文化

〈京大雑記〉反NF的考察

2016.11.16

今年で58回目を迎える11月祭。長い歴史の中で、様々な人によって様々なルールや慣習が形作られてきた。そして私たちはそれらを少なくとも表面的には当然のように受け入れている。しかし、それが本当に必要なものか、理にかなったものかを考えるとき、疑問を持つ人も多いのではないだろうか。ここでは編集員が11月祭について持つ雑感を、思うままに書き並べることにする。(編集部)

「統一」テーマを考える

公募の精神からの悲劇の誕生 統一テーマは何を統一しているのだろうか。統一テーマの歴史については本紙2014年11月16日号で詳しく取り扱ったため詳細は省くが、11月祭で最初に統一テーマらしきものが登場したのは1959年であり、「戦後派意識の解明」がテーマだった。以降81年までは11月祭を主催する同学会が議論してテーマを決定してきた。企画はテーマに沿って用意され、テーマは明確な意思表示の手段であった。82年以降は公選制になったこともあって、テーマのメッセージ性は一挙に失われた。今や残るは名ばかりの「統一」であり、テーマを募集する当の11月祭事務局も単なる一広報手段としか認識していない。

今年の統一テーマは「ぽきた~」だ。趣意文を見ると、「既存の枠組みを疑い破壊し、自らの手で新たな枠組みを創造する姿勢こそが京大生、ひいては京大生によって創られるNFの真骨頂ではないだろうか」などと書いてある。この趣意文を真に受けるならば、ツイッターで流行のコピペを改変したに過ぎないテーマを採用する京大生には創造性が備わっているはずもない。テーマは自己矛盾に陥っている。既存の枠組みを無批判に受け入れ、自らは何も生み出してはいない。

我々は統一テーマによって何を統一されるのだろうか。企画か、祭か、それに参加する学生だろうか。派閥争いによって分裂していた頃の11月祭ならともかく、事務局と形骸化した全学実によって半ば惰性的に統一テーマが募集・決定されている現状を鑑みれば、テーマの意義はもはや存在しない。来年度はテーマ募集に際して、統一テーマを決めないという選択を設けるべきだし、何ならテーマ募集すらするべきではない。僕は統一テーマにも、何者にも統一されたくはない。(奥)

投機的、あまりに投機的

前売り券制度の場合 前売り券制度11月祭に少しでも参加したことのある人なら存在は知っているだろう。出店する団体がめいめい商品の前売り券なるものを作り、メンバーは決められた枚数をいったん自腹で買い取り、出費を取り戻すためには買い取った券を自分の知人に売り捌かなければならない(とりあえず券だけ渡しておいてのちに売上を回収、という制度の所もある)。「前売り券」と銘打ってお得感を醸しつつ、NFが始まるまでに予め若干の収入を得ておくという至極結構な風習だ。しかし個人的にはこの制度、どうにも腑に落ちない点がある。

まずこの取引、どの段階においても「断る」という選択肢が非常に取りにくい。一枚200円の前売り券を10枚売り捌くのがノルマだと言われれば、出店のメンバーである以上従わないわけにはいかないだろう。そこで知人相手に商談を持ちかけるわけだが、知人側としてもキッパリ断ることは難しい。売り捌けなかった分は自腹で買い取り、という事実を知っている(と想定されている)からである。仮に知らないとしても「NFの前売り券あるんだけど、普通より安いし買ってくれない?お願い!」などと言われれば、実際には行く気などこれっぽちも無くても「まあいいか、200円やし」とついつい買い取ってしまうのが人間の性ではないだろうか。そして実際11月祭当日は出店まで足を延ばすことなく、前売り券はただの紙切れと化してしまう……。こうして今まで一体何人の学生が数百円に泣かされてきたのか、知るすべもない。

そこでこういうことを考える学生が出てくる。「相手の前売り券を買い取るのも癪だし、自分の前売り券と交換という形でいいのではないか? 現金の面倒なやりとりも無いし、相手のノルマ達成にも貢献できるし、一石二鳥や!」と。一見的を射ているようだが、果たしてどうだろうか。

前売り券の交換というのは、あくまで自分が前売り券を買うことで発生した損失を取り戻そうとする手段である。交換によって自分の前売り券を全て捌けたとしても、現金そのものとして自分の懐から一定の金額が出て行ったという事実は変わらない。大して行きたくもなかった模擬店の前売り券だけが大量に手元に残る、なんていうこともざらにあるだろう。交換以外の方法で前売り券をさばくのが難しくなってしまった今、損失分がまるまる現金そのもので返ってくることは極めて稀だ。

それでも、それで納得している人たちや店側にとっては何の問題もないではないか、という意見もあるだろう。しかし問題はまだある。事前に自腹で前売り券を買い取っている時点で、店側にはまとまった金額が入っている。そして実際には前売り券が売れなくても、また当日前売り券の分だけ商品を提供しなくても、店に予め入った金額は変わらない。こうして最終的な店側の収入の中に、純粋に商品を売って得た利益ではない部分が出てくる。これは勿論メンバーが前売り券を買い取ることで入ったお金の一部だが、その全てがメンバーの希望があって出されたものではない。収入の一定部分が、店側によって半ば強制的にメンバーから巻き上げられたものだというこの事実を看過することはできないだろう。 そもそも、出店に際して出資を求めた場合は終わった後にその出資分を返還すべきだ。それを「前売り券の買い取り」と称して出資との境界をうやむやにし、あまつさえ収入を打ち上げコンパの資金にまでしているという。実に嘆かわしい実態である。

そしてこれまた疑問なのだが、何故前売り券は学外の人に販売されないのだろうか。事前取引による仲間内だけでの安売りなど閉鎖的ではないか。こうしたところで学内外で差が生まれるのは如何なものか。

ここ最近、大学でよく前売り券の販売現場に遭遇する。この光景、もはや風物詩である。かくいう私も先日、知人に前売り券を売りつけられた。11月祭期間は家に引きこもっている予定だったが、これのせいで行かざるを得なくなりそうだ。やれやれ。……いや、むしろ外出のきっかけをくれたこの前売り券に感謝すべきといったところか。(杏)

1回生企画の是非

運営の問題と1回生の無関心 11月祭では1回生が企画を出すのが慣例になっているが、それは本当に妥当なのだろうか? NF委員を初めとして1回生企画に携わっている人に話を聞いた。NF委員の主な仕事は毎週火曜日18時半からの会議に出席して、模擬店に必要な説明を受けクラスをまとめ、NF事務局に書類を提出することだ。

NF事務局が運営を担いNF委員が出席するこの会議に問題があるようだ。「説明が長く、有益な情報が得られない」「開始時間が遅い」「誰も聞いていない」などの声がある。最初に名前を書いた人しか出席が認められないうえ、出席は学生証でとるために都合が悪い時の代わりの出席や委員ではない実質的な運営者の出席が認められないことも疑問だ。

また、金銭面の制度や説明も不十分だといえる。「前売り券が売れれば赤字になることはない」とNF委員はいうが、クラスが非協力的だった場合の1人あたり売らなければならない前売り券の数が多くなる。あるクラスの物品や調理器具のレンタル料、原材料の総額はあわせて3万5千円ほどだ。1万円の補助金は出るが、試作は自腹であり、売り上げの見通しが全くない事を加味すると、安い額ではない。

1回生企画の慣例自体が妥当か疑問である。模擬店を出す組が多いために、品目が被っているからだ。さらに、何もNFについて知らないうちにNF委員が半強制的に決められ、書類に名前を貸している6人の中でも一部の人の負担が過剰に大きいクラスがあるというのが実態だ。会議に出席するのも、緊急事態に備えるために一日中シフトに入っているのも一部の人だ。また、多くの人が言われないとNFの仕事をせず、無関心である。「クラスの団結を強めるためにNF企画は必要」というNF委員もいるが、文学部6組の「人生めちゃく茶屋」の運営者は、「うちのクラスは元々仲が良いからNFでの団結はいらない」「(クラスの人は)忙しいから、言うと動くけど、言わないと動かない」と語る。学生の自主性を尊重するならば、NF企画を1回生が出さなければならない気風は問題だ。(竹)

後片付け後の後片付け

吉田G使用団体はかく語りき 普段から吉田グラウンドを使用している硬式野球、準硬式野球、ソフトボールの各部は、11月祭の期間中、模擬店企画やステージ企画のためにグラウンドを明け渡すことになる。長期間吉田グラウンドでの練習が出来なかった彼らは、祭りが終わると真っ先に練習を始め……たいところだが、そうはいかない。まずはごみの片付けが待っている。

「後片付け日があるのでは?」と思われるかもしれないが、それで綺麗に片付くのであれば何の問題も起こらない。出店した団体の後始末が不十分であることが多いのだ。残されたごみの代表は、やはり家庭ごみ。量が多く、拾うのに時間がかかる。キャンプファイヤーの灰やたばこの吸い殻、吐瀉物などは、処理が面倒だ。完全に取り除くことは不可能なので、場合によっては砂を掘り起こすことになる。特に去年は企画としておから投げが行われ、その際は腐敗したおからの臭いも相まって片付けに苦労したという。こうしたことから、ごみ処理には1日分の練習時間をあてることもしばしばだ。他にも酒が捨てられ水溜りのようになっていたり、排泄の跡があったりと、挙げ出すときりがない。

クスノキ前や総人広場と比べて、普段利用する学生が限られる吉田グラウンド。それだけに、ごみを残すことで自分たちが被る不利益は少なく、他の人が被る不利益を想像することもあまりない。「まあいいか」という気持ちが働きやすくもなるのだろう。しかし残されたごみの中には、そのようなことを考えるまでもないものが多い。まして期間中は大勢の人がグラウンドを出入りするので、11月祭でごみ分別を主導する環境対策委員会が働きかけてどうにかなる話でもない。随分と説教臭くはなるが、第三者がごみを片付けているというこの問題は早く解決されるべきであるし、そのための方策は、利用する各人が常識ある行動を心がける、この一点に尽きるのではないだろうか。(国)

関連記事