[京大あれこれ]花谷会館とその歴史 原爆調査団の功績を伝える(2016.12.1)

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今年9月、正門横にある古びた建物が、ひっそりとその役目を終えた。名前は「花谷会館」。かつては喫茶店が入り、1960年からは京都大学生協本部として使われてきたが、耐震基準を満たさず、生協本部の吉田南構内への移転に伴って空き家となった。この建物、建築物として特筆すべき点はないが、1945年に広島に投下された原子爆弾についての現地調査中、台風の犠牲となった花谷暉一氏の兄が大学に寄贈したという経緯がある。今回は花谷会館の奥にある歴史、原爆調査団及び枕崎台風について記述したい。(国)

優れた研究業績

戦時中、理学部物理学教室の荒勝文策研究室で大学院生として研究を行っていた花谷氏は、多くの研究者・学生が徴兵される中、研究業績の優れた特別研究生として研究室に残って研究を続けることができた。花谷氏の研究内容は、ウランの核分裂が連鎖反応的に起こる条件を探ることであった。ウランが中性子を吸収して核分裂を起こす時に新たに中性子が発生すれば、その中性子を吸収した原子核も分裂するので、連鎖的に分裂が起こる。それによって発生するエネルギーを取り出すことができれば、エネルギー源として利用出来ると考えられていたのである。花谷氏は、核分裂の際に発生する中性子の数を極めて高い精度で測定した。その正確さは現代的に見ても遜色ないものだと言われている。核分裂の連鎖反応を利用すれば原子爆弾を作ることも出来るため、その知識は原子爆弾の調査においても活かされることになる。

原爆投下とその調査

1945年8月6日、世界初となる原子爆弾が広島に投下された。一瞬にして甚大な被害をもたらしたこの爆撃だが、本当に原子爆弾であるかどうかは調査によって判断する必要があった。早速花谷氏は、荒勝教授ら共に10日夜に京都を出発して広島へ向かい、現地の土壌を採取した。直ちに京都へ戻って調べると、その中に強いβ線を出す物質が検出されたことから、これが原子爆弾であるとの確信を持つに至った。しかしながら、調査した試料数が公式発表するには不十分だとして、荒勝グループでは13日に再び広島で百数十カ所の土壌を採取した。この時花谷氏は広島へは同行していないが、持ち帰った土壌を詳細に調査したところ、この爆弾が原子爆弾であることが確定的となり15日、海軍などにその結果が伝達された。なお、この日に終戦を迎えた一因として理化学研究所の仁科芳雄博士らが早期にこの爆弾を原爆と判定し、大本営に報告したことがある。一方荒勝教授らは自らの調査研究でそれが原爆であることが確定的になるまでは公式な発表を行わなかったが、それは「科学者たるもの、何事も発表する前に自分の研究で事実であることを証明しなければならない」という信念があったためであった。

再び広島へ

京都大学では、医学部でも、原爆投下直後から教授らが広島で遺体解剖を行うなどの調査が進められていた。8月27日には軍から研究員の派遣要請があり、病理学・内科・解剖学の各教室のメンバーが9月2日から順次広島へ入った。そこで彼らが活動の拠点としたのが大野村(現廿日市市)の大野陸軍病院である。彼らはそこで収容患者の回診と検血、外来患者の診察、また病理解剖を行い、原爆症の解明に尽力した。

こうした調査の進展によって、京都大学でも、医学部の調査団を大学の公式な研究班と位置づけるなど支援の動きが強まっていった。荒勝教授らも長期間調査を行ってより定量的、かつ正確な残留放射能のデータを得たいと、9月15日、花谷氏を含む6名が医学部の第三次研究班とともに大野陸軍病院へと向かう。

そして台風が……

しかし、16日に広島へ着いた一行は、すぐに雨に見舞われる。非常に強い勢力を持った枕崎台風が近づいていたのである。雨風は日が変わるとさらに強くなったが、戦争の混乱で防災・通信体制が整っていなかった当時、それが大台風であると知ることは難しかった。また研究員らは仕事に追われており、尚のこと気象状況に注意を向けることはできなかったのである。

そして17日の22時20分過ぎ、陸軍病院を山津波が襲う。当時理学部の6名は食堂で談笑していた。このうち山側のテーブルにいた花谷氏ら3名は、急速に流れてくる岩や水に飲み込まれて亡くなった。また、医学部でも8名が犠牲となった。大野陸軍病院のあった場所が大野浦を見下ろす斜面上にあったこと、戦争中松脂を採取するため山を掘り起こして土石流の発生しやすい状態になっていたことなどが大きな被害につながった原因だと考えられている。

記憶遺産としての会館

山津波が起こった2日後の19日以降、プレスコードによって、日本による原子核研究の成果の発表、また研究そのものが禁止された。山津波では、花谷氏ら優秀と言われた研究員や重要な研究資料が失われたが、日本の原子核研究が長く停滞する直接的要因となったプレスコードの陰に隠れ、この犠牲はともすると忘れられがちになる。その点からも花谷会館は、調査団に理学部の研究室が深く関わっていたことを示す重要な建造物なのである。生協本部は既に移転したが、花谷会館の奥にある歴史までが移ったわけではない。会館の今後の利用方法は未定だが、何らかの形で会館を保存する、石碑を建てるなど、こうした歴史を何らか思い出させるものがこれからも残ることを期待したい。

【取材協力】
京都大学名誉教授・政池明氏
芝蘭会事務局長・山田均氏
京都大学生活協同組合

【参考文献】
柳田邦男『空白の天気図』(1981年、新潮文庫)
核戦争防止・核兵器廃絶を訴える京都医師の会編『医師たちのヒロシマ 復刻増補』(2014年、つむぎ出版)
『広島医学』第20巻(1967年)

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