京大生の読書傾向は? 年間ルネベスト2016(2017.03.16)

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京大生は普段どんな本を読んでいるのだろうか。その読書傾向を知るため、京大生協ショップルネの書籍売上の1位から50位までのランキングを掲載する(=本紙に掲載)。また、ランキング内外から書籍を3冊紹介している。京大生に人気の本を読んでみるもよし、あえてそれを避けて人と違う本を選ぶもよし。いずれにしても、読者の読書の参考になれば幸いだ。(編集部)

書評

京都の人は排他的?

■1位『京都ぎらい』井上章一
昨年出版されて話題になった『京都ぎらい』が、ランキング1位となった。京都と名の付く大学に通う学生は、やはり京都への関心が高いということだろうか。

題名から分かる通り、本書には京都について批判的な記述が多い。テレビや雑誌など様々なメディアで肯定的に取り上げられる「京都」という土地について、違う角度から述べるというのが、この本の趣旨であるようだ。

京都の「いやなところ」として最も中心的に述べられているのが、京都人が周辺の土地を「京都ではない」として見下す風潮である。この本の著者は京都市の嵯峨で育ち、現在は宇治市に住んでいるが、自分は京都の人ではないと述べる。京都に住む人からは、嵯峨は京都ではない、嵯峨育ちは田舎者だと言われ、蔑まれてきたからだという。嵯峨以外にも、山科、伏見、宇治などは京都の人に差別される。さらには、中京の新町御池生まれの人が、西陣出身の人が京都を代表するのは許せないと言った例も紹介されている。そして著者自身も、京都市外の亀岡や城陽を「京都ではない」と見下す気持ちがあると分析している。

京都市に生まれ育った私は、少しこの感覚が分かる。幼い頃、自分の家がかつての平安京の中にあると知り、なんとなく嬉しい気持ちになったことがある。京都と名のつく地域に住むからには、かつての都への憧れがある。京都人のアイデンティティといえるかもしれない。見方を変えると、京都かどうかを意識するということは、京都の人は未だに京都は都であるという意識を引きずっているとも言える。その辺りが、著者が自分自身の考え方も含めて「いやだ」と感じる所以かもしれない。

しかし、一応京都人を自認する者からすると、著者の言い分に反論したくなる。「京都」という言葉自体が都を意味するのだから、かつて都であった地域から離れれば離れるほど、「京都ではない」と認識されるのも当然ではないだろうか。

また、京都に住んでいるからといって、誰もがそうした意識を持っているとは限らない。著者が取り上げているのは比較的高齢な世代なので、京都と他を区別する人が多いという可能性もある。私の周りではあまりそうした話は聞かない。嵯峨や伏見が京都だと感じるかどうかは、人によって、世代や住んでいる場所によっても異なるかもしれない。

ただ、少なくともそういう意識を持つことが、「京都らしさ」として認識されていることは確かだろう。京都の人は嵯峨や伏見、山科を京都とは見なさない、という話はいかにも京都らしい印象を与える。本書では舞妓・芸妓と僧侶の関係や、京都の寺社仏閣の歴史などにも言及しているが、いずれも京都を代表するものとしてよく取り上げられる。そういう意味ではこの本も一般的な「京都」のイメージに沿っているのかもしれない。(雪)

結局、誰向け?

■32位『大学4年間の経済学が10時間でざっと学べる』井堀利宏
大学4年間の経済学は10時間では学べないことは賢明な読者諸君にはすでにご了解いただけていることかと思う。そういう意味で、本書は名前負けしていると言わざるを得ない。一冊だけで経済学の様々なトピックを扱い切ることは当然不可能であるし、これを読んで関心の有りそうな分野を各々深めていくことが想定されているのだろう。実際、「おわりに」ではこの本の内容は最低限の教養であると随分トーンダウンした表現になっている。

この本で扱われているのはミクロ経済学とマクロ経済学である。市場の失敗、インフレーションなどミクロ、マクロのそれぞれ10個の重要な概念について解説をしているが、十分な説明がなく専門用語が使われるなど、前提知識のない読者向けの記述にはなっていない。書名に惹かれて買うであろう読者層と、実際の内容が想定している読者層とに乖離が見られる。数学に苦手意識を持つ読者を意識してか、数式の類をできる限り用いずに言葉で説明しようとしている。それ自体は初学者には良いことかもしれないが、説明自体が数式をイメージして書かれていると推測されるため、逆に分かりづらくなってしまっている。また、著者自身の専門に近いマクロ経済学の分野ではちゃんと説明しようとするせいか、結局数式などを持ち出してしまっており、迷走してしまっている感がある。

説明もあまり十分とは言えない部分がある。例を挙げれば、価格変化による需要量が所得効果と代替効果に分解できることについての部分だ。これは大学の普通の講義では2つの財の無差別曲線と予算制約線を使ったスルツキー分解という手法を用いて説明される。しかし、本書はこうした説明を避け、限界メリット曲線と限界デメリット曲線というおそらく著者独自の用語によって説明している。分かりやすさを重視した結果といえるかもしれないが、かえってその後の学習を妨げる原因にもなりかねない。マクロ経済学編において大学で通常教えるようなIS-LM分析を行っていることからも、前半部分のミクロ経済学と後半のマクロ経済学で求めるレベルが違いすぎるように思う。そのほか、アダム・スミスの「見えざる手」、限界生産力などの説明も誤解を招く、あるいは間違っている。無警戒に読むとこういった記述に引っかかる可能性がある。

こういうふうに考えると、むしろこの本に不満を覚えることが、大学の経済学をしっかり学べているということの証明になるのかもしれない。そういう意味では、10時間で大学4年間の経済学をざっと確認できるというのも、あながち間違っていない。よく冗談として、「大学で経済学を学ぶことの意味は、経済学者に騙されないようにするためだ」と言われることがある。著者は何も騙そうと思ってこの本を書いたわけではないだろうが、一つ訓練として取り組んで見るのも面白い。(奥)

松本前総長自ら語る改革の記録

■ランク外『改革は実行 私の履歴書』松本紘
私が入学した年、いわゆる教養教育の改革があった。全学共通科目の体系化と国際高等教育院の設置がその中身で、後者に対しては人環・総人を中心に反対の声を上げる教員も現れた。ほとんどの教員が把握しないところで協議が進み、また人環・総人の教員ポストの約7割に手をかけるものと見られたからだろう。次の年は教員組織の改革があった。既存の教育研究組織から教員の人事権を分離し、新たに設置する学域・学系にそれを移すというものであった。こちらには表立って反対する部局も多かった。いずれも松本紘前総長の下で進められた改革である。本書はその松本氏が総長時代を含む人生を綴ったもので、右の二つの改革についても頁が割かれている。教養教育改革の背景には「学生の教養不足、質の劣化という現状への危機感」があったそうだ。「幅広い知識の積み重ね、深い教養がないと独創的な発想も出てこない」という松本氏の考えは、おそらく自身の学生時代の体験に根ざしているのだろう。「大学入学後、教養で英語の講義があったが、英語の小説読解で面白くなく、もっぱらラジオの英会話などで勉強していた」ことは、英語力の向上と引き換えに、何かを失わせていたのかもしれない。

教員組織の改革は、教育研究組織の再編を促進するために教員人事を分離するものだと公には説明されていた。ところが本書が指摘するように、そして当時から危惧されていたように、実は人員削減を主眼に置くものだった。「自身の判断で人員を減らさねばならない局面になったとき、全学最適を考えると、部局に教員の定員管理と人事の権限があったら思い切ったことができない」と著者は力説している。その「局面」以前にすでに思い切ったことをしたものだ。人を減らすために、新しく学域・学系を設けて教育研究組織の再編を促すというのは、松本氏ならではの独創的な発想だと思う。要素還元論的な手法を批判する松本氏の実践が、全体から部分へ向かう方法、つまり大学のあり方を変えてしまうことにより人員削減に対応するという形で結実したのだと言える。

もし本書を読もうという方がいたら、本誌掲載の山極寿一(新)総長インタビュー(2014年10月1日号、Webにも掲載)などを併読してほしい。松本氏は当然ながら自身の改革を擁護し、そのために改革に反対した人を、ただの誤解だとか、あるいは幼稚な批判者として描く部分が多い。そうした描写とは無縁な批判を見せる山極氏のインタビューは、ちょっとした毒抜きになるだろう。(朴)

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