伊勢武史 フィールド科学教育研究センター准教授「生物学が語る『人間とはなにか』」(2017.07.01)

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えらいことを知ってしまった……! ――はじめて進化心理学に触れたときの、率直な感想である。

僕は生物学者。ハーバード大学で進化生物学を学び、今はコンピュータシミュレーションをなりわいとする、バリバリの理系科学者だ。自分の主観を極力排除し、客観的・定量的にものごとを説明するように訓練を受けてきた。

しかし、そんな僕の趣味は、お寺めぐりや仏像鑑賞。芸術や文学、茶道やいけばななども好きだ。これら文化的な存在の魅力を理詰めで説明するのはむずかしい。もちろん、「この絵画には黄金比が見られ……」「この列柱のサイズが奥行を強調し……」など、芸術的な特徴を部分的に理屈で説明する方法はあるのだが、どうもそういうのは薄っぺらく感じてしまう。純粋に僕は、理屈抜きで感動してしまうのだ。感動の前に、理屈は無力である。

ふだんは科学者として、現象を理屈で説明することを仕事としているのに、趣味の傾向は正反対だ。日ごろむずかしい数式などと格闘していることの反動なのではないかと、まわりの友人たちや僕自身も考えていた。

そんなときに出会ったのが進化心理学である。進化心理学は、進化生物学の一分野。人間の心的傾向がどのように発達してきたか、生物進化の観点から説明する学問である。僕は進化生物学の専門知識を学んできたにも関わらず、進化心理学についてはまったくノーマークだったので、大きな衝撃を受けた。

進化心理学では、人間のからだが自然淘汰で形づくられたのと同様、こころも自然淘汰でできていると考える。自然淘汰は、その生物の生存と繁殖に役立つ特徴を選びとり、次世代に伝える。だから、僕ら人間が持っている心理的特徴も、過去(主に原始時代)に何らかの役に立ってきたはずだと考えるのである。言われてみればもっともな話だが、不器用な生物学者は、自分自身が人間という生物で、その人間を支配する心理も自然淘汰の結果だということを思い至らなかったのである。

進化心理学を知った瞬間、人間の行動はすべて、生物学の観察対象となった。自分自身さえも観察対象になった。神仏を崇拝し芸術を愛するという、一見非合理的に見える人間の心的傾向にも、過去に何らかの意味があったということになる(およそ世界中すべての民族に、宗教や芸術のたぐいは存在するのだから)。私は生物学者であるがゆえに無神論者だが、それでも趣味のお寺めぐりにはメリットがあるのだと思うようになった。自分よりも強いものを畏れ敬う気持ちは、僕らのご先祖が原始人だったころ、彼らを救うことがあったことだろう。部族の長老でもいい、猛獣でもいい、山や川でもいい、自分より強大な存在を畏れ敬うことで、人は安全で快適に暮らすことができた(長老や猛獣や山や川を甘く見たらどうなるか分かるだろう)。この感覚が次第に増強され誇張され、宗教が生まれたのではないかと考えている。だから、たとえ神が実在しなくても、その神を敬う心理は、その人のプラスになったのだ。

自然淘汰は、生存や繁殖にプラスになる行動にごほうびを与える。それが快感だ。食欲や性欲が満たされたときには快感が得られる。魚釣りや山菜取りをしたことのある人は、狩猟採集の独特の快感を味わっているだろう。そして、宗教や芸術に触れるときにも人間は快感を得る。人間はこれらの快感に導かれ、快感の命じるままに行動することが、結果として生存と繁栄につながった。かくいう僕も、そういう心理を受け継いでいるゆえに、休みともなるとふらふらと、お寺や美術館に吸い寄せられていくのである。

人間は、あたまをつかって冷静に論理的にものごとを判断し、行動することができる。それと同時に、たとえ理屈がなくたって、こころが命じる直感で行動することもある。こころとあたまは、しばしば僕らに別の命令を下すこともある。天使と悪魔が自分のなかでたたかってる、マンガのような状況。うまくバランス取れたらいいな。それができれば苦労しないけど。


(いせ・たけし フィールド科学教育研究センター准教授。専門は森林生態学)

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