーターに変わった。談話部主催で講演会が催され、1915年11月には河上肇が「修学の態度、その他生活の態度」の趣旨で講演を行っている。

コンパの様子は、1920年4月の予餞会を見てみると、月桂冠と折り詰め弁当が出され、余興では小唄・端唄、義太夫、落語、化け猫踊り、琴尺八ビオロンが披露された。この時だけは、寮内で飲酒が許された。

寄宿舎の人気

1921年は、第一次世界大戦後の不景気が席巻した。鈴木商店の倒産、金融不安の頃である。京大生の就職率は前年の100%に対して、この年は40%と激減。一方で、授業料は1922年に年50円から70円に、1925年には100円に増額された。そのため、同年には学費の未納のため300人の除籍・中退者が発生した。そのころの京大の在学数は3千人だから約1割に当たる。世間では、「大学は出たけれど」という言葉が流行した。こうした中、寄宿舎は安く暮らせるという理由で入舎希望者が殺到した。1926年の4月選考は、欠員40人に対し、希望者が271人。約7倍だった。

ファシズムの嚆矢

1925年、京都学連事件が起こり、それに舎生の一部が関わった。学連事件とは、学生の研究団体である社会科学研究会(社研)と、それが加入する京都学生連合の活動に対する官憲の思想弾圧である。同年、11月15日に同志社大学構内に軍事教練反対のビラが貼られていたのを特高が発見。それを理由に、12月1日、京大社研と同大社研の中堅メンバー36人を逮捕。その中に舎生の熊谷孝雄が含まれていた。同日、川端警察署員は、大学当局に無断で本人不在中に寄宿舎の彼の部屋へ入り、そのうえ立会人無しで家宅捜索を行った。

このことが、大学の自治と学問の自由の蹂躙として大きな反発を呼んだ。特に、手続きを無視して大学当局の了解を得ずに寄宿舎を捜査したことが問題視された。

翌日の12月2日には、大学当局は学生拘束および捜査の不当性を主張し、府知事、警察部長、特高課長に抗議した。3日には、舎生大会で抗議を決議。14日には、法経一番教室に学生千人が集まり学生大会を開いて、学問の自治を守る宣言と決議を行い、内務大臣の弁明を求めた。また、法学部の佐々木惣一教授らと経済学部の河上肇教授らの教授団は、それぞれ意見書を発表し、研究の自由と学生の正当性を訴え、世間の支持を得た。抗議文の冒頭には、寄宿舎への不当捜査が述べられている。

しかし、翌1926年、内務省は前年の3月に成立したばかりの治安維持法の適用を決め、全国の社研メンバーが逮捕・起訴された。事件の新聞報道すら禁止され、反対の声は封じられた。この学連事件は、柳澤事件から始まった大学自治の拡大に対する揺り戻しであり、なかんずくファシズムの始まりだった。

昭和へ

1926年12月25日、大正天皇が死去。時代は昭和に突入する。天皇の病状悪化が伝えられると舎生一同と学生監は伏見桃山へ治癒を祈願した。容体の変化が毎日黒板に書かれて、12月26日に死亡が伝えられると一同で東京へ向かって深く礼をした。翌年のコンパは、大正天皇の喪中により余興を中止、酒も控えた。

食堂の自炊制度の始まり

1930年、食堂の業者委託を廃止して、寄宿舎で炊事人を雇うことになった。「自炊制度」が開始された。自炊制度の開始を記念して、この年から毎年12月は「自炊制度記念祭」を食堂で開催することになった。

記念祭は、総長、学生監、教授らも出席。挨拶を述べて帰ると、舎生たちの余興が始まる手順だった。この年の演目で「北寮土民団」が初めて登場して「土民踊り」を披露、大いに人気を博した。その後の記念祭では欠かせない名物芸となった。その様子は、裸になって墨で体を真っ黒に塗り、腰に蓑を巻いて踊るというもの。三高自由寮で行われていた「ジンジロゲ踊り」の一種であった。この土民踊りをきっかけに、帝国大学生である舎生の生活に旧制高校風の放縦さが見られるようになった。洒に酔って寄宿舎の窓を割る者、ストームを起こす者、三条の「正宗ホール」を借りた寄宿舎の記念祭で、徳利や脇息を持ち帰る者が現れ、そのたびに総務が謝りに行って、返却した。

再び存続の危機

1935年、寄宿舎の敷地の管轄が三高に移ると寄宿舎の存続問題が再発した。寄宿舎を移転するか、廃止するか、このまま三高の敷地のまま残すか。

廃止論の根拠に、或いは一部の者のために大学の経費をまかなうべきでない、或いは昨今の寄宿舎の風紀の乱れが問題であることがあげられた。そこで、総務部は、寮歌を制定して、イメージアップをはかり、また舎生のOB会組織「舎友会」を発足させ、寮の支持基盤の形成に努力した。そうこうしているうち、日中戦争が勃発し、時勢の急転で寄宿舎の存廃問題は棚上げになった。

1941年3月8日、中寮27号で発生した火事は中寮をほぼ全焼して鎮火した。原因は電気ヒーターによるもの。翌年6月、焼けた中寮は再建された。そのため、中寮は、他の寮とは作りが異なる。よりプライバシーを重視した間取りになった。

戦争の影響がさらに進む。以前は、西田幾多郎や河上肇などの講演会も開かれていたが、1940年以降は、寄宿舎内での思想・政治などの会合が禁止に。1941年からは、舎生総会の開催が禁止された。1941年に太平洋戦争がはじまると、大学生の在学期間が3年から2年半に短縮され、この年は、3月と9月の2回、卒業生を送り出した。さらに、1943年秋からは、学徒出陣によって文系学生が定員の20%まで落ち込んだ。寄宿生らも、20人、30人ごっそり抜けてゆく。残った理系学生は、勤労奉仕で学業に専念するどころでない。風呂の回数が、週3回から2回へ、電気ヒーターの使用も禁止。冬は炊事や風呂に使用する燃料を調達するため、総務は街中をあたった。こんな中でも、卓球大会やラグビー大会、レコードコンサートで、一時のやすらぎを得るのだった。

1945年に入ると、総務日誌には連日、空襲警報の有無が記されている。そして敗戦。むしろ、舎生たちは、この日から生活に落ち着きを取り戻している。

《論考》吉田寮現棟・食堂「京大最古」の建築的価値


吉田寮の現棟の一部と食堂は現存する京大最古の建物である。一般には本部構内の旧物理学実験場が1889年11月竣工で現存最古とされているが、2011年と翌12年に行われた建築家山根芳洋氏による調査実測で、1889年7月に竣工した旧制第三高等中学校(のちの旧制第三高等学校)創設時の寄宿舎(以下、最初の寄宿舎)が1913年竣工の京都帝国大学寄宿舎(現吉田寮)へと移築・転用されていることが明らかになった。明治期木造学校建築の生き証人ともいえる現棟・食堂は専門家の注目を集め、2015年に建築史学会と日本建築学会近畿支部から、それぞれ建物の保存活用に関する要望書が京大に提出されている。ここでは、山根氏の論文をもとに、現棟・食堂の建築的価値を考察する。

調査実測で判明

吉田寮現棟・食堂は『京都大学百年史』等の文献では山本治兵衛と永瀬狂三が設計、1913年9月に竣工したと書かれる。しかし、11年と12年に山根氏が行った調査実測、図書や図面等の史料との照合から、現棟と食堂は、1889年7月竣工の山口半六と久留正道の設計による最初の寄宿舎が移築・転用されたものであることが分かった。

食堂は回転して移築

山根氏は食堂の構造調査と実測図面の作成を行い、文献に残る最初の寄宿舎の図面や写真と照合して、食堂が最初の寄宿舎の移築であると突き止めた。

東西14・5間(1間=1820㍉)、南北10間の大きさの片側寄棟屋根の食堂建物は、最初の寄宿舎の平面図に描かれた食堂と重ね合わせることができ、その上でレンガ構造による防火壁までの西側部分が拡張されていることが分かった。

西側が元の構造に付け足し拡張されたことは屋根裏の梁の構成から判明、主要構造の材質の均一性から、構造材が寄せ集めの古材ではないことも明らかであった。

加えて、屋根裏の小屋組隅束柱の墨書きが移築を裏付けた。現在は食堂の北東に位置する部材に「西北隅」、東南に位置する部材に「東北隅」と墨書され、最初の寄宿舎では食堂は現在とは逆時計回りに90度回転した方角で建っていたことが分かり、これも史料と一致した。

山根氏は、最初の寄宿舎の食堂が一部改造を加えられているものの、全体としては非常によく残されていると述べている。

便所は4棟に分配

山根氏は史料で最初の寄宿舎の建築を解析し、現棟・食堂の実測結果と合わせて建物各部の寸法を推定した。そこから、現棟の便所についても最初の寄宿舎の便所が移築・転用されたものであることが分かった。

梁桁寸法は3640㍉で、最初の寄宿舎と現棟便所は同寸法、外観は、妻面の立面矩形と出入口、ガラリ(換気スリット)付越屋根、汚物汲み取り口の位置、その上部に並ぶ連続した窓、屋根の仕上げと形態、外壁仕上げなど高い類似点があった。

内部構成では、最初の寄宿舎の便所の大便用個室と小便用空間の配置も現棟便所と同様である。便所内の間仕切壁の装飾は、現棟の他の場所に見られない上に古様で、現棟の中では異質なデザインといえた。

以上の事実と食堂の調査結果、また消失と出現の時期、歴史的経緯と地理的近接から、山根氏は現棟便所についても最初の寄宿舎から移築・転用されたと考えるのが合理的と結論づけた。

なお、最初の寄宿舎の便所と現棟便所の相違点から、山根氏は最初の寄宿舎に2か所あった8間の長さの便所が3間の長さに切り離され現棟の4カ所の便所に転用されたと推察している。

階段も現棟に移植

現棟に6カ所ある階段について山根氏は次のように述べている。

階段室の幅は2730㍉で最初の寄宿舎と同一である。この階段の手摺親柱と手摺子にある3点や3線の文様は第三高等中学校を象徴する意匠であったと想像できるが、現棟においてはその手摺親柱の文様が壁面に埋没している。また階段側桁から巾木に繋がる意匠が途絶えている箇所がある。加えて、現棟が非常に限られた予算で建設された状況が分かっている。

これらより、最初の寄宿舎の3階建で3カ所あった階段が切り分けられて移植・移設されたと考えるのが自然と山根氏は結論づけている。

建材・建具等も再利用

山根氏は、最初の寄宿舎の便所から転用された便所内の建具と同一の建具が現棟の別の場所にも複数見られ、これらも最初の寄宿舎から取り外され転用されたと推察する。

また現棟床下の調査の結果、現棟の床下構造は、外壁基礎上の土台と部屋内へ延びる柱材を除きほぼ全てと思われるほど転用材が構造材として使われていると述べている。面付水平材である根太掛に見える痕跡から元は最初の寄宿舎の急勾配の屋根の桁材であった材木がここに使われていること、元は柱材であったことが分かるホゾ穴が残る床材があることなどが調査結果に示されている。

「再構成と再構築」

旧制第三高等中学校の創設時から工事管理者であった山本治兵衛が、大学の事情と限られた予算での寄宿舎の解体・新築が決まったとき、「再構成と再構築」の手段で健全な建築を達成したのが吉田寮だと山根氏は推測する。

山根氏は、吉田寮の建築群は「再構成と再構築」の観点から近代建築・現代建築においても建築価値基準の新たな分類になるとともに、その歴史的価値は人・社会・世相・文化など多角的研究が進めばさらに表象されるであろうと述べている。

学会も保全活用を要望

吉田寮の現棟・食堂が最初の寄宿舎から多くを引き継いだ歴史的建築であることは、今日、建築分野の専門家の間で共有されている。

2015年には学会が動いた。5月29日、日本建築学会近畿支部は「京都大学の保全活用に関する要望書」を、11月25日には建築史学会が「京都大学学生寄宿舎の保存活用に関する要望書」を京大に提出した。

京大は現在に至るまで要望書に対する表明等を行っていないが、現存する京大最古の歴史的建築である吉田寮現棟・食堂の保全活用をどうするかは、京大にとって重要な検討課題であろう。

紙面紹介


2019年8月1日号紙面では、《通史》と《論考》のほか、以下の記事を掲載しています。

・舎生日記拾い読み
・歴史こぼれ話 戦前期吉田寮の留学生事情
・史料から見る吉田寮 佐佐木 綱

また、《通史》で紹介した時代の写真や年表も掲載しています。ぜひご覧ください。

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