【連載第一回】吉田寮百年物語(2019.07.16)

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連載にあたって


7月4日、京大が提起した吉田寮現棟明け渡し訴訟が始まった。吉田寮を巡っては、新聞やテレビで度々報じられており、2017年の京大当局による「吉田寮生の安全確保についての基本方針」発表以降、全国紙・地方紙の関連記事は、162本を数える(「立て看規制を考える集まり」準備会有志の記録による)。教職員や元寮生らから声が上がるなど、多くの人が今後の動向を注目している。

こうした状況を受け、今回、吉田寮のこれまでを振り返り、加えて、今後の吉田寮を考えるための経験と視点を共有することを目的として、本企画「吉田寮百年物語」の連載を開始する。

京都大学新聞では、1999年に「吉田寮物語」を連載したが、今回は、その成果を踏まえ、より幅広い視点から吟味するため「吉田寮百年物語編集委員会」を結成した。メンバーは「21世紀の京都大学吉田寮を考える実行委員会」や「21世紀に吉田寮を活かす元寮生の会理事会」の会員および趣旨に賛同する個人で、京都大学新聞社が編集に協力している。

吉田寮はその前身である京都帝国大学寄宿舎を含めると、123年の歴史を持つ。過去に、少なくとも2回の一時閉舎と2回の廃寮危機を経験したが、そのたびに、大学関係者ならびに寮生らの努力で乗り越えてきた。本企画では、学生寮の存在意義を考察する事例研究として、123年を8期に区分し、事実に基づいて吉田寮の歴史を検証する。(文責:吉田寮百年物語編集委員会)

《通史》創設から一時閉舎まで(1897年~1912年)


京大創立と同時に寄宿舎誕生

京都帝国大学寄宿舎、現在の吉田寮が誕生したのは1897年9月11日。大学の創立は同年6月18日、授業の開講が9月13日なので、大学創立とほぼ同時に吉田寮が誕生したと見てよい。

大学は、第三高等学校(現在の本部地区にあった)の建物の一部を「間借り」してスタートした。同じ敷地内に三高の寄宿舎があったが、大学の寄宿舎はそこを使用せず、 大学事務室の平屋の一角を寄宿舎として代用していた。つまりは「間借り」の「又貸し」である。当時の総学生数47人の約半数にあたる24人が舎生となった。

1898年8月、三高の新しい校舎と寄宿舎が、東一条通り南側の二本松地区(現在の総合人間学部)に完成し、そこに三高が移転した。現在の本部構内にあった三高の寄宿舎を京大が譲り受け、それが2代目の寄宿舎となった。

2代目の寄宿舎の位置は、現在の附属図書館の北東にあった。勾配の険しい瓦葺き屋根の建物で、一見、2階建てに見えるが、実際はその上に広い屋根裏部屋を有し、3階建てになっていた。1階が自習室、2階が寝室。4~5人の相部屋生活で、90人程度が生活できた。寄宿舎の北の位置に、外廊下で繋がった食堂と浴室があった。

戦前から続く唯一の学生寮

明治・大正期は、旧制高校は1学年目に全寮制を採用するところが多く、寄宿舎を教育修養の面で重視していた。一方で、旧制大学は、旧制高校ほど寄宿舎の存在を重視していなかった。

京大以外の大学で寄宿舎が確認できるのは2例である。東大百年史によると、東大では1899年まで本郷に200人収容の寄宿舎があったが、本郷の医科大学拡張の際に閉鎖されたとある。駒場の農科大学に寄宿舎があったが詳細は不明。北大は恵迪寮を有していたが、1922年以降は、大学予科生のみを入寮対象とした。以上から、明治期から戦前に至るまで、大学生を対象に継続して運営された帝国大学の寄宿舎は、京大が唯一であり、それが吉田寮である。

京大における寄宿舎開設の動機は、はっきりしていない。初代の木下総長が残した文章を噛み砕くと「別にこれといった目的があって開設したのではなく、経済的に見て下宿よりも都合がよいから」というものだった。

しかし、設立の動機は曖昧であっても、木下総長の寄宿舎の運営方針は明確だった。それは、京大生や寄宿舎生を「大人君子(たいじんくんし=人格者)」として扱い、自重自敬、自主独立を期待して、学生の指導では細大注入主義を採らなかった。入舎希望者には制約条件を設けず、欠員が発生しだい入舎願書の提出順序で舎生になれる仕組みとした。

幸い、創設時は総学生数が少なく、教授と学生に親密な交流があったため、舎生たちは総長の求める「大人君子」像に応えることができた。舎生を放任していても、大学にとってトラブルとなるような事態は発生しなかった。

大学の拡充と学生気質の変容

理工科の開設(1897年)に続き、医科・法科(1899年)の設置というように大学の拡充が進み、1904年には京大の学生数が千人を超えた。この頃には、創成期にあった教授と学生の親密な人間関係は希薄になっていた。加えて、世間では日露戦争(1904年開戦)による政情不安、石川啄木の言う「時代閉塞の現状」が社会全体を暗く覆い、個人主義的な風潮や社会主義思想が、当時の学生に影響を与え始めていた。当然ながら、京大生にそうした思潮が浸透し、彼らはしだいに木下総長の「大人君子」像に収まらなくなってきた。

寄宿舎の舎生らの生活も放縦に流れていった。寄宿舎は下宿と比べて制約が少なく、きままな生活を送れるうえ、生活費用が下宿の半分で済むということから、「不心得な連中」がこぞって入舎するようになった。その生活ぶりは、例えば、外泊しようが遅く帰ろうがお構いなし、食堂の食費の滞納、部屋の変更を勝手に行う、という状態だったといわれている。

逆に、真面目な舎生は、この状態を嫌い、寄宿舎を退舎。その分の欠員を補充すると「不心得な連中」が願書の提出順で入舎するという悪循環に陥った。寄宿舎について大学関係者はもとより、周辺の住民からも「堕落の見本」とまで言われるようになっていった。

総長令で一時閉舎

日露戦争が終結した1905年秋、このような様子の寄宿舎を改革しようと「舎生有志」数名が立ち上がる。舎生有志は、それまで秩序のなかった寄宿舎を律するために規則を作り、事務を整理する委員を選出し、そのもとで寄宿舎を運営しようという建議書を提起した。つまり、自治組織をもうけようとしたのである。しかし、舎生有志が示した規則に含まれていた「秩序を乱す者への制裁措置」の内容が、他の舎生の反感を買うことになった。建議書を議論するために、臨時に総会が開かれた。当時、82名いた舎生たちの多くは「幼稚な規則は寄宿舎本来の理想に反する」「舎生は各自好むように行動すべし」「自由を尊重する」といった反対意見を挙げ、建議書は発議者数名を除いて、反対多数で否決された。

評判が悪くなる一方の寄宿舎に対し、木下総長は改革の道を探っていた。初めは自浄努力に期待していたが、総会での規約案の否決をきっかけに、創立時からの「大人君子」として扱う方針を放棄。同年12月15日に総長令として、寄宿舎閉鎖を発令した。

改革反対を掲げた舎生たちは、突然の閉舎令に驚いた。自由な住処を失うと同時に、滞納した食事代を精算する必要に迫られたからである。舎生たちは抵抗を試み、寄宿舎閉舎反対と木下総長辞職勧告書を提出しようとした。しかし、総長は、抵抗する舎生たちに「辞職勧告書を提出する以上は我去るか諸君去るか何れかあるのみ」という断固とした態度を取り、舎生に退学を示唆したところ、舎生たちは、辞職勧告書を提出することなく退却し、寄宿舎から退舎した。

教育的効果を目的に寄宿舎を再開

こうして、創設から8年で寄宿舎は、一時閉舎することになった。

閉舎令から1カ月後、1906年1月、木下総長は寄宿舎の再開の告示を行った。寄宿舎を「規律アル一ノ切磋団体ヲ組織」と定義した。この告示は、舎生を「大人君子」として扱った従来の寄宿舎の運営方針を改め、大学が一定の関与を行なうことを示している。同時に、寄宿舎は単に学生に経済的な便益を与えるための厚生施設という位置づけを退け、教育的効果を寄宿舎に持たせることとした。ここでいう「教育的」とは、寄宿舎で舎生が規律ある自治を実行し、お互いの舎生が切磋琢磨し成長してゆくことを意味している。「切磋琢磨の自治」については、次頁の「論考」を参照されたい。

さらに木下総長の寄宿舎再開の意図には、舎生ら自身の成長にとどまらず、寄宿舎で揉まれた舎生たちが、京都帝国大学生の模範となって、学生全体に好影響を与え、放縦化の傾向にあった風紀を改善することまで含まれていた。

1906年2月10日、学生監(現在の学生担当理事にあたる)の選考により57名の新しい舎生が入舎した。選考にあたっては、木下総長の唱える「切磋団体」に同意する学生が選ばれた。その中には、閉舎前に改革を試みた舎生有志が含まれていた。

新しい舎生らは、入舎にあたって、学風刷新の責務を一致団結して実行する内容の「舎生の決心」を総長代理に宣言した。また、入舎日である「2月10日」を「寄宿舎記念日」とし、毎年その日に祝賀式を開催し、決心を表明する習慣とした。

寮自治の始まり 学風刷新へ

再開した寄宿舎の自治団体は、4~5人の相部屋を自治の最小単位として、各室から1名の総代を選出、それら総代が集まって総代会を構成。さらに総代会から専務総代3名を選出し、彼らが日常実務を担当した。総代会の上部組織として舎生全員が参加する舎生総会を設け、重要案件はこの舎生総会の議決に諮ることとした。寮自治会の始まりである。

舎生の補充は、再開後の57名は学生監の選考によるものだったが、その後は、専務総代が面接を実施し、その選考を通過した者に対して学生監が入舎の許可を与える方式となった。

この再開後の入寮選考は、1960年代から吉田寮で行われているものとほぼ同様の手順である。1906年当時、この方式を採用した理由は、学生監の選考では選考が不十分になって、以前のような「不心得な連中」の入舎を許してしまうリスクがあるためだった。学風刷新の意識を持つ学生を適切に選考するには、普段から学生を見ている専務総代が確認するのが望ましいというのが根拠になっていたのだ。実際に専務総代は、入舎希望者の同窓(旧制高校)や同級生に聞き込み調査を行い、京大生として恥ずかしくないか、共同生活に適しているかを確認した。基準に適した人物がいなかった場合には、欠員が生じても合格にはしなかった。そのため、舎生数は、定員の90名を常に下回り、60名程度だった。

同じころ、学生の自治団体は、課外の運動組織として「運動会」、文化活動の組織として「以文会」、学科ごとの親睦団体として「同帰会」(理工科)、「法学会」(法科)、「芝蘭会」(医科)などがあった。それらの組織の運営に舎生らが積極的に関わり、学風刷新と風紀改善の気風を盛り上げた。旧制高校との交流会を呼び掛けたり、寄宿舎での宿泊の便を取ったり、食堂や集会所では近隣の旧制中学生を集めて講演会を催したりしている。寄宿舎の自治組織が、学生自治の結合点になっていた。

1907年10月30日、新任の2代目総長岡田良平が来舎し演説した。イギリスのパブリックスクールの男子全寮制のイートン校の例をひき、自治自研が人格の修養をもたらすとして、大学の教育には寄宿舎が最も大切だと語った。

菊池総長による運営方針の再転換

ところが、1911年6月、3代目総長菊池大麗は、「寄宿舎を1912年7月に閉鎖する」計画を発表。内容は、財政難から現在の寄宿舎を解体してその木材を利用して新寮を建てるというもので、舎生の在舎期限は1年後の7月までと定められた。閉舎ののち、移設工事が行われる1年3カ月の間、京大に寄宿舎が存在しない期間が発生することを意味した。

舎生らは、▼閉舎の決定が何ら舎生らに相談のないまま決定されたこと▼学風刷新の活動の担い手である寄宿舎という自治組織が1年間以上なくなること▼新しい寄宿舎の入舎選考は専務総代ではなく学生監だけで行われることに猛反発した。

新しい寄宿舎は、従来の4~5名1室制度を変更して、1名1室制にするとともに、選考基準については、「切磋団体」志向の者ではなく、学業優秀な者を大学が選んで入舎を認めることになった。

従来の寄宿舎では、相部屋は自治の基礎組織として機能していたが、個室制はその機能を必然的に排除する。また、学業の優秀さを選考の基準に置くことは、大学の学風刷新の自治活動を支えている寄宿舎の役割を否定するものであった。

菊池総長は、学生間の交友や切磋を認めながらも、当時の寄宿舎が持つ「過剰な自治機能」を問題視していたと言われる。さらに、当時の京都帝大は高等文官試験(現在の国家公務員試験)の不振が影響して、法科大学の志望者が激減していた。法科200名の定員に対して、その2割しか志望者がいない年もあった。京大は、風紀面の向上よりも文官試験の合格者増加を急務の課題としていた。

そこで、新しい寄宿舎の建設にあたり、学業優秀な学生に良好な学習環境を提供することを目的に、全室個室とした。この文脈では、それまで寄宿舎が担っていた学生自治の担い手としての役割は不要とされた。実際、再開した寄宿舎では、成績優秀な者から順に、広い1人部屋(8畳部屋の北寮2号室)に優先して入室する権利を有するという、競争心を煽る仕組みも実行された。

それに対して舎生たちは、新しい寄宿舎は「高等下宿屋価値」にしか過ぎない、なんら精神的価値を見いだせないものと見なした。舎生総会では、大学当局からの閉舎(1912年7月)を待つのでなく、自らで寄宿舎の解散を行うことを決定した。解散日は抗議の意を込めて、1912年2月10日の「寄宿舎記念日」にした。解散式の後、6月末までに舎生たちは、それぞれに退舎した。

こうして、1886年に三高の寄宿舎として建てられ、1898年に京都帝大に移管された寄宿舎は、解体されることになった。 近衛に新しい寄宿舎が開舎するのは、1年後の1913年9月を待たねばならない。

《論考》初代総長 木下広次と寄宿舎


寄稿:冨岡 勝(近畿大学教職教育部・教授)


京都帝国大学創立直後

木下総長は、1897年9月の第一回入学宣誓式(入学式のこと)において、「大学々生に在ては自重自敬を旨として以て自主独立を期せざるべからず。故に諸君は、既に後見を脱したる者として吾人は、諸君を遇するなり。因て平素の事は細大注入の主義に依らず自得自発を誘導することを努めんと欲す」と学生の自主性尊重を宣言したことで広く知られている。同時に木下は、学生に対して、青年の模範であることを強く求めていた。たとえば、学生、教職員参加の運動競技大会において木下は、賞目当てなどではなく、全国の学生・生徒全体の模範となるような競技態度をとるようにくり返し演説している。

このような木下にとって、京都帝国大学創立直後の寄宿舎は、学生の自主性に任せていても特に問題がなかった存在であったと思われる。寄宿料徴収規程と舎監(学生の取り締まりに関する職掌)が設けられていたものの、実際の寄宿舎生活に関しては、何も規則が設けられていなかったらしい。

1905年の状況

しかし、創立年には47名であった京都帝国大学の学生数は1905年には1331名(内、福岡医科大学249名)となって大規模化し、この年、カンニング事件など学生の「腐敗」が新聞で報道され、風紀の一新が学内で唱えられるようになった。こうした中で、寄宿舎生の風紀についても厳しい目が向けられていったらしい。1906年の再開寄宿舎で専務総代になった外山岑作という学生は、この頃の寄宿舎のことを「不心得な連中がどしどし入舎して来て規律は出来るだけ蹂躙する真面目な分子はたまらなくなって退舎する寄宿は堕落の標本であるかの如く一般学生からは元より大学付近の市人よりもみとめらる」といった状態であったと回想している。木下総長にとって、舎生を規則で縛らず大人君子として扱う方針を継続するのが難しい状況になっていたといえるだろう。

このような状況の中で、木下総長は、どのような選択肢のなかで、どのような選択をおこなったのだろうか。

廃止も監督強化も選ばず

まず「この機会に寄宿舎を廃止する」という選択肢があったと考えられる。

「最初大学の寄宿舎は別に之といふ目的のありて開設したものではなく云はゞ経済の点に於いて下宿より都合よいといふ位のことにて開設された」と数年後に木下が回想しているように、創立直後の京都帝国大学では、寄宿舎の役割が明確とはいえなかった。したがって、1905年に学生の風紀が問題視されたときに、維持費や敷地の有効利用を考えると、寄宿舎を完全に廃止してしまう選択肢もあったと思われる。

旧制高等学校では、1901年に皆寄宿舎制が実現した第一高等学校(現在の東京大学教養学部)などにみられるように寄宿舎が教育のなかで一定の役割を果たしていた。しかし、1905年ごろの帝国大学(当時は東京帝国大学と京都帝国大学の2校)では、寄宿舎の位置づけは明確とはいえなかった。

東京帝国大学では、1886年ごろは、200名を収容する寄宿舎に学生品行を監督する舎監が設けられ、学生全員を寄宿舎に収容する「悉皆入寮」計画も検討されていたが、数年後には「悉皆入寮」計画は尻すぼみとなり、1899年には、農科大学以外の学生が過ごす本郷キャンパスの寄宿舎は、医科大学の教室と附属医院等増設のために土地建物が使用されて閉舎されている。駒場キャンパスの農科大学には寄宿舎があったが、前身の農商務省東京農林学校につくられたものであった。

つまり、京都帝国大学寄宿舎の風紀が問題視された1905年において、京都帝国大学でも東京帝国大学でも寄宿舎の役割が、明確にはされていなかったとみなすことができる。木下総長にとって、新たな位置づけを行わない限り寄宿舎の存続は容易なことではなかったと思われる。

寄宿舎の監督を強化して、目の前の風紀問題をとにかく乗り切るという選択肢もあったかもしれない。規則を定め、舎生の生活状況を毎日監督する職員を置き、逸脱があれば罰則を適用するということは対処療法的には可能だったかもしれない。

しかし、社会的に一人前の大人として扱われていた当時の大学生に対して、寄宿舎での生活を規則で厳格に取り締まることは容易ではない。

そればかりではなく木下は、1888年から第一高等中学校(のちの第一高等学校)の教頭、校長を務め、寄宿舎の監督強化をおこなうかどうかの選択を迫られた経験を持っていた。

第一高等中学校では1886年ごろから寄宿舎の監督に兵営式の厳格な取り締まりを導入したが、夜間の「舎監襲撃」や食堂での「賄征伐」などの形で生徒の反発が強まっていた。こうしたなかで東京帝国大学法科大学教授・評議員であった木下が、1888年に「自重自敬」の奨励を宣言しながら第一高等中学校に赴任し、生徒たちの意見も考慮し、結論として、1890年に教育的観点から寄宿舎自治制(門限など生活上の規則を舎生間で話し合って決定、舎生の中から委員を選出して運営するなど)を導入する決断を下したのである。

自治奨励の一時閉鎖・再開

このような経験を有する木下が1905年の京都帝国大学寄宿舎について選択したのは、監督強化でも、廃止でもなく、自治の奨励であった。

木下は1905年12月15日の達示で約90名の学生が住んでいた寄宿舎の一時閉鎖を命じたが、わずか1カ月後の1906年1月19日に告示を出し、「本学寄宿舎カ研学修養上重要上重要ナル一機関タルヘキ所以ノモノハ在舎学生カ特ニ規律アリ制裁サル一ノ〔ひとつの〕切磋団体ヲ組織スルニ由リテ存ス」と述べて再開を宣言したのである。つまり、規則で取り締まる寄宿舎ではなく、学生が団結して自治を行う寄宿舎こそが大学教育上の重要な機関になるという捉え方、すなわち「自治をおこなう寄宿舎を教育機関として重視する」という方針を京都帝国大学の新機軸として打ち出して再開したのである。

寄宿舎自治の実施

再開された寄宿舎に入舎した舎生たちは、木下の方針を受け容れ、「吾人は茲に総長告示の旨を体し且我寄宿舎が本学に対する本来の責務を思ひ一致協力之が実行を期す」と決議し、舎内生活に関する「寄宿舎申合」を舎生大会で決定している。

大学側は再開後の舎生たちのこうした動きを尊重した。通史部分で紹介されているように、「切磋団体」に加わる覚悟のある学生を選考したいとする舎生側の意見を認め、事実上、舎生委員による選抜方式を認めることもおこなっている。

この連載を通じて具体的に示されていくと思われるが、自治という言葉に示されていた目的や活動内容は時代と共に変化していき、戦後においては大学側の寄宿舎方針と舎生・寮生の自治との間に緊張感が生じることもあった。しかし、初代総長木下によって「自治をおこなう寄宿舎を教育機関として重視する」という方針が示されたことは、その後の各時期の京大寄宿舎・吉田寮を理解する上で、重要な示唆となるのではないだろうか。

紙面紹介

2019年7月16日号紙面では、《通史》と《論考》のほか、以下の記事を掲載しています。

・舎生日記拾い読み
・史料から見る吉田寮 西島所感

また、《通史》で紹介した時代の写真や年表も掲載しています。ぜひご覧ください。

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