文化

〈書評〉『 自然を楽しむ 見る・描く・伝える 』 足元に生えている異世界

2017.06.16

ありふれた日常の中に、時々、意外な面白さや奥深さを見出すことがある。たとえば自分の親が、若い頃はどんなだったのか、どんな風にして夫婦となるに至ったのか。そういう幼い頃は気に留めていなかった事を、大きくなってからようやく知った時には目からウロコが落ちるものだ。それでも今なお、いやおそらく永遠に、日常に潜む盲点的な謎は尽きない。いつも愛用しているシャーペンの芯には、どこで採れた鉛が使われているのか。地元で行われている小さな祭の由来は何か。あのラーメン屋の店主は普段何をしているのか。

そんな目線を、ありふれた自然にも向けてみる。公園のハトや道端の雑草、食卓に並ぶ肉・野菜・魚――みんなどこから来たのか、どんな暮らしをしている(いた)のか。そもそも名前すら知らないのではないか。あらゆる自然の事物を、まるで初めて接するかのように新鮮な心持ちで見つめ直す。そこに広がる世界の面白さをひたすらに綴ったのが本書である。

著者は「ゲッチョ先生」の名で知られる、一風変わった理科教師だ。教室に野生動物の骨を持ち込む、大型のゴキブリを手の平に乗せて生徒に見せる、皆で集めたドングリからクッキーを作るなど、破天荒な授業を繰り広げてきた。あの手この手を使って彼が生徒に伝えようとしてきたのは、とどのつまり、自然の面白さである。

学校という場には色々な生徒が集まる。もちろん自然に興味が無い人だっている。その中で、皆が興味を持って臨んでくれるような授業を創るにはどうするか。苦慮の末に思い至ったのが、まず「聴く」だけではなく五感を生かす授業。また、骨やゴキブリのような、良くも悪くも刺激的なものを題材とする授業。そして何より、身近な自然に隠された未知を暴く授業だ。

生徒らは、先生から見せられた骨格標本が実は見慣れた動物のものであっても、そうと気付かない。骨というものはたいてい肉や皮で隠されているのだから、誰かに教えてもらうか、自ら特別な興味を抱かない限り、そんな体の内側の世界など知らないでいて当然だ。しかし、何かのきっかけでそういった世界を知ることになった時、それが実は身近な所にあったのであればあるほど、大きな驚きと興奮に襲われるものだ。

著者はほかにも、様々な世界に私たちを連れていってくれる。それは時には森の最下層への旅であり、時には遥か外洋への旅であり、またある時には太古の昔への旅である。彼に言わせれば身近な生き物は「異世界への扉」だ。今この瞬間も足元で頭上で目先で開かれるのを待っているかもしれないその扉を見つけ、向こう側に広がる非日常を垣間見ること。それが彼なりに「自然を楽しむ」ひとつの方法なのだ。

小難しいことは一切抜きにして、ただ純粋な知的好奇心のみを270ページにわたって遊ばせた読み物だ。自然を楽しむヒントが文字のインクの隅々にまで満ちている。頭を空っぽのスポンジにして、心ゆくままに吸い上げよう。(賀)

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