【連載第三回】吉田寮百年物語 (2019.09.16)

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連載にあたって


京大が吉田寮現棟の明け渡しを求め、寮生20名を相手取って起こした裁判の第2回口頭弁論が、10月7日15時から京都地裁で行われる。こうした状況を受け本紙では、7月16日号より「吉田寮百年物語」の連載を開始した。吉田寮の歴史を振り返り、今後のありかたを考える視点を共有することを目的とし、連載にあたり吉田寮百年物語編集委員会(※)を立ち上げた。第二回では、寄宿舎再開から終戦までを振り返り、吉田寮現棟・食堂の建築的価値を考察した。3回目となる今回は、戦後の混乱期を振り返り、吉田寮における自治に迫る。(文責:吉田寮百年物語編集委員会)

※吉田寮百年物語編集委員会…メンバーは「21世紀の京都大学吉田寮を考える実行委員会」や「21世紀に吉田寮を活かす元寮生の会理事会」の会員と趣旨に賛同する個人で、京都大学新聞社が編集に協力している。

《通史》戦後の混乱(1945年~1959年)


戦後の混乱下、寄宿舎の自治を維持

1945年8月15日、日本は敗戦を迎える。しかし、この日を境に軍国主義がたちまち崩壊し、民主主義の時代が始まったなどというドラスティックな変化はない。寄宿舎の舎生の価値観は、ゆるやかな変化にとどまり、戦後数年間は、戦前からの寄宿舎の自治の秩序が保たれた。

寄宿舎は、復員学生の収容問題に直面した。生活難の折り、入舎希望者は多かったが、全員は収容できない。そこで希望者の納得がいくよう入舎順位を決めた。例えば、第1位は「寄宿舎在籍のまま動員された者」、以下、訳あって退舎した者のうち「出陣学徒・応召学徒・動員学徒」の順で入舎の優先権を定めた。この時、収容数を増やすため、2人1室制や共用の集会室(和室)の一時使用のアイディアも挙げられたが、良好な勉学環境の維持を優先し、定員増案は却下された。

一方、1945年11月、在舎年限の規約を変更した。多くの学生に入舎の機会を提供するため、舎生規約では従来3年との在舎年限を設けており(医学部は4年)、留年者は退舎する決まりになっていた。但し、戦時中は軍事徴用のため休学が頻発したため、在舎年限に休学年数を算入しないよう取り決めていた。しかし、その規約のままだと、今後休学の形を取れば何年でも在舎できることになる。それを避けるために、再び休学年数も在舎年限に算入するよう改め、厳密な運用を強いた。復員学徒には変更の適用を除外した。

以上からは、厳しい環境下で良好な寄宿舎の生活環境の維持を計るとともに、その受益のルールは厳しく運用するという、寄宿舎の自治の態度が伺い知れる。

研学修養・切磋団体の旗を降ろす

1948年12月、舎生規約を改正。これまで寄宿舎の自治の目的を、「舎生は総長の告示に基づき自治生活を営み学生の研学修養を全うせん」としていたが、その「総長の告示」(1906年)の内容である「研学修養上重要なる一機関」「規律あり制裁ある一の切磋団体を組織する」は、戦後の新しい価値観にそぐわなくなっていた。そこで、木下総長の精神は受け継ぎつつも、自治の目的を「本寄宿舎は責任ある生活を営み、舎生相互の人格向上を図ることを期する」に改めた。

自由な住処へ

1949年、寄宿舎内の風紀の乱れを指摘する記述が総務日誌に散見されるようになる。例えば、大勢で大声を出して廊下を闊歩し、個人の部屋に押し入り散々にするいわゆる「ストーム」が再発。また、食堂の椅子を勝手に持ち出す、麻雀の流行、ラジオの音量をむやみに上げる、消毒用のアルコールを盗んで飲酒するなど、周囲に迷惑をかける行動が目立ってきた。総務はそのたびに注意を喚起したが、収まらなかった。

さらに、1950年4月、2回生になった新制大学の学生が入舎した。新制大学は前年に始まっていたが、1回生時は宇治分校に通っていたので、この年から初めて吉田分校へ来たのである。入舎選考に当たった総務は、新制2回生の面接について感想を漏らしている。

「彼らの考え方は想像以上に単純であり、固定化されている。要するにもとの旧制中学の高学年並みが大部分である。我々は古きを思慕するわけでないが、やはり旧制高校の存在価値を肯定したくなる」。

冒頭に敗戦を境にした変化は少ないと述べたが、寄宿舎に関しては新制大学の発足の影響による変化が大きかった。

大学は、菊地総長以降は寄宿舎について「切磋団体」の役割を望んでいなかったが、「研学修養」については期待し、そのため寮の個室制を実施してきた。しかし、大学も「研学修養」の理念を尊重できなくなった。1950年、厚生課が寄宿舎に2人1室制の実施を要求した。理念の維持よりもむしろ、深刻な下宿難への対応を優先し、貧困な学生を収容する厚生施設としての役割を重視した。ところで「研学修養」を放棄したことで、寄宿舎は、風紀の乱れを理由に閉鎖されるリスクが軽減した。

さて、2人1室制は、1953年に導入された。10畳と8畳の部屋計26室を2人部屋として使用、定員はこの時、121名から147名に増え、現在も公式的にはこの数である(吉田寮現棟)。舎生は相部屋に反対し、改築工事を行って完全な個室にすることを要求したが、費用の点でこの案は却下された。部屋を簡易なカーテンで仕切った2人部屋は、新入舎生に評判が悪かった。

楽友会館返還運動

寄宿舎の南隣に隣接した京大楽友会館は、京大生の憩いの場として戦前から親しまれてきた。しかし、1945年10月2日、進駐軍クラブとして接収され、大学の運営の手を離れた。クラブでは夜遅くまで音楽が奏でられ、ストリップが催された。その音は寄宿舎に漏れ聞こえ、舎生たちは迷惑を感じていた。

1951年9月21日、舎生大会で返還要求を決議。要求署名は千名にのぼり、大学や進駐軍などに働きかけた。1952年6月、返還された。

学園復興会議、荒神橋事件

1953年11月8日から全国の自治会代表者が集まって、全日本学園復興会議が京都で開催された。この時、大学と同学会(全学自治会)が法経一番教室の会場の使用を巡って対立。大学は、学外者を含む集会を不許可にした。8日の会議は同志社大で開催。11月9日、同学会は、会場不許可に対する抗議集会を、不許可となった法経一番教室を会場に選んで、大学の禁止を押して開催した。

さらに、11月11日、立命館大学(広小路校舎)の「わだつみ像記念集会」に合流するため京大を出発した同学会のデモ隊を、京都府警の警官隊が厳しく規制する事件が発生した。警官が荒神橋の両端からデモ隊を挟み込みこんだため、水のない石河原に学生が橋から墜落し、多数の負傷者が出た。その夜、負傷者を寄宿舎にかくまったため、デモ参加者の検挙を恐れた舎生たちは、寄宿舎の玄関を閉ざし、徹夜で見張りを続けた。幸いにも、警官はこなかった。

11月19日、警官隊の過剰な規制に対する抗議集会が時計台前で開かれ、未曾有の3500人が参加した。しかし、12月1日、会場無断使用の責任を理由に、大学は同学会の執行部6名を処分した。この中に舎生の松浦玲さんが含まれ、彼一人、退学処分という重い処分だった。

舎生大会では、松浦さんの退学処分反対と生活支援を決議。さらに、全学学生大会でも処分反対の決議が挙げられ、反対運動が展開された。退学処分は撤回されなかったが、引き続き松浦さんは寄宿舎に住んだ。

松浦さんの退舎を巡って

1954年3月1日、卒業予定の舎生の予餞会に、恒例に従い総長が出席した。その途中、松浦さんが会場に入室すると、大学関係者が退場しようとし、これを押しとどめる舎生と緊張状態になった。3月27日、厚生課長は「松浦が退舎するまで新入舎生募集をしない」と通告。やむを得ず、舎生大会で退舎を決議した。

この問題は、1955年末まで尾を引いた。実は、長期宿泊という扱いで松浦さんの在舎をその後も認めたからである。

1955年12月、厚生課長がこの長期宿泊を問題視した。結局、松浦さんと同居していた舎生は自主的に退舎、松浦さんの長期宿泊扱いも解除。さらに今後は、1カ月を超える宿泊は厚生課長の許可を必要とする取り扱いに改め、これで解決を図った。従来、宿泊者の許可は総務の権限にあったので、「寮自治の後退」と舎生の目に映った。

自治憲章の制定―学生側から―

松浦さんを巡る問題は、入退舎に関わる権利の重要性と、舎生規約の整備の必要性とを強く意識させた。

1955年12月、40年続いてきた「舎生規約」を大改正した。慣習に則っていた寄宿舎の運用を明文化した。改正を機に規約の名称を「自治憲章」に改めた。しかし、厚生課長から「この名称のまゝで学生部長に報告すると、現在の学生部と総長と(の)間の関係から考えてまずいことになる」と公表をやめるよう要望され、これに従った。つまり、寮内の申し合わせ事項として非公式に、自治憲章は出発したのである。

寄宿舎規程の制定―大学側から―

1959年1月、厚生課から寄宿舎に「寄宿舎規程案」が示された。規程案には、それまでの寮自治の運営実態に相反する内容が盛り込まれていた。例えば「学生部長は入舎希望者に対して選考を行う」とあるが、これまでは舎生と厚生課長が合同で面接し、合否を決定していた。また「所定の日までに光熱水料を納付しない場合は退舎させることがある」とあるが、開舎時から光熱水料は請求されることはなかった。さらには、退舎の権限は総務が有するというのが舎生の一般的な認識だった。結局、舎生との懇談の場における光田作治厚生課長と芦田譲治学生部長の「この規程は自治運営のあり方を何等変えようとするものではない」「この規程を最小限の管理事項のみとしたい」という趣旨の発言に舎生が納得し、同年2月、大学評議会で「京都大学寄宿舎規程」が承認された。

実務上は、入舎選考は慣行通り合同で実施。また光熱水料は、同年6月に厚生課が徴収を申し入れたが、舎生の反対にあい請求はされなかった。

こうした大学の「寄宿舎規程」と、舎生の「自治憲章」のダブルスタンダード状態は、一時的な解決でしかなかった。

《論考》寮「自治」考 「責任ある自治」とは何か


寄稿:福家崇洋・京都大学人文科学研究所准教授

3回目となる今回の「論考」では、京大人文科学研究所の福家崇洋准教授の寄稿を掲載する。福家准教授は、社会運動史を専門とし、これまでに吉田寮を巡る問題について意見を発信してきた。ここでは、歴史を振り返り、吉田寮の「自治」に迫る。

これまで京大当局は吉田寮生の退去を迫る理由として学生の安全確保をあげてきたが、2019年2月12日付で発表した文書「吉田寮の今後のあり方について」「現在吉田寮に居住する者へ」は寮の「自治」を問題視した。当局は上記文書で「時代の変化と現在の社会的要請の下での責任ある自治には程遠く」や「同様の無責任な行為・言動」などと書く。この件につき、寮の「自治」をめぐる歴史的な経緯を振り返りながら考えてみたい。

「責任ある自治」という文言は、「京都大学学生寄宿舎規程」第2条「各寮における寮生活の運営は、寮生の責任ある自治によるものとする。」から引用されたものである。この部分は後年改正されて追加された箇所で、1959年の規程制定時には記されていなかった。しかし、当局は寄宿舎の管理と運営を分けて考えることで、寮の「自治」に配慮していた。同時期に寄宿舎側が作成した規程制定の資料には、「その後芦田〔譲治〕学生部長とも懇談する機会を得、我々の寮が自治憲章等によつて何等の不足もなく運営されている実状を説明し、管理規程だと云われる寄宿舎規程や細則が、管理の面にとどまらず選考その他の運営のあり方に迄変更を生ぜしめるのではないかと云う全寮生の懸念を伝えたところ、先に厚生課長から示されたのと同様の考え方によつて、その懸念の不必要な事を説明された。」(京都大学々生寄宿舎総務部「学生寄宿舎規程制定に関する経過報告」1959年2月26日付、『吉田寮関係資料』I-100、京都大学大学文書館所蔵)とある。

よって、規程制定後でも、これまで通り寄宿舎の運営(上記によれば「選考」も含む)は寄宿舎自身に委ねられることが考えられていた。このため、寄宿舎側は「たとえば自治憲章、実行箇条等を遵守する精神を失い、舎生の機関によつて秩序の維持が不可能となる」ような事態でなければ、「大学制定の細則によつて運営のあり方を拘束する事はできないものとなりました」(同上)と記す。

その後、この寄宿舎規程については吉田寮側から問題提起がなされ、より運用実態にあわせるべく規程改正運動がなされた。その結果、1963年5月付で京都大学学生寄宿舎規程が改正された。とくに重要と思われる改正箇所を以下に引用する。「第2条 各寮〔吉田寮、宇治寮、女子寮を指す 引用者〕における寮生活の運営は、寮生の責任ある自治によるものとする。/2 寮生の自治に関する規則は、寮生がこれを作成し、学生部長の承認を得るものとする。その規則を変更しようとするときも同様とする。」「第4条 入舎する者の選考は、寮生代表の意見をきいて、学生部長が行なう。」(京都大学事務局『学報』3022号、1963年5月31日)

まず、この規程改正が寄宿舎側の意向を汲んだものであることは、寄宿舎側が策定していた「京都大学学生寄宿舎自治憲章」(1955年、『吉田寮関係文書』I-112)総則第2条「本寄宿舎は責任ある自治生活を営み、舎生相互の人格の向上を図ることを期する。」として、「責任ある自治」の文言が寄宿舎規程に追加されたことからもわかる。選考についても、もとは「学生部長が選考を行う」だったのが「寮生代表の意見をきいて」が追加された。

また、当時の京大の評議会に提出された公文書「京都大学学生寄宿舎規程の一部改正について」では、「改正理由」として、「学生寄宿舎の伝統ならびに現状に照らし、寮生による自治的運営を明確にすることにより、寮の教育的機能を一層向上せしめるよう、この規程の一部を改正するものである。」と記して、寮の「自治的運営」や「教育的機能」の向上を当局自身が強く謳っていた(『評議会関係書類 昭和37年9月〜昭和38年7月』MP00071、京都大学大学文書館所蔵)。規程では学生部長(のち副学長に改正)の関与が記されるが、それはあくまで寮側の「自治的運営」を前提にしたうえでのことである。

当時の『京都大学新聞』1963年5月20日付にも、規程改正の記事「寮規程改正される 〈学生の自治〉を強調」が掲載され、第2条について「寮生の〈責任ある自治〉が積極的に前面に押し出されている」として評価した。なお、同記事には、5月15日に寮生代表と大学側の間に「覚え書」が交わされ、第4条に「入舎選考については慣行を尊重する」という文言が付帯されたとある。

よって、規程の改正は明らかに当局が寄宿舎側の「自治」を法的に追認したものであり、この状況下で改正が行われたことを踏まえて、現行の規程を解釈する必要がある。

なお、「京都大学学生寄宿舎自治憲章」はのちに「京都大学学生寄宿舎吉田寮自治憲章」(1965年制定)と変更され、上記の総則第2条につづいて、第3条「本寮は自治寮たるをもつてその運営はすべて本寮寮生に依り行われ、本寮以外の何らの干渉を受けず本寮の自治の侵害は許さない。」が加えられた(『吉田寮関係資料』I-101、上記項目は「吉田寮自治会自治憲章」に改正されながら継承)。

以上の歴史的経緯を踏まえて、当局が発表した「吉田寮の今後のあり方について」「現在吉田寮に居住する者へ」の問題点を考えてみたい。まず1点目は、「本学は、基本方針を実施する過程において、吉田寮自治会による吉田寮の運営実態が到底容認できないものであることを認識するに至った。……しかし、この不適切な実態は、……学生寄宿舎である吉田寮を適切に管理する責務を負う本学にとって、看過できないものである」とあるのは、寄宿舎規程制定時における、管理と運営の別を踏まえた当局の見解と齟齬がある。当局が管理主体として運営主体(吉田寮)の自治慣行を尊重・追認したうえで、安全確保のため退寮を促すことはまだしも、占有移転禁止の仮処分命令申し立てや明渡請求訴訟などの法的対応に訴えたことは寮の「自治的運営」に対する侵害である。あわせて、その運営に含まれる新寮生選考を当局が一方的に禁止を言い渡したことも問題である。これらの措置は、寮の教育的機能の向上という寄宿舎規程改正の本来の目的と矛盾する。

もう1点は、吉田寮の「自治」に問題があったか否かである。寄宿舎規程制定時における寮側の認識として、運営に支障がある状態とは、「自治憲章」等を遵守する精神を失って寮内の機関による秩序維持が不可能となった場合が想定されている。この精神とは、「自治憲章」総則に記されてきた、寮生が責任ある自治生活を営むことや寮生相互の人格向上をはかることであり、自治寮として他からの干渉を受けないことである。少なくとも、現在の吉田寮がこの精神(及び寄宿舎規程の精神)を守っていないとはいえず、むしろ自治寮を守り受け継ごうとしているがゆえに今日の事態にいたっている。よって、当局の文書のように、吉田寮の「自治」に問題があるとは言えず、規程と歴史を解さない当局側の干渉こそが吉田寮の「自治」を脅かしている。そのことを以て吉田寮の「自治」に問題があるかのような印象操作を行い、対話を拒絶する当局の姿勢は、学問の府として誠実さを欠く。「自治」も歴史も忘れた大学に明るい未来は到来しない。

紙面紹介


2019年9月16日号紙面では、《通史》のほか、以下の記事を掲載しています。

・舎生日記拾い読み
・史料から見る吉田寮 森毅

また、《通史》で紹介した時代の写真や年表も掲載しています。ぜひご覧ください。

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