関西クィア映画祭2017 「当たり前からの解放」(2017.11.01)

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10月27日から10月29日までの3日間、京都大学西部講堂で、第11回関西クィア映画祭が開催された。クィア(queer)とはもともと、LGBTなど性の領域で普通ではないと考えられている人に対して使われてきた蔑称だが、この映画祭においては性の領域に留まらず様々な少数派を肯定するポジティブな言葉として使われている。
同映画祭は、多様性を肯定するための取り組みとして、会場に性別関係なく利用できるトイレを設けること、場内のアナウンスに口頭と手話を用いることなどをしていた。
今号では上演作品の中から、3作品を選んで紹介する。(編集部)

サウナと目覚めと葛藤と 『サウナの夜に』

『サウナの夜に』(原題:Spa Night)は、ロサンゼルスのコリアンタウンに住む青年デイビッドの、自身のセクシュアリティへの目覚めを描いた作品だ。コリアン・コミュニティ、貧困といった自身を取り巻く環境によって流されながらも、主人公は自身の同性愛性と向き合い始める。

デイビッドはコリアンタウンで育った在米韓国人2世で、両親の韓国料理店を手伝いながら暮らしていた。ある日、両親の店が潰れてしまい、一家は不安定な生活を送ることとなる。その中で、両親はデイビッドに期待をかけ、大学へ入学させようとする。デイビッドは貧しい家族のため少しでも稼ごうとサウナ(簡易宿泊所のようなもの)で働き始める。デイビッドは働くうちに、そこがただのサウナではなくハッテン場でもあることに気付き、自身の性衝動と向き合うこととなる。デイビッドは自身の性との葛藤の中、そこで行われる営みと接していくこととなる。

デイビッドの両親は20代の頃、「成功」を夢見て渡米してきた在米韓国人で、コリアンタウンの同胞達と助け合いながら、韓国料理店を営み主人公のデイビッドを育ててきた。両親は英語を話すことができず、同胞達の紹介でしか働き始めることができないが、2人はそのことを気に留めてはいない。また、デイビッドも大学受験のためにコリアンタウンの英語塾に通ったり、同じ2世の幼馴染の大学生に大学を案内してもらい同世代の2世達と遊んだりと、彼にとってもコリアンタウンは生活の場となっている。また、この作品ではデイビッドが両親と話すシーンが多く出てくるが、貧しくなり精神的にも不安定になっていく両親をそっと支えるデイビッドからは両親への愛を感じることができる。デイビッドにとってコリアン・コミュニティは生きる場所で、愛する家族のいる場所なのだ。

ここで、デイビッドのセクシュアリティについて触れたいと思う。デイビッドが、ランニングを欠かさず、隙さえあれば筋トレをするという描写がある。これだけではただの「体を鍛えるのが好きな青年」のように思えるが、筋トレの後、彼は鏡の前に立ち、スマホで上裸の自分を撮影し入念に筋肉をチェックし始める。また別のシーンでは、筋トレ後におもむろに全裸になり、局部を露わにしたまま全身の写真を撮る。彼は出会い系アプリや掲示板用のプロフィール写真を撮っているのだ。また、幼馴染の大学生の裸が気になってしまったり、同年代の韓国人の女の子のアプローチに苦笑いをしたりと、はっきりとは描かないものの、日常の些細な行動を映し出すことによって、彼の同性愛性を強くほのめかしている。しかし、先述のようにデイビッドにとって狭いコリアンタウンだけが生活の場だったため、同性愛の世界にインターネットではアクセスすることができたかもしれないが、現実では関わりを持つことはなかったのだ。

家計を助けるためと、デイビッドは英語塾をサボってまで、サウナで働き始める。サウナは在米韓国人にとって欠かせない存在で、家族で団欒したり、飲み明かした夜の休憩に使ったり、夫婦喧嘩の一時避難のために使ったりと、映画では頻繁に登場する。しかし、同胞達の交流場所としてのサウナも、男女が別になり裸の付き合いの場として捉えると、たちまちエロティックなものに転化する。

自身の同性愛性を自覚し、また同性愛の世界にアクセスしたことのあるデイビッドは、サウナで行われるやり取りの意味に気づいてしまう。身体中を舐めまわすような視線、誰もいないスチームサウナに入った人を追うように入っていく人、さらにその直後一人が入った途端不自然に他の場所へ移動しだす二人、簡易ベッドで不自然に動く人々。好奇心を抑えられず利用客を「釣って」ハッテン場であると確かめたり、家族への後ろめたさから従業員としてハッテン行為を取り締まったりと、デイビッドの「コリアンタウンや家族のなかの自分」と「同性に欲情する自分」との葛藤が描かれていく。

物語が進み、貧困から家庭が不安定になるにつれ、デイビッドには両親から「成功」への期待がかけられていくが、デイビッドはバイトで勉強も進まず、またその「成功」には「同性愛」が含まれていないことを知っている。ついには、溜まったストレスから両親は大喧嘩をしてしまい、デイビッドは父を連れ、働いているサウナで一晩休ませることにするが、デイビッドはそこで韓国人客と行為に及ぶことになる。セックスをする前に「韓国人?」と聞く彼の頭のなかには、やはりコリアンタウンや家族があったのだろうか。しかし、そのセックスもサウナの社長に見つかってしまう。身体を洗いながら、歯を食いしばりデイビッドは叫ぶ。両親の期待に応えられない、自分の性に正直になれない、始めた仕事も続けられなくなったしまった。これまで作品を通して描かれたデイビッドの様々な感情がその叫びに込められている。

この作品の魅力は、主人公の葛藤や環境を、淡々とそして丁寧に描いていることにある。そこまで大きな盛り上がりもないため、一見地味な映画に思えるかもしれないが、現実をありありと示している。(湘)

名前の無い関係の肯定 『姉妹関係』

原題は「骨妹」、英語のタイトルは「Sister hood」。題名が表すように、作中には姉妹という言葉が何度も使われている。だがその姉妹という言葉は、一般的に使われる血縁関係を示す言葉ではなく、仲間あるいは、家族のような、共に生きる大切な人を指すために用いられる言葉のようだった。

映画は、1991年のマカオ返還に住民が沸き立つ中、主人公の女性セイが親友リンに向かって泣き叫ぶシーンから始まる。それから場面は切り替わり15年後、夫と共に静かに暮らすセイが、新聞でリンの死を知り再びマカオを訪れるシーンへと移る。セイとリンはかつて生活を共にし、シングルマザーであったリンの息子を共に育てていた。

リンの息子に会いにマカオを訪れたセイは、かつて二人で過ごした場所をめぐりながら、リンとの生活を思い出す。回想の中のリンとセイは幸せそのもので、慣れない育児に疲弊する互いを励まし合ったり、子供の将来について語りあったり、二人で並んでベビーカーを押す姿は、まるでドラマや映画に描かれる幸せな家族のようであった。二人が女性同士で、血縁関係もなければ夫婦でもない点を除けば。

セイは台湾から来た青年に好意を寄せられ、一緒に台湾に来てくれないかとプロポーズされる。セイは動揺しプロポーズを断るが、リンは受けるべきだと強く勧める。そして1991年、マカオ返還が中国に返還される日、住民たちによるカウントダウンが始まる中、リンは自分に恋人ができたから子供を手放し、セイとの同居も解消すると告げた。失意のセイは青年を受け入れ、台湾へと移ったのだった。

マカオでセイは、かつて共に育てたリンの息子に会い、リンが子供を手放すと言ったのは、自分からセイを引き離すための嘘だったこと、二人が別れた後もリンはずっと、セイの幸せを願い続けていたことを知る。リンはセイが自分と共にいるよりも、男性と結婚し所謂「普通」の幸せを得るべきだと考えたのだろう。セイはかつて二人で書いた「ずっとセイと一緒にいたい」と書かれた落書きが、「セイがずっと幸せでありますように」と書き換えられているのを見て号泣する。セイにとってはリンとずっと一緒にいることこそが幸せだったのだ。

セイとリンの関係を一言で言い表すのは難しい。二人に肉体関係や恋愛感情はなく、レズビアンだと噂され苛立ちを見せるシーンもある。つまり世間一般で言う「恋人」や「夫婦」という関係は当てはまらない。とはいえ「友人」と呼ぶのは少し物足りないし、「仲間」「家族」というのもしっくりこない。この作品はそんな彼女らの関係を「骨妹」と称し、映画のタイトルとしたのだろう。「夫婦」でも「恋人」でも、血縁関係を持つ「家族」でもない、定義するのが難しい関係がすんなりと受け入れられ祝福されるような社会であれば、セイとリンはずっと一緒にいたいという願いを叶えることができたのではないだろうか。この映画祭が目指す多様な生き方が肯定される社会とは、きっとそんな社会のことなのだろう。(恭)

性からの幸福追求権 『Yes, We Fuck!』

脳性まひ患者の男性が女王様に調教を乞う。知的障害者たちのセックス座談会。身体障害者の女性の自慰の介護。絶頂へと導かれる視覚障害者の女性……。

ただでさえ人の性行為など見慣れもしなければ聞かされることもないのに、障害者のセクシュアリティとなると「健常者」の我々はぎょっとする気持ちになる。ましてやそれがSMといった「変態」プレイであればなおさらのことだ。

本作品にはハンディキャップを持つ人々の、各様の性の実践と語りが収録されている。それらを通じて我々は、みずからの身体を通して他者とつながりたい、あるいは逆に身体の内奥へと享楽を追求したいという欲求を、彼らもまた持っているという当然の事実を確認するに至るだろう。

障害者の性というと、日本においては一般社団法人ホワイトハンズの名前を抜きにして語ることはできないだろう。東京大学で上野千鶴子氏の指導のもと社会学を専攻した坂爪真吾氏を代表として設立されたこの団体は、日本に新しい「性の公共」をつくることを掲げ、障害者の性に関する研修や、要介護者への「性の介護」を提供するなど、特筆すべき活動を行っている。それは極端で急進的な改革運動というより、むしろ今回の作品を含めた国際的な歩みの中に位置づけられるように思われる。

作中、スペインやフランスなどの街頭で、アジア系やアフリカ系など様々な出自を持つ健常者への、「あなたにとってセックスとは何ですか?」という直截なインタビュー。そこでは彼らにとって公共における性の観念が、少なくとも公的な語りにおいては、我々日本人よりずっと寛容であることを思い知らされる。

それと対比されているのは障害者、いや心身に多様性を有する人々の実践と、その内的な語りである。そこで公共性の中に納まりきらない、セクシュアリティを通じた人格的充足への志向、いわば性からの幸福追求権とも言うべきものを、彼らは身をもって主張しているように思えた。

身体の不自由は自他の身体に触れることを難しくするし、知的障害を持つ子供の中に生じる性的衝動を親や教師は危険だと感じる。そうして「健常者」が無きものとしてきた彼ら自身のセクシュアリティが語られるとき、我々は性においてもまた多様性が存在することを知るだろう。その認識は日本においても喧伝されはじめた多様性と寛容という言葉に、より深い陰影を浮かび上がらせるに違いない。(交)

コラム 定義できない人間の多様性

関西クィア映画祭の真の目的は、単純にLGBTに関する知識を啓蒙することにはない。この映画祭で使われる「クィア」という言葉は、単純にLGBTを意味する言葉ではなく、そんな定義に集約することができない、複雑で多様な人間の性質を丸ごと肯定する言葉だからだ。

上演作品の中には、障害を持つ人のセックスを生々しく描いたものもあれば、挿入を伴う典型的なセックスに抵抗感を持つFTM(女性から男性へと移行した、あるいは移行したいと望んでいる人)を描いたドキュメンタリーもある。作品に登場する人々は、社会的には同性愛者、トランスジェンダー、障害者などの枠に収められ語られるけれど、個々に多様な悩みや悲しみ、喜びを抱えて生きている。「だいじょうぶ」というとある台北の親子について描いた作品の中に、「自分が同性愛者なのかトランスジェンダーなのかわからないが、どちらかに決める必要はないと思う」、というセリフがある。映画上映後の座談会にて映画実行委員会の一人が、「これは単純化したLGBTのイメージに抵抗するクィア映画祭のテーマに繋がる一言」と語っていた。

異性愛者、同性愛者、男性、女性、健常者、社会的な枠組みにとらわれ不自由な思いをしているのは、LGBTの人だけではなく異性愛者もまた同じなのではないか。「性にあたりまえなんてないんだよ」というのがクィア映画祭のキャッチフレーズの一つだが、様々なあたりまえから解放された社会は、自分がマイノリティだと思う人も、そうでない人々にとっても居心地の良いものとなるのではないだろうか。(恭)

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