複眼時評

待鳥聡史 法学研究科教授「民主主義と社会の多元性」

2017.01.16

2016年は、世界各国の政治において有権者の意思(民意)が思わぬ動きを見せた1年であった。EUからの離脱を決めた5月のイギリスや、憲法改正案を否決した12月のイタリアでは国民投票によって、またドナルド・トランプを当選させた11月のアメリカでは大統領選挙によって、それぞれ有権者は事前の予想を覆す多数派を作り出した。

そこで否定されたのは、先進各国のエリート層が唱えていた、さしあたり合理性の高い政策であった。イギリスがEUに残留する方が、イタリアが憲法を改正して上院の権限を縮小する方が、そしてアメリカがヒラリー・クリントンを大統領に選出する方が、それぞれの国の経済や外交・安全保障などにとって有益な政策がとられる確率は高かった。

だからこそ、これらの選択に対して、ポピュリズムの台頭とか民意の反乱といった言い方がなされているのである。そこには、明らかに不適切な選択を、十分に考えないまま一時の情念に流されて行った、というニュアンスがある。それを悪用する扇動政治家が席捲している状況を「ポスト真実の政治」と呼ぶことも、昨年後半には一般的になった。

民意に非合理的な側面があることは確かであろう。少し調べれば分かること、落ち着いて考えれば理解できるはずのことについて、多くの人々が間違ってしまうという現象は、政治だけではなく社会の至るところに見られる。

しかし、有権者の大多数を構成する一般市民が、政治や経済を含む社会的な事柄について間違わないとすれば、その方が不思議である。現代社会の諸課題はいずれも複雑な因果連関の帰結として生じており、しばしば「何が真の原因か」「どう対処すべきか」について専門家の間にすら合意がない。また、有権者にはそれぞれの生活があり、社会的な事柄を考える時間を十分に確保できると想定するのは、明らかに無理がある。

民主主義とは、有権者が間違い、騙され、扇動されることを、そもそも予定した政治体制である。ゆえに愚かな一般市民を政治に参加させるべきではないという民主主義批判が存在するのだが、少数の賢者が「正解」を導くには、今日の政治課題は難しすぎる。

とはいえ、扇動政治家が台頭し、非合理的な選択が繰り返されることを放置して良いわけでもない。ポピュリズムやポスト真実の政治も民主主義の一つの姿だから受け入れるしかない、という見解にも、無条件には同意できない。

民意がときに誤ってしまうことを前提に、しかし一般市民の政治参加の機会を適切に確保しつつ、政策決定上の決定的な判断ミスを防ぐためにどうすべきなのだろうか。

制度面からのオーソドックスな回答は、選挙や権力分立の導入である。

代議制の下では、選挙を定期的に行うが、選挙以外の意思決定の場面では公選された専業政治家に一定の裁量に基づく判断を認め、その当否については後の選挙で審判することになる。民意から完全に隔絶されるわけでも、逆に全面的に民意に寄り添うわけではないことで、間違った判断をしてしまう危険性を低下させようとするわけである。

権力分立は、政治権力を複数の異なった人物や機関に担わせることで、相互の競争と抑制が生まれ、特定の人物や機関、およびそれらを選出した一部の有権者の意向が政策判断に全面的に反映されないようにする仕組みである。ここにも、ある一時点の民意のみに基づいた意思決定を回避しようとする意図が存在する。

これらの制度の効用を強める上で役立つものの一つが、社会の多元性である。社会を構成する人々の関心事や利害が多様であるほど、いろいろな意見が流通する。特定の見解や政治的立場が常に優越している社会に比べて、多様性が存在する社会の方が代議制や権力分立が機能しやすくなり、致命的な選択が行われにくくなるのである。

社会の多元性にとって、「正解が一つではないこと」や「正解が分かっていないこと」があると教える大学が果たす役割は大きい。大学が自由な空間であることの今日的な意義は、この点に求められる。すぐには「正解」を導かないことが社会貢献なのである。

だが、近年の大学や入試の改革をめぐる議論においては、学生が答えや前例がない状況への適応能力を身につける必要性が説かれる一方で、大学教育は親切であれというかけ声の下で、学生に「正解」を教えるよう求める矛盾した風潮があると思えてならない。

世に賢者がいないことではなく、正解がない状況に、正解があると思っている人々を招き入れること、そして正解がすぐ導けると語ることこそ、民主主義にとって最大のリスクである。2017年は、こうしたリスクが少しでも低下する1年になってほしいと願う。

(まちどり・さとし 法学研究科教授。専門は比較政治・アメリカ政治)