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煙草孝 壁の無い分煙へ

2017.05.01

私は煙草を吸うのが好きだ。一人で、冬の夜に煙草を吸って、白い息とともに煙が夜空に吸い込まれていくのを見つめ、その後に思いっきり清らかな空気を吸うのが好きだ。何かをやらなきゃいけない時でも、何かをやり切った後でも、煙草はうまい。食後にコーヒーと一緒に一服を楽しむのも最高だ。しばしの間、無心になって煙草を吸い、気持ちを落ち着かせることで日々を頑張れる。

しかし、今の世の中、喫煙者は肩身が狭い。喫茶店ではガラスの箱のようなところに隔離され、京大の喫煙所は屋根がなく落ち着いて座る場所もない。私の実家でも、喫煙者である父は弟と母に非難されている。母は「人生設計を考えているなら健康に悪い煙草をやめて」と詰め寄ったこともあるそうな。健康に長生きするのだけが人生設計じゃないと思うのだが。京大病院の周りを歩いていると、生垣の近くで寄る辺なく煙草を吸っている患者さんをよく見る。京大病院は全面禁煙だからだ。辛い入院生活、煙草を吸う楽しみだってあってもいいと思うのだが。「煙草は体に悪いから」なんて、吸っている人は百も承知だろう。喫煙者の肩身の狭さは、喫煙者とそうでない人の間に壁があるから起こるのだろう。受動喫煙による健康被害を疎む壁以上に、「煙草は嫌」という心理的な壁と、「だから隔離しよう」という空間的な壁がある。

その壁はますます厚くなろうとしている。厚生労働省の健康増進法改正案の根拠は「国民の8割を超える非喫煙者を受動喫煙による健康被害から守る」ことであるが、喫煙者の声は無視されている。厚労省案について説明すると、子どもや患者らが利用する小・中・高校や医療施設は「敷地内禁煙」、官公庁や老人福祉施設、大学、体育館は「屋内禁煙」、バスやタクシー、飛行機は「車内禁煙」で、いずれも喫煙専用室の設置は認めず、飲食店でも主に酒を出すバーやスナックは床面積30平方メートル以下に限り、「受動喫煙が生じうる」との掲示や換気を条件に喫煙を認める、というものだ。喫煙者にとっては制限が強く、破れば罰金が科せられるなど、現状の嫌煙ムードを法律が支える形となる。厚労省側から「日本は遅れている」という発言もあったそうだが、確かに先進国では喫煙者に対する風当りが強い。フランスでは、煙草のパッケージに無地の包装デザインを導入し、電子煙草も公共の場所では禁じられていることはご存知だろうか。しかし、煙草を吸わない人が多数派だから、先進国でもそうだから、という理由で本当に喫煙者とそうでない人の溝を深めるような「分煙」をしてよいのだろうか。

喫煙者だけを優遇しろと言っているのではない。かつては京大でも喫煙者が幅をきかせていた時代もあったようだ。倫理学の教授が言うには、教授の学生時代には文学部の教室には灰皿が置かれ、教授はすぱすぱ吸いながら授業し、授業中いたるところに煙が上がっていたという。煙草の煙が苦手な人にはたまったものではない。喫煙者にもマナーと配慮が必要なのはいうまでもない。

煙草が好きな人も嫌いな人も共存できるように、どちらにとっても気持ちのいい分煙を進めてほしい。京都大学は、受動喫煙を防ぎ、かつ喫煙者も居心地の良さを感じられるよう、屋内の喫煙所を作ってほしい。時計台裏の喫煙所では、形ばかりの仕切りがあるが、煙は防げてないし、喫煙者は仕切りの中だけにおさまらないので、煙が嫌な人が不快な思いをしている。求められているのは、空間づくりへの努力とアイディアだ。分煙空間を模索する公募コンペ「SMOKER’S STYLE COMPETITION」では、カフェ内の木の柱1本1本に煙を吸い込むダクトを設置することで隣の人に煙を行かなくする設計案が2010年に最優秀賞に選ばれた。喫煙者とそうでない人が空間的にも心理的にも隔てられている現状を問題視し、お互いの声に耳を傾けたい。